其の二十九
私は如月さんが偵察に使ったのだと云った建築途中のビルの屋上にいた。屋上と云っても未だ鉄筋しかないのだが、見晴らしは良く件の男の家屋が眼下に見ることができた。
「一条さん、如月さん。作戦通りに。」
『かしこまりました。』
『了解。歩は高みの見物しとけ!』
無線から二人の了承の合図そして如月さんの《スキールニルの言葉》、ではなく《空断剣》から金色の光が迸った。雷の様な其れは夜に眩しく輝き、男の家屋の門扉を叩き割った。ガッ、ゴォ!!と轟音が撒き散らされ、警備していた者達が慌ただしく集まってくる。あの用心棒集団の、今は残党とでも呼ぶべき者達だ。当の彼等は其の事実を知らないだろうが。
如月さんは《空断剣》を宙空で自在に操り、ばたばたと痛快そうに薙払っていく。其の取りこぼしを一条さんが太刀で確実に仕留める。そういうスタンスだ。
「……私も準備しないと。」
背負っていたライフルバッグを開け、Kirschblüte001を取り出した。其の銃口を向ける。家の中で未だいる彼は逃げるか思案しているらしい。其の辺りの判断の遅さは一般人のようだ。
『歩、彼奴逃げたか?』
「未だみたいです。そちらは大丈夫ですか?」
『怪我はなし。一条が張り切ってるから結構やりやすい。』
「そうですか、よか……」
話に集中し過ぎたか。背後の気配に気付くのが遅過ぎた。どっ、と足元に衝撃があり、鉄筋から足が離れた。
「あ……」
「呆気なかったなあ、指揮官様よぉ!」
男がいた。用心棒集団の人間だ。落ちながら顔を確認する。どうやら二人いたようだ。あの笑顔は自身の長に似たかにやにやと気味が悪い。
私は、落ちながら手の中のKirschblüte001を見た。作良さんの想いがこもった狙撃銃。此れを持ったまま真逆落ちて死ぬ心算はない。
Kirschblüte001を構え、銃口を男の一人に向ける。
引き金を引く。撃鉄が響く。銃火が輝き、銃弾が闇を刺し、男の肩を貫いた。私の身体にも勿論衝撃が来たが狙撃銃にしては微々たるものだった。
そのまま私はKirschblüte001を回転させ、銃身を握った。銃床を鉄筋に引っ掛け、何とか落下死を免れる。トッと直下の鉄筋に着地して、態勢を整える。
『歩、大丈夫か!?何かあったのか!?返事しろ!』
『お嬢様!無事なら返事を!』
焦った二人の声が耳を打ち、私はしっかりと返事する。
「大丈夫です、ちょっと足を踏み外しました。一条さん、如月さんはそちらに集中してください。参宮さん、すみません此方で戦闘になってしまったので逃さないようにお願いします。」
『裏口は押さえてるけど、ボク戦闘力皆無だからね。分かってるよね?』
「はい、フォローはしますので。如月さん、7割削れたら一条さんに連絡を。一条さんは連絡があり次第参宮さんの方に向かってください。」
『一条、25秒経ったらトールの所行け。』
『了解しました。』
其の後、二人の声が聞こえなくなった。無線が切れたのだ。私も鉄筋から鉄筋を移動しつつ、上階を見上げる。男二人は苦々しい顔で私を睨んでいる。私は直ぐに屋上に戻り、Kirschblüte001を構えた。
「尻尾を巻いて逃げれば良かったものを。」
「其れは此方の台詞です。」
「狙撃手風情が、近付かれた時点でお前の負けなんだよ!!」
肩を撃たれた男が、しかし其の屈強な身体で私を再び落とそうと突進する。詳細は分からないが異能力でブーストしているようでもあった。鉄筋を揺らして私を落としたのも彼らしい。足場が悪いところで勢い任せに突っ込んでくるとはと内心呆れつつ私は身体を捻って其れを躱し、Kirschblüte001を回し、銃身を再び持った。回転そのまま銃床で男の頭部を強打する。頭蓋骨が割れる様な凄まじい音がして男が悲鳴も上げることもできずに落下していく。
「おま、お前それっ、狙撃銃で何てことしてんだっ!!」
本当にごもっともと云ったところだが此れがKirschblüte001本来の使い方だ。其れを敵に教える心算もない。
「くそ、ぶっ殺してやる!」
男も正面から私に飛びかかって来て、手を伸ばしてきた。私に触れようとしている。多分、指先がほんの少しでも触れたら異能力が発動するのかもしれない。
私は銃床で其の手を打払い、半回転させてKirschblüte001の引き金に指を置いた。男の額に銃口を向ける。男はひっと引き攣った声を上げ足を踏み外した。ぎゃあああぁぁと悲鳴が尾を引いて消えていく。
「初陣にしては微妙な勝ち方でしたね……」
ね、作良さんと私はKirschblüte001を一度撫でた。Kirschblüte001は答える様にきらりと輝いた。
▽
男は走った。暴虐から逃れるために。理不尽から逃れるために。
死から逃れるために。
「だからっ、だから異能力者は嫌いなんだっ!!」
男は叫びながら何かを抱えて裏口へと逃走する。高い金で雇った用心棒達は次々に殺され、役に立たない。盾にも時間稼ぎにもなりはしない。逃走用の裏口に逃げなければならない程切迫した状況になっていた。
男は走る。外に出た。車が一台止まっていた。
夜明けが近いのか空が徐々に白み始めてきた。
「おい、お前っ!!早く俺を逃がせ!!」
男は車に飛び乗り、唾を飛ばしながら指示した。運転手は、はいはーいとゆったり答えてエンジンを付けた。
「何処かの駅で降ろせ!早く行け!」
「落ち着いて落ち着いて。大丈夫だって。」
「何をっ、根拠に。」
「そろそろ日の出だね。」
意味の分からないことばかり云う運転手に苛立ちが増し、男は運転手に殴り掛かろうとした。
すると、不意に気付いた。足が固まって動かない。
「異能力《アルヴィースの言葉》。」
運転手、トールもとい参宮叡が笑う。
「お前っ、用心棒の奴等じゃ……っ!」
「ないんだよね、此れが。いきなり乗ってきたから吃驚しちゃったよ。」
膝から下が完全に石になっている。そして、其れはどんどん上へと進んでいる。
「助け、助けてくれ!!」
「助けますよ。」
窓が割られ、手が男の襟首を掴んだ。引き摺り落とされ男が見たのは濃紺の厳しい眼光。
「助けたからと云っても其れが救いになるとは限りませんが。」
男に衝撃が襲った。意識が落ちる。
「一条君、おつ。」
「お疲れ様です、参宮さんこそご無事で何よりです。」
一条と参宮は労い合って、意識を失った男を見た。一応、男が動けない様に縛り上げる。
「一条君、石になってない?大丈夫?」
「はい、一瞬でしたし問題ありません。」
なら良かったと参宮が安心していると、瑠衣が現れた。矢張り血塗れだったが怪我はなく険しい顔をしていた。
「なあ!歩は?此方来たか?」
「いえ、ですが、無線もありますから。」
「んな悠長なこと……!!」
瑠衣は怒りと焦りに満ちた顔で辺りを見回す。そうしてばたばたと駆けていった。其の先では歩が歩いて此方に向かっており瑠衣が歩にバッと抱き締めた。
「莫迦ーーっ!!」
「如月さん如何したんですか……?」
「莫迦莫迦莫ぁああ迦っ!!」
「ええっ……?」
歩は分からないという顔をしながら瑠衣を抱き締め返して頭を撫でた。瑠衣は歩の肩口に顔を埋めてぎゅうぎゅうと歩を強く抱き締めて続けているのだった。
▽
如月さんにいきなり抱き着かれて流石に吃驚したが、何とか宥めて報告を受ける。男を拘束することもでき、作戦はほぼ成功したと云って良いだろう。誤算は私が戦闘することになったくらいか。
「アタシが彼処で偵察してたのバレてて、彼処にまた来ると予測されてそれで歩が襲われたんだと思う。」
ごめん、と謝罪する如月さんにそんなことないですよと返した。実際、私の不注意が招いたことだ。如月さんが気にする必要はない。
「それで、此のケースは一体……」
男が抱えていたのは大きなケースだ。鍵が何重にも掛けられ厳重さが伺える。
「……分かりません。ですが、大事なものなのではと。」
「お金も何も持って行かずに此れだけ持ち出したんだから重要なものかもね。」
一条さんと参宮さんの証言に私は開けて見てみましょうかと提案する。三人が賛成してくれて、私は白衣の裏に仕込んでいる針金を使って鍵を解錠していった。
「終わりました、開けますね。」
特に危ないものは入っていないらしく、異能力も反応していない。それでも気を付けて開けると。
掌に載る程小さな漆黒の立方体が緩衝材のスポンジに埋まっていた。
「……何、此れ?」
「黒い、箱?」
如月さんと参宮さんが首を傾げる。
「裏に何かあるのかも……」
私は、漆黒の立方体を手に取った。
瞬間。
頭の中でパァン!と銃声の様な音がして何かが弾けた。
そして、世界が暗転した。
▽
痛い苦しい助けて怖い嫌だ痛い何で何で何で何で楽に死ねるって云ったのに何で痛い痛い助けて死にたくない死にたくない幸せになりたいだけなのに足が揺かない騙された裏切られた許さない赦さない何で怖い死にたくないやだやだやだやだどうして幸せになりたかっただけ手がやだいや怖い寒い熱い痛い気持ち悪い息ができない寒い助けてあの女救いなんて嘘嘘つき裏切り者痛い目が見えない冷たい暗い血が約束守れなかった悪寒が止まらない頭が痛い壊れる死なせて死ねない痛い熱いもう良いわたし真っ暗白殺して血血血痛い内臓苦しい笑い声孤独何で死にたい救い殴ぼく負死恐死死死死死死死死死死死死死無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無
▽
此れは、死だ。無数の人の死だ。死が、死の恐怖が頭の中に満ちて溢れて零れて。
ああ、でも。
私はもう其れに慣れてしまっているから。
「私はあなた達みたいに壊れられない。ごめんなさい。」
助けることはできない。苦しみから、痛みから解放することはできない。私は救えない。共感できない。だから、謝ることしかできない。如何やら此の箱には死の恐怖が抽出されて圧縮されているようだった。そして、此れに触れた者は其の死の恐怖を追体験することになり、耐え切れず精神が崩壊するようだった。其の効果を利用して触らせた後精神崩壊させて殺すという残虐な手段を取っていることもあった。
「ごめんなさい。一緒に壊れられなくて。ごめんなさい。助けてあげられなくて。でも、あなた達の気持ちが報われる様に私も頑張っていくから。」
世界が戻ってくる。視界が現実を映し始める。
「歩?」
如月さんの顔が視界いっぱいにあった。
「如何したんだ?ぼーっとして。」
「……此の黒い箱、触らない方が良いかもしれません。」
私は端的に黒い箱の正体を説明した。如月さんと参宮さんはどんどん今にも泣いてしまいそうな悲痛な顔になり、一条さんも唇を噛み締めていた。
「首領や中原幹部に報告して対策を考えることになると思います。ですから、今日の作戦は終了ということで、皆さんお疲れ様でした。」
ありがとうございました、と心からの気持ちで頭を下げた。三人が何を思ったかは分からない。本当は作戦の成功をお祝いしたかったけれど、そういう雰囲気でもない。私達は無言で帰路に着いた。
誰もが何かを考え、其れを口にしない朝だった。
▽
議場にいた首領と中原幹部が私の報告書に目を通していた。私は背筋を正して様子を伺う。
「死の恐怖を抽出……か。そういう異能力者がいるのかもしれないね。」
首領の推測に肯定した。黒い箱に関しては解析班に触れない様にと注意して渡してある。男については姐さんの拷問班に任せる心算だ。
「リアレス教団の目的は此れで分かったことになるかな。あとは紅葉君の腕次第ということになるね。」
「姐さんなら必ず情報を掴んでくれますよ。安心して待ちましょう。」
中也君の云う通りだ、と首領は頷いてみせた。首領と姐さん、そして中原幹部の目に見えて信頼し合っているのが分かる。私は未だ下っ端なのだと改めて思い知る。
「あと、気になったのは王の写本のメンバーを部下にしたというところだけど。大丈夫なんだね?」
其れは首領に危害を加えないか、という意味だろう。ついでに中原幹部から視線を感じた。此方は少し違う意味の視線な気がする。私は大丈夫です、とどちらの意味にも強く返した。首領は私をまじまじと見て、君が云うなら大丈夫だろうと納得してくれた。参宮さんについては認められたと思って良いだろう。
「歩君の働きのお陰でリアレス教団に着実に近付いているよ。此れからも君の幹部としての活躍に期待しているよ。」
「光栄です、首領。より一層励みたいと思います。」
「けど、今はゆっくり休むと良い。顔色が余り優れないようだから。」
「……ご厚意に感謝致します。」
では今日は此れでと私は下がった。中原幹部と少し話したかった気持ちもあるけれど、多分首領と話がある筈だ。諦めて私は執務室に戻る。
「ただいま戻りました。」
「おかえりなさいませ、お嬢様。」
出迎えてくれたのは一条さんだった。
「如月さんと参宮さんは……」
「お二人は挨拶に出掛けたようです。」
「大丈夫でしょうか、疲れていた筈なのに。」
私が心配していると、一条さんは私専用のマグカップに紅茶を注ぎ、手渡した。ハーブティーなのだろうか、芳しい香りが鼻腔を擽る。
「上司が不休で働いているのに部下が休む訳にはいかないものですよ。」
「そんな……でも……」
「俺達を休ませたいなら、貴女が先ずお休みになられてください。」
子どもを諭す様な口調に私は苦笑しながら分かりました、と頷いた。一条さんも私を想って云ってくれているのだから無碍にはできない。私はソファーに座りハーブティーをゆっくり喉に流し込み、今日は一先ず休むことに決める。姐さんの拷問の結果を待ってから行動しても問題はない筈だ。
その時、コンコンとドアを叩く音がして私は思わず立ち上がった。一条さんが俺が出ますからと私を座らせてドアの方へ行ってしまった。仕事だろうか、と考えつつ紅茶を飲み干し待っていると、一条さん、ではなくやって来たのは中原幹部だった。
「あ、え、中原幹部……?」
「おう、お疲れ歩。休んでるところ悪いな。」
「いえ、大丈夫です。何か急ぎのご用件でしょうか?」
中原幹部は急ぎじゃねェけど、と私の隣に座った。
「俺に話があったんじゃねェかと思って。」
私が大したことじゃなくて、と首を横に振ると中原幹部は苦笑して、私の頭に手を置いた。
「大したことじゃなくて良い。手前の話は何だって聞きてえ。」
私の髪を梳く中原幹部の柔らかな表情に私は胸がきゅっと締まる様な心地がして、手持ち無沙汰にマグカップを取った。
「詰まらない、というか聞いてて気分の良いものじゃないと思うんですけど……」
中原幹部にあの黒い箱のことを話した。何人分かは分からないが多くの死の恐怖が無造作に煩雑にあの小さなものに押し込まれていた。
「私が壊れなかったのはあの中にあった死の恐怖の殆どが痛みに由来するものだったからです。死に関わる痛みは此の身体も心ももう慣れてしまっていて……」
私は言葉を探し、中原幹部の顔を見つつ話した。中原幹部は私の頭を撫でる手は止めずに真剣な表情をしており私は話を続ける。
「でも、悲しくないってことじゃなくて。……あの中にポートマフィアの方がいたんです。異能力者に大切な人を殺されて、強い力が欲しかったのに自分には力がない、だから異能力がない世界があるならと思ってリアレス教団に入ってしまった人で……そういう人に少しだけ同調してしまう自分もいて辛くなって、でも其れを皆に見せたら駄目だと思ったから……」
ポートマフィアには強力な異能力者が多いから尚更羨ましく思えてしまうのだろう。リアレス教団が漬け込むには十分な理由だった。私も強い異能力を渇望していた時期があるから、何となく分かる。
それにポートマフィアの人ならもしかしたら何とかできたんじゃないか、と思えてしまう。リアレス教団への対策が不十分だったんじゃないかとも考える。幹部代理として、できることがあったんじゃないか。
仕事と私情が混ざり合ってぐちゃぐちゃしている、気がする。
「すみません、上手く説明できなくて……」
「……否、話してくれてありがとな。」
前の手前はそういうの全部抱えて一人で突っ走る奴だったからな、と中原幹部はがしがしと強く頭を撫でた。
「悲しくなっても辛くなっても良い。其れは悪いことじゃねェんだ。部下に其れを見せないのも正しい。手前は十分頑張ってるよ。」
「……そうでしょうか。」
「幹部と云っても部下全員に手を差し伸べることはできねェよ。俺もそうだ。芥川の訓練で死にかけてる手前を救うことができなかったのも、作良が両足を失った後、手前が地方に行ったのも知ったのは随分後だった。其れに手前と初めて会った時や王の写本のことでだって俺は直属の部下を何人も……」
中原幹部はギリと歯を軋らせた。中原幹部だって気丈に見せているが、本当は誰よりも苦しんでいるのだ。なのに私の話を聞いてくれて、励ましてくれる。
私も中原幹部に何かできたらと思うのに。如何すれば良いのか分からない。
「明日何処か行かねェか?」
「明日、ですか?」
「彼奴等に休めって云われてるだろ?俺も同じ様なモンだ。だから、まあ二人で何処かのんびりぶらつかねえか?」
そういえば一条さんに休むように云われていた。中原幹部の休日の邪魔にならないなら同行しても良いかましれない。私がそう伝えると中原幹部が呆れた顔で云った。
「同行するって未だ俺の部下気分か?手前は俺の何だ?」
両頬をぐにっと摘まれて揺さぶられる。
「あぅう」
「彼女だろうが。つまりデェトだ。分かるか?」
「デェト……」
「彼女っつうかプロポーズしたし婚約者か?」
「こんやく……!?」
中原幹部が手を離して腕を組んだ。手前気付いてないだろ?と低い声で問われれば何にですかと私は緊張気味に応じる。
「先ず俺は成人済みで歩は17だ。手前は親の許しがあれば法的には結婚できる。手前の保護者は今は首領だ。つまり首領の許可さえあるば俺達はいつでも結婚できる。」
「首領が許可なんて……」
「許可はもう取ってある。」
「は!?」
私の間抜けな声が執務室に響き渡った。中原幹部は得意気に微笑む。
「つまり後は手前次第って訳だ。」
開いた口が塞がらない、とは此のことだろう。結婚、なんてそんな2文字頭の隅にもなかった。今は結婚と婚約が頭の中をぐるぐるぐるぐるしている。
「手前には未だ刺激が強過ぎたか。」
中原幹部は私の頭をぽんぽんと軽く叩いてソファーから立ち上がった。
「明日の朝、迎えに来る。」
去っていく中原幹部に私は何も云うことができなかった。ただ呆然と中原幹部の背中を見送ることしかできなかったのだ。
▽
「歩のことで話があるんだけど。」
中也が歩の執務室に向かおうとした時だった。中也が自身の執務室を出た先で待ち構えていたのは如月瑠衣だった。
「分かった。入るか?」
「どっちでも。ただ覚えておいて欲しいってだけだし。」
瑠衣は冷めた声で云った。歩の元にいる時の明るい印象は鳴りを潜めている。中也は壁に背を預け、瑠衣に先を促す。
「吾妻曹司って奴のことは知ってるか?」
「いや……知らねェな。」
「歩を殺しまくってた奴だ。」
中也の顔色が変わる。歩の異能力を悪用し、また歩を散々傷付けていた男の名だと分かれば中也も平静ではいられる筈もない。
「アタシも少ししか知らない。でも彼奴の異能力は精神修復だけじゃないらしい。」
「どういうことだ?」
「此れは本人が云ってたんだけど……」
瑠衣は吾妻曹司と会った時のことを思い出した。と云っても彼女も幼い頃の話だ。難しいことははっきりと覚えてはいない。
「精神を皿だと仮定するとさ、皿は落ちたり衝撃を受けたりすると割れるだろ?で、割れた皿を直すために接着剤とかボンドとかそういう類いのものを使う。」
其の接着剤やボンドが吾妻曹司の異能力なのだ、と瑠衣は語った。
「皿が割れたらまた其の接着剤を使って直して、其れを無数に、粉々になっても繰り返して……そうするとさ、皿ってどんな状態になってると思う?」
「そりゃあ接着剤の付いた部分が多くなって……真逆。」
中也はある結論に瞬時に辿り着いた。瑠衣は目を伏せた。
「そういうことだ。接着剤の面積が多くなる。つまり吾妻曹司の異能が精神に張り巡らされ、歩の精神を占有するようになるってことだ。」
瑠衣は厳しい声で云った。
「歩は吾妻曹司に乗っ取られる可能性がある。」
「吾妻曹司は死んでるんだろ?そんなことが……」
「歩の中で吾妻曹司は精神体として生きてるってことだろ。現に歩が夢の中で会話したって云ってたしな。」
瑠衣は話すだけで神経が逆撫でられている感覚を覚えていた。
「精神干渉系は此れだから嫌いなんだよ。死んで尚人を苦しめて弄ぶ。」
「……其の吾妻曹司はどういう奴なんだ。」
瑠衣は間髪入れずに答える。
「歩への仕打ちで分かるだろ?クズってことだよ。」
中也はそうだなと詰めていた息を吐いて応えた。
「如月が云いたいことは分かった。歩のことは気を付ける。だが、ある意味手前等直属の部下の方が歩を助けられる場合もある。」
「分かってる。ちゃんと、頑張るよ。歩が死なないように。歩が自分らしく在れるように!!」
瑠衣は中也をビシリと指を差して宣言した。今回の作戦のことを瑠衣は相当気にしていたのだ。吾妻曹司のことも相談されているから尚更だった。推測だが歩から吾妻曹司を呼び起こすトリガーは死だ。ならば彼女から死を遠ざけなければならない。今回のようなことは本来あってはならないのだ。
「云いたいことは其れだけだ。じゃあな。」
「あぁ、手前もあんま根詰め過ぎるなよ。」
「アタシに優しくすんな!!全部歩に回せ莫迦野郎!!」
そう云い捨てて瑠衣は脱兎の如く走り去った。中也は噴き出し、声を上げて笑った。
「お前、どんだけ歩が好きなんだよ。否、お前等……か。」
▽
「婚約、結婚、デェト……」
私が呟いているところに一条さんと如月さん、そして参宮さんが帰って来た。三者三様同時に如何したのかと尋ねられて私は動揺したままに云った。
「私、婚約してて、結婚できて、デェトするらしいんです!!」
「ごめん、ちょっとアタシには分からない。」
「中原幹部と現在婚約していることが発覚、法的にも結婚できる状態にある。また、デェトする予定がある如何すれば良いか分からない、ということでは?」
「一条君、エスパー?」
一条さんの解説に私は首を縦に数度振った。如月さんはへえーと気の抜けた声を出し、参宮さんはパチパチと拍手した。
「トール、アンタ歩が好きなんじゃなかったか?」
「推しが幸せならOKです!!」
「ああ、そう……」
如月さんと参宮さんが話している間に一条さんが私の元に近付いた。
「お嬢様、先ずは一旦落ち着きましょう。紅茶を淹れて参ります。」
私が握っていたマグカップをするりと抜き取り、キッチンの方へ向かっていった。直ぐに戻ってきた一条さんは私にマグカップを差し出す。先程と同じハーブティーで、私は其れを半分程飲み干した。
「一条さん、ありがとうございます。取り乱してすみません。」
「いいえ、参宮さん同様俺もお嬢様が幸せそうで何よりです。」
「そんな……リアレス教団のことも解決していないのに……」
幸せなど感じていて良いものなのだろうかと私が苦笑すると、一条さんは良いんです、と語気を強めて云った。
「プライベートと仕事は分けて考えるべきです。でなければいつ貴女の心は休まるというのでしょうか。」
「そう、ですね。一条さんの云う通りです。」
今まで仕事のことしか考えてきてこなかった私には耳の痛い話だった。私は深呼吸をして、ハーブティーを口に含んで考える。
「……一条さん。」
「はい。」
「その……お弁当を作って持って行くのは困りますかね……?」
私がもごもごと問うと、一条さんはいつもの無表情を少し和らげる。
「中原幹部ならば喜んで食べてくださることでしょう。ですが、中原幹部が食事処などの予約を取っている可能性などもありますから確認は取って然るべきかと。」
「そうですね……じゃあメールで確認してから買い物と下準備をしないと……」
確認した後、其の買い物も三人が協力してくれて、ついでと云ってはなんだが一条さんと参宮さんのマグカップも購入して本部に戻ったのだった。
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