其の二十八

 此の世界は理不尽に満ちている。理由のない暴力、罵詈雑言。無慈悲な離別や掠奪。心当たりのある者が多い筈だ。そして、我々は其の苦境に対して如何なる手段を以ても抗えないのである。努力は報われず、祈りも願いも届かない。何故なら、

 此の世界は作り物だからである。

 白紙の文学書というものが存在する。其れに書いたことが現実になるとされる、世界さえも生み出せる超自然的物体だ。しかし、実際に此れは存在する。其の存在の証明として最も顕著なのが異能力者だろう。彼等は常識では考えられない現象を起こすことのできる特殊な力を有する者を指す。知っている人間も少なからずいるだろう。異能力者は社会に進出し活躍している者も多い。此の異能力者こそが白紙の文学書における主人公に該当する者達である。物語には主人公が存在する。彼等は決まって何らかの力を持っていたり、有利に物事を進めることができる。

 そう彼等こそ此の白紙の文学書により生み出された此の世界の主人公なのだ。

 ならば、我々は一体何者なのだろうか。あらゆる面で凡庸であり、何の力も持っていない我々とは何か。そう、此の世界では名前のない、例えば村人Aといった群衆の一人でしかないのだ。

 そんな名前を持たない群衆に、理不尽や無慈悲が降りかかろうと物語を左右することはない。我々という存在そのものが無意味なのだから我々の運命に価値などない。

 代わりに異能力者はあらゆることが許され、優遇される。例えば、罪を犯そうとも野放しにされている者が多い。労せず富と権力を得た者がいる。

 此の世界は異能力者という主人公を中心に回っている。異能力者に与えられる試練は必要な分だけ。乗り越えられる試練ばかりだ。そんなことは普通あり得ない。運命は皆平等に禍福を与える筈だ。しかし、此の世界は違う。

 代わりに其の異能力者に降りかかるだろう困難、災い等を我々が引き受けることで世界の平衡を保っているのだ。

 ならば、我々は如何すれば良い。如何すれば理不尽な因果から逃れられる。

 即ち、白紙の文学書より生み出された此の世界を脱却すれば良い。此の世界は夢のようなものだ。目覚めれば本当の世界に戻れるのだ。

 目覚める方法は簡単だ。

 此の世界における死、其れこそが我々を救済する。死から覚めれば幸福な世界が待っている。

 白紙の文学書より作られた偽りの世界に囚われた者達を解放するのが我々リアレス教団である。


 死の香りが充満している、そう思った。薄暗い廊下に血と薬品の匂いが濃く漂っている。右隣で如月さんが露骨に顔を顰めていた。

「お嬢様。」

 左隣にいる痩身の彼は一条颯さん。以前、私を襲撃した芥川さんに認められたいと願い私が力を貸すと決めた青年だ。彼は芥川さんの遊撃隊に所属していたが、今は異動という形で私の元にいる。何故か私をお嬢様と呼ぶのだが……止めるといつもは無表情なのに一寸悲しそうにするので私が折れたという経緯がある。

「先行して様子を見て参りましょうか。」

「……いえ、未だ教徒が潜伏している可能性があります。其の場合は私の異能があった方が優位性も安全性も取れますから。如月さん、気分が優れないようなら一旦離脱を。」

 如月さんは咳を二三度して、両頬を叩いた。パン!となかなか痛そうな音がして如月さんは其の痛みに肩を震わせていたが、大丈夫だと応えた。

「ごめん、一寸酔った……。」

「本当に無理しないでくださいね。」

 しねえよ、と私の頭をくしゃりと撫でてずんずん先に進んでいく。がしゃがしゃと彼女の歩調に合わせて担いでいる大剣が上下に揺れた。

「彼女は何というか……こんな表現をしては失礼かと思いますが戦闘狂のイメージがあって、血など慣れているものかと思っていました。」

 一条さんとしては戦闘訓練で嬉々として自分を追い詰める如月さんの印象が強いのだろう。大剣を自在に操り、余裕の笑みと共に容赦なく敵を屠る。しかし、実際のところ彼女は繊細なのだ。自分の中の正義が揺らぐことを常に恐れていて、人の感情に敏感だ。何より死が怖いのだと思う。自身のではなく、他人の。特に身近な人物や何の罪もない人物の死を恐れている、そんな気がした。

「リアレス教団は何がしたいのでしょうか。彼等の所持する経典を読みましたが……空想と異能力者に対する差別が入り混じった説得力のないものです。」

「けれど、其処に真実が在ることもまた事実です。白紙の文学書は実際に存在しているものですし、世界を生み出すことも恐らく可能でしょう。他にも異能力者という存在が社会進出し、其の力を利用して富や権力を得ているのもポートマフィアや組合が其れを証明しています。……ただ、其れは異能力者全員が該当する訳じゃありません。」

 私と一条さんは如月さんの背中を追いながら廊下を進んだ。フィラメントが切れ掛けた電灯が跳ねる様に点滅している。

「実験動物、戦争の道具……人間として扱われなかった異能力者、貧民街で飢餓に苦しみながら一生を終える人だっています。異能力者全員が満ち足りた幸福な生活を送れる訳じゃない。」

 しかし思想の違いから私達ポートマフィアが彼等リアレス教団を追っている訳ではない。

「此処だな。」

 如月さんが立ち止まったのは金属の扉だった。接合部は赤茶けていて今にも壊れそうだ。扉の前に立つと血と薬品の匂いがまた濃くなった。私はドアノブに手を掛けた。私の異能力、正確に云えば其の予兆である警鐘は鳴らない。如月さんと一条さんにそれぞれ目配せして、扉を開いた。

「──────、」

 此の光景を見たのは三度目だった。狭い部屋の中で人が密集していた。人々は黒い長衣を着ていて、全員が血を吐いて倒れていた。安らか、とは到底云えない。喉を掻き毟りながら死んでいった人、白目を剥き、口から血の混ざった赤い泡を噴いている人。

「生きている奴は……!」

 如月さんが顔を青くして一人一人を確認し始めるが、生きている人間はきっといないだろう。

「一条さん、人数の確認を個人を特定できるようであればお願いします。私は此の部屋を調べてから加わります。」

「かしこまりました、お嬢様。」

 一条さんは胸に手を当て頭を下げた後、仕事に取り掛かった。私は一度部屋を一周し、薬品の瓶や書類などを回収する。リアレス教団の全容は杳として知れない。故に少しでも情報となりそうな物を拾い集める。

 リアレス教団には経典が存在する。観光案内のパンフレット程度の薄さの本に其れが記されている。其の経典には簡潔に云えば死こそが救済だと書かれているのだ。

 今、リアレス教団の活動により集団自殺事件が横行している。私が現場に訪れたのは3件目、今回を除けばポートマフィアが確認しているだけで15件、死者は73名。其の中にはポートマフィアの構成員が少なからず含まれている。

 ポートマフィアとしては看過できない事件なのだ。

「お嬢様、確認終わりました。死者は38名、所持品から20名個人の特定はできましたが、其の中にはポートマフィア所属の構成員は確認できませんでした。」

「38人……過去最悪の死者数ですね。」

 此れでリアレス教団による集団自殺事件の死者は100人を超えてしまった。私は抑えられなかった嘆息を零し、如月さんの方を見た。如月さんはじっと死んでしまった彼等を見詰めていたが、やがて背を向け部屋を出て行った。此の部屋には後で処理班が来ることだろう。

「私達も報告に戻りましょう。」

「では車を入口近くに付けますので、少々お待ちください。」
 
 一条さんが駆けていく姿を見送り、私は如月さんの隣に向かった。如月さんは俯きがちに歩いていたが、口を開きぽつりと言葉を漏らした。

「アタシ、リアレス教団を許さねえ。此れは自殺で、死んだ奴等が其れを望んだんだって云われるかもだけど、違うだろ。だって此奴等は生きようとしてたんだ。今は苦しいけど、救いがあるのならって生きようとして……頼る人間を間違えた、それだけなんだよ。」

「如月さん……」

「……だからって焦ったりしねえ。アタシは戦闘馬鹿だからな、歩の云う通りにする。」

 入口まで向かうと、既に一条さんが傍に車を停めてくれていた。後部座席に乗り込み、本部へ帰還する。私が幹部代理になって初めての大きな案件、此れは未だ其のほんの一部に過ぎない。ヨコハマはリアレス教団を中心に闇に染まりつつあったのである。


「以上で報告を終わります。」

 今回の件について中原幹部に説明を終えた。中原幹部は私の作った書類を一通り見ると私の頭をそっと撫でた。

「あぅ、何ですか……?」

「労いと感謝。気分の良いモンじゃなかっただろ。」

 私は首を横に振り、仕事ですからと応える。死体の処理などは最下級構成員時代に幾度となくしていたし、リアレス教団に関しては中原幹部を主導に調査していることだ。中原幹部の力に少しでもなれたらと思う。

「自殺に使った薬品は梶井に調べさせているが……」

「名前は知らないですけど匂いに覚えがあって、梶井さんにはデータを送っておきました。其の薬品で間違いなければ……スプーン一杯以下の量で死に至る危険なものです。」

 しかも相当な苦痛を伴う。内臓を直接焼き焦がす様な熱と激痛に苛まれ、手足は麻痺し呼吸することもままならなくなる。血を吐き、もがき苦しみながら息絶える。

 ……其れは私の経験だ。
 何度も殺されてきた私の死の中の一つ。

「流通ルートを辿れば、尻尾くらいは掴めるかもな。」

「そう思って一条さんに一足先に調査していただいてます。」

「一条ってのは……あれか、芥川の所にいた奴を手前が引き抜いたって噂になってた。」

「はい。一応……事実です。」

 中原幹部はへえと相槌を打ってパラリパラリと書類のページを捲った。

「で、どんな奴なんだ?」

「優しくて、仕事もきちんと熟して身の回りのことまでしてくださって……とても優秀な良い人です。」

 芥川さんに蔑ろにされる理由が分からない程に実力のある構成員だった。それに如月さんや私で戦闘訓練も行っており、もしかしたら戦闘もできて仕事もできての完璧超人になってしまうかもしれない。

「手前は何というか……」

「?」

「否、何でもねェ。惚れさせんなよ。」

「えっと……私に惚れる物好きな方はそうそういないかと……。」

「いるから云ってんだよな……てか、其れだと俺が物好きみたいじゃねェか。」

 そういう意味で云った訳ではないが、確かに中原幹部には失礼な云い方だったかもしれない。私が謝罪すると違わねえけどと中原幹部は頬を掻いた。

「ま、物好きで良かったかもな。手前を俺のものにできて、好きだって伝えることができる……そういうのが幸せ、ってやつなんだろうな。」

「今は……自分の感じる好きも、中也さんがくれる好きも大切にしたいと思ってます。」

 だから、ちゃんと伝わっているし、伝えたい。
 中也さんが好きと云ってくれるのを信じたいし、信じて欲しいと思う。

「……俺達、結構回り道して漸く此処まで来たもんな。これからはお互いの気持ちをちゃんと伝えて、俺達のペースで前に進んでいけたら良いと思ってる。」

 中也さんが私の手を取り、柔く握った。私が握り返すと中也さんは吐息を漏らした。

「俺な、手前の事に関してはマジで狭量なんだよ。」

「そう、なんですか?」

「あぁ。俺以外の男と一緒に居て欲しくねェ。手前の優しさは全部俺だけに向けて欲しいし、俺の前でだけ笑ってくれたらって、な。」

 指が絡められて、きゅっと握り込まれる。其の気持ちは私にも分かる。中原幹部の傍にいたい、でもいられなかったあの時の私の気持ちと似ている。

「一条さんといるのやめた方が良いですか……?」

「できるのか?」

 私はう、と唸った。一条さんのことを今投げ出す訳にはいかない。けれど、中原幹部を傷付けたくない。私が悩んでいると、中原幹部は私の頭をくしゃりと撫で回した。

「分かってるっての、手前が途中で放棄したりできねェのは。」

 だから頑張れよ、と中原幹部は笑い、そして諭す様に云った。

「歩、手前が思ってる以上に手前の言葉に倣うなら"物好き"な奴は結構いる。……気を付けろよ。手前にこうして触れて良いのは俺だけだ。」

 私の頬を撫でる中原幹部に私は手を重ねて、中原幹部もですからねと念を押した。

 束の間の穏やかで温かい時間が流れる。こんな時間がもっと増えればと思う。そのためにもリアレス教団の件をなるべく早く解決しなければ、と私は決意を固めたのだった。

「よっ、彼奴元気そうか?」

 中原幹部の執務室から出ると如月さんと一条さんが待っていた。

「如月様、中原幹部を彼奴呼ばわりは、無礼かと。」

「別に彼奴でも良くね?何も減らないだろ?」

「減らなくても、駄目です。」

 一条堅すぎと如月さんが頬を膨らませる。私は苦笑しながらも二人が此処に居る意味を悟った。私の表情から一条さんが察したのか口を開いた。

「お嬢様のお考え通り……ご報告があります。」

「もう少し時間が掛かるかと……。こんなに早く仕事をしてくださってありがとうございます、一条さん。」

 一条さんは表情は変えず頭を下げて続けた。

「お嬢様の申し付け通り、例の薬の流通ルートを調べました。あの薬は法律で禁じられ、かつ元になる材料に稀少な物質があるため流通量そのものが少なく、2件しかありませんでした。その中で用途が明瞭でないものが1件。」

 一条さんが私に書類を差し出した。私は其れを受け取り、目を通しつつ一条さんの説明に耳を傾ける。

「此れがリアレス教団の教徒と考え、個人を特定しました。無職の男です。住所の詳細はそちらに。」

「……なら一度偵察して出入りや家屋の間取りなどを確認しましょう。行動はそれからです。」

「ならアタシが行く。歩は作戦立案に集中してくれよ。」

 如月さんがそう云って走り出そうとするので、私が止めようとしたが、その前に一条さんが彼女の前に素早く立った。

「俺が行きます。如月さんは待機を。」

「あ?一条、お前にはアタシ等みたいな目がないだろ。」

 自身の瞳を指す如月さんに一条さんは眉を顰める。私と如月さんにあって一条さんにないもの、其れが此の目だ。遠距離狙撃すら可能にし戦闘では相手の動きがスローモーションに見える程の精度、そして其の人間を光や闇として認識し、どのような組織に属しているかすら分かる。

「アタシにはアタシの、一条には一条のできることがある。此れはアタシの仕事だ。」

 如月さんの剣幕に一条さんは分かりましたと承諾した。一条さんは如月さんを心配してこのような行動に出たのだろう。だが、如月さんは強い。戦闘面だけでなく、精神面も。私は其の強さに絶対の信頼を寄せている。

「如月さんに任せます。一条さんは私と執務室に戻り、情報をまとめて作戦を練りましょう。」

「任されたぜ、歩。」

「……かしこまりました、お嬢様。」

 如月さんは改めて走り出し、私と一条さんは執務室へと歩みを進めた。


 如月瑠衣は一条颯が調査した住所の近くをぶらぶらと歩いていた。開発中の地域らしく建設中のビルなどが時折見られる。

「そういや最近は歩と一緒にいたから単独任務って久々だな……。」

 王の写本時代は寧ろ単独任務が多いくらいだった。多分だが、王の写本では自分は浮いた存在だったのだろう。特段何かした、という訳でもないのだが、あえて理由を挙げるとすれば、あの中では如月瑠衣、否、スキールニルは凡庸過ぎたのだ。
 オーディンの様に、ヴォルヴァの様に、苛烈にはなれなかった。
 ヴァフスルーズニルの様に狂うことができなかった。

「トールも金稼ぐ以外はてんで駄目だったけど……」

 トールには自分の確固たる意志があった。王の写本の中にあって曲げない揺らがない男だった。何より組織では孤独だったが、多くの人間に愛されている男だった。

「アタシは王の写本では誰にも頼られなかった。孤独だった。利用されて、されるがままで、ひたすら剣を振るい続けてきた。」

 今は違う。信頼されているのが分かる。一人じゃないのが分かる。命令や任務はある。けど、其れは自分の意志を尊重してくれる優しい言葉で溢れている。剣を振るう。傷付けるためじゃなくて、守るために、助けるために戦うことができる。

「にしても、一人ってこんな寂しいもんだっけか……」

 不安では決してないのだが、如何にも落ち着かない。

「ま、偵察にぞろぞろってのもおかしいし。云い出しッペはアタシだし……っと。」

 瑠衣は瞬間、物陰に身を潜めた。件の住所にある家に出入りがあったのだ。

「……あの感じ何処かで見たことあるな。」

 外出した男の纏う闇を瑠衣は見た。頭の中の記憶の引き出しを開けては閉じてあの闇の正体を思い出そうとする。

「んー、あー、歩だったら覚えてるんだろうなあ、クソッ。」

 頭をがんがんと叩き、背中に隠している大剣の柄を衝動的に握る。

「……お、思い出したっ!そうだ、此奴で、《空断剣》で何人か斬ったことがあるぞ。」

 前《スキールニルの言葉》という異能力名を取り、王の写本を抜けてから名付けた《空断剣》で斬り刻んだ者は数知れず。しかし、其の斬った記憶を、命を断ち切った彼等のことを瑠衣は脳の奥底で確かに覚えている。

「確か異能者の用心棒集団。金さえ払えば誰でも守るとか云ってた様な。……待てよ?」

 瑠衣は建設中のビルに入り、鉄筋を飛び移って屋上になるだろう場所に立った。此の高さでも人の顔まで見えるのが此の目だ。

「其奴等……中外含めて13人だな。で周囲を固めてる……。ってことは彼奴等異能力が如何とかこうとか云いながら異能力者の用心棒雇ってるのか。」

 瑠衣は意味が分からないと眉を顰めつつそのまま観察を続けた。朝になるまで監視したところ、出入りは此の用心棒集団と件の男だけだった。

「……此奴、そんな大それた役職なのか?アタシには理解できないけど、ありのまま歩に報告するっきゃねえか。」

 瑠衣は目を擦り、本部へと帰還する。特に写真も書類もないが、一条颯には怒られても歩には怒られないだろうと踏んでいる。

「笑えるくらい歩に甘え過ぎだわ!」

 瑠衣はケラケラと笑って走るのだった。


「あのポートマフィアから遣いの者がと連絡が入り、来てみれば……」

 ヨコハマに夜の帳が降りる。古びたビルの中層階一角で男の下卑た笑い声が響き渡る。組織の長である男の側には数人の腹心と思われる屈強な男達が並んでおり、男の笑い声に連なる様にして一斉に笑い始めた。

「可愛らしい若いカップルがお出ましとは!」
 
 嘲笑を浴びているのは確かに若い男女であった。一人は白衣を着た細く小柄な少女、もう一方は黒い膝丈の外套をきっちりと着こなす背の高い青年だった。

 青年は無表情ながら冷たい視線を男に向けた。

「お嬢様を愚弄する事は例えクライアントであろうと承服しかねます。どうか撤回を。」

「おっと、これは失礼。じゃあ、兄と妹か?嫌早健気な子どもの兄妹を寄越してくるとはポートマフィアは深刻な人手不足といったところか?」

 げらげらと男がまた笑う。青年の、濃紺の瞳に怒りの色が混じった。
 青年の肩に少女が手を載せた。青年は振り向き、目を見開く。

「ですが……」

「良いんです。こうなることは何となく分かっていましたから。」

 少女は首を横に小さく振り、青年より一歩前に立った。

「ご期待に沿えず申し訳ありません。ですが私は幹部代理という幹部とほぼ同等の地位にありますので、対応に不備はないかと。」

「幹部とほぼ同等?おいおい本当に人手不足か。こんな年端もいかない女の子を重要なポストに据えるなんてポートマフィア本気でヤバいんじゃねえか。」

 男に少女はそうですね、と小さく笑った。年端もいかないと云われたが此れでも17歳なのであるが。

「で?用件を聞こうか。」

「あなた達がリアレス教団に雇われていると伺いました。」

 男がぴくりと眉を上げる。しかし、表情は笑顔のままだ。

「事実だ。俺達はリアレス教団と契約関係にある。」

 少女は頷き、続けて尋ねる。

「単刀直入に云います。リアレス教団と手を切っていただけませんか。」

 男は取り巻きにちらちらと視線を送った後、間延びした声で告げた。

「……そうだなあ、そうしたいのは山々だがリアレス教団には大金を積まれてるんだ。」

 男は顎を撫で、少女に視線を浴びせた。隣の青年が素早く身体で少女を隠す。端から見ても不快な視線だった。少女は物怖じせずに提案する。

「500で如何でしょうか。」

「足りないな。リアレス教団はもっと払ってくれてるぜ。」

「……此処に1000……即金で払います。」

 男はにやりと口角を上げた。青年の持つ鞄に目を向ける。

「成る程なあ。」

「ポートマフィアは其れ以上払えません。」

「そうかそうか。なら交渉は不成立だ。リアレス教団は3000払ってる。」

「……そうですか。其れは、仕方ないですね。」

 少女は肩を落として、帰りましょうと青年に云った。青年はかしこまりました、と頭を下げて少女を先導しようとしたが、男の腹心達が立ち塞がった。

「其の金は置いて行って貰うぜ。序に幹部代理様を潰させて貰おうか。ポートマフィアの幹部を倒したってなりゃうちの会社も箔が付くんでね。」

「……下劣極まりない。」

 青年が男を睨み付けたが、少女は冷静に青年を宥めた。曰くこういう世界ではよくあることだ、と。

「そうだ。よくあることなのさ。ま、俺達全員異能力者だ。死にたくなかったら大人し……」

 少女が男の言葉の途中で片手を挙げた。丁度、大人しくしていろと脅そうとした時。青年の手にはいつの間にか太刀が握られていた。

 一閃。青年の刺突が男の首を貫いた。鮮血が噴き上がる。

 一瞬の出来事に取り巻きの男達は反応すらできなかった。

 青年は太刀を一気に引き抜く。どさりと男が倒れ、青年が太刀に着いた血糊を振り払ったことで倒れた男にびしゃりと飛んだ。

「呆気なかったですね、お嬢様。」

「一条さんが速過ぎたんですよ。」

 殺伐とした空気の中で、二人はのんびりと話しつつ少女の方はスカートの下、太腿のベルトから二丁の拳銃を抜いた。

 黒と銀、同じ型の9ミリ拳銃である。

「ポートマフィア幹部代理、歩です。残念ですけどあなた達には今此処で消えて貰います。」

 取り巻きの男達はここに来て慌て始めた。自動小銃を青年と少女に向ける。が、もう遅い。

 一人の太い首が斬り落とされる。一人の厚い胸板が撃ち抜かれる。ばたりばたりと男達が倒れていく。

 僅か数秒。十数人いた男達が血の海に倒れ伏していた。

「お嬢様、此れで全員でしょうか。」

「此方が処理する分は恐らく。あとは如月さんに任せましょう。」

 少女と青年は二人共無傷で部屋を後にした。上階からは悲鳴や断末魔が響いている。

「如何しても一条さんや如月さんへの負担が大きくなってしまいますね。あと数人人員確保ができたら良いんですけど……。其れに一条さんもいつか芥川さんの所に戻る訳ですから……そうなると如月さんへの負担が更に大きくなって……」

 少女は、歩は深く重く長い吐息を漏らした。自分の不甲斐なさや人望のなさ、何より現状の仲間への負担の大きさを憂いた。

「作戦上、これから移動の後また戦闘になるでしょうし……もっと色々考えないと……」

「お嬢様、俺は現状に不満はないですし何というかお嬢様の元で働くことができて良かったと感じています。芥川さんは俺個人に……こうして全幅の信頼をされることがなかったものですから。」

 一条は語気を強めて云った。其れは本心から述べられた言葉であった。これまで芥川の元にいて、一条は信頼というものを寄せられたことが一度もなかったと思っていた。否、感情の一つすらも一条には向けられていないとさえ感じた。戦場では、貴様は弱い、足手まといだ、弱者は去れと雑用全般ばかりしていた。芥川が積み上げる死体を見ては自分の無力を痛感した。

 役に立ちたい。居場所が欲しい。信頼が欲しい。

「最近、考えるんです。俺は芥川さんに固執していたけど……芥川さんである必要があるのかって。」

「……芥川さんに認められたいという気持ちは私も分かります。芥川さんと訓練していた時は自分の無力さばかりが浮き彫りになって……」

 芥川が悪い訳じゃない。芥川の異能力が戦闘に特化し過ぎていて単独で全て成立する最強の存在だった。そして自分の異能力は戦闘に必ずしも特化している訳でなく、自分の技術を磨かなければならなかった。物理法則すら無視する異能力に、ただ自分の技量だけで挑まなければならない。其れがどれほど無謀なことか。

 ただ、其の最強に一矢報いることができたら、と。彼に自分を認めさせることができたら、自分は此処に居ても良いんじゃないか、生きていても良いんじゃないかと。

 そう思ってしまうのだ。

「でも、芥川さんに認められることが全てじゃないんですよね。周りを見ると自分を認めてくれている人がいることに気付く、自分にはちゃんと居場所があると気付くんです。」

「……はい。広津さんや黒蜥蜴の方々は俺のことよく食事とか連れて行ってくれて、励ましてくれることもあったんです。其れを俺は蔑ろにしてきたんだと。」

 歩の元に来て、芥川から離れて。見えてくるものが沢山あった。自分の視野が狭くなっていたことも。

「芥川さんに認められたい気持ちは今もあります。でも、俺を信頼してくれた人達に、勇気付けてくれた人達を守るために強くなりたい。」

 一条が立ち止まり、歩も足を止めた。

「お嬢様、俺を使ってください。負担なんて気にしなくて良い。貴女が使いたい時に使いたいだけ俺に命じてください。」

 其れは歩に対する絶対の忠誠だった。歩は其れを目でも心でも理解した。歩は一条の手を取り、彼に視線を真っ直ぐに向けた。

「人を"使う"だなんて私には恐れ多いです。なので、一条さん。」

「はい。」

「信頼しています。」

「……はい。貴女の信頼に必ず応えてみせます。」

 一条は歩の手を握り返して、強い語気で応じた。

 其処にドンッ!!と轟音がして二人の目の前の天井が砕けながら落ちてきた。

「あっれ、歩に一条じゃん。未だこんな所いたのか?」

 何か手間取った?と首を傾げながら天井にできた穴から飛び降りてきたのは瑠衣だった。

「いいえ、異能力を使うまでもなく。」

「マジか、すっげえな!一条!……あー、でも、てことは1000じゃ駄目だったってことかぁ。」

 事情を察しつつも惜しみなく賞賛する瑠衣に一条は如月さんこそと手巾を差し出す。瑠衣は返り血塗れで髪も顔もどろどろだった。歩は心配になって一条の差し出した手巾を取り、血を拭い取った。

「如月さん、怪我はしていませんか?全部返り血ですか?」

「もち。余裕余裕。あ、それとさ……」

 右手で大剣を担ぎ、左手にも何かを引き摺っている。

「歩、覚えてる?会ったことあるだろ。トール。」

「トールって……王の写本の?」

 そうそう、と瑠衣が左手の何かを歩の前に放った。

「人を投げ付けるなよ!此のがさつおん……」

 がさつ女と暴言を吐こうとした高身長の青年トールが歩を見た瞬間、体と口を硬直させた。歩が首を傾けると、トールはうわああ!!と絶叫じみた悲鳴を上げた。

「ばっ、ばっ、スキールニル、キミ、莫迦じゃないの!?」

「はあ?何云ってんだ、お前。」

「だ、だって歩だよ、歩。」

 顔を真っ赤にしてもじもじとしているトールにはっきりしろよと瑠衣が頭をぽかりと殴りつければ、トールはかっと口を開いた。

「推しですっ!!!!」

 建物の中でトールの声がこだました。

「……推しだ?」

 瑠衣が怪訝な声で問うた。

「そうなんだ、スキールニル。一目惚れだったんだよ。情報は勿論知ってたけど、初めて会った時凄い刺さって……あの時は鼠の野郎もいたし、素っ気なくしか話せなくて本当もう最悪だったんだよ。」

 かなりの早口だったため、瑠衣はうんうんと頷き、簡潔にまとめる。

「つまり歩が好きな訳な。」

「めっちゃ好き!尊い!ボク歩のATMになるから、マジで!!」

 小さく可愛らしい声だが凄まじい熱量に瑠衣は呆れ、端で見ていた本人である歩は目を白黒させ、一条は危険人物かもしれないと刀柄を握った。

「如月さん、トールは此の組織の?」

「否、何だ?……監禁されてたんだよ。」

 トールは首を縦にぶんぶんと振った。

「あの研究所から出た後、何か捕まっちゃってさ……」

「どんくさっ」

「五月蝿い、スキールニル!ボクはキミと違って筋肉バカじゃないんだ!」

 瑠衣とトールが歪み合う中、歩はトールの前にしゃがみ、視線を合わせた。

「監禁されていたのだとしたら本当に無事で良かったです、トール。あなたにはとても助けられたから……あの時は本当にありがとうございました。」

「顔近っ、まぶっ!……否、此方こそ王の写本の暴走を止めてくれてありがとう。キミも苦しかっただろうに戦わせてごめん。」

 トールの顔が暗くなる。トールはあの時点で歩を、神と呼ばれた存在を擁護していた者だ。

「ボクはこんな半端というか使いどころが難しい異能力だからさ。あの時はキミの力にはなれないだろうと思って鼠のことも警戒してたし……見送るだけになってごめん。」

「謝らないでください。あんな厳しい状況で、力を貸してくださったんですから感謝の気持ちしかありません。」

 トールは涙を滲ませ、聖女かよと呟いた。瑠衣は頭をぽかりと叩いた。

「お前これから如何するんだよ。」

「動画配信引退したからニートなんだよね。」

「ま、再生数はあったから大丈夫だろ。」

「キミ達の活動費にほぼ持っていかれたけどね。」

 トールと瑠衣は相性が悪いらしい。ばちばちと火花を散らしながらふんと鼻息荒くそっぽを向いた。

「ということは彼は足を洗ったということになるのでしょうか。」

 一条が疑問をぶつければ、そこは曖昧なんだよねとトールがぼやいた。

「何せ引退配信してすぐ捕まっちゃってその後何もしてないから。マジでさっきまで引きニートならぬ監禁ニートだったんだよ。」

「其れは一旦置いておいても王の写本の配信者って感じだったからな。世間に広まってるし、何人か殺してるのは間違いないし、今から一般人になるってのは結構厳しい道のりかもな。」

 王の写本の悪名はヨコハマ中に轟いている。トールは人気配信者だったが、引退配信では山の様な誹謗中傷と低評価の嵐だった。トールが街を堂々と歩こうものなら卵をぶつけられたり、刺されることもあるかもしれない。

「お嬢様が、彼に信を置けるなら彼を雇っても良いかと思ったのですが。」

 先程、人員不足がと云っていましたしと付け加えた一条の言葉に全員の視線がトールに集まる。

「え、ボク歩の所で働くの?毎日天国じゃん。」

「未だ良いって云ってないだろ……」

 トールの夢見心地な発言に、瑠衣は呆れ返っていた。そんな瑠衣の様子を見て歩は質問する。

「……如月さんは、如何思いますか?」

「歩が決めたら良いんじゃね?」

「私は……例え賛成多数でも反対側の意見も聞いて、全員が納得できる答えを出したいと思ってます。」

 そういう奴だもんな、と瑠衣は歩の発言に納得しつつ改めて解答した。

「アタシは概ね賛成はしてる。トールはまあまあできる奴だし。性格はちょっとあれだけど。心配要素は此奴の異能力がピーキー過ぎるくらい?」

「そういえば、トールの異能力は……。」

 トールは歩の記憶に補足する。

「ボクの異能力は自分の存在する空間に在る生物を日の出と共に石にする異能力だ。コントロールとかはできないから本当に此の説明そのままの異能力なんだけど……」

「そうですか、任意の相手をという訳でもないんですね。」

 一条の分析にトールは頷く他なかった。

「いえ、責める心算ではなかったのですが。俺の異能力も使い勝手の良いものではありませんし、助け合えたらと思ったんです。」

「え、めっちゃ良い奴じゃん、キミ……」

 トールが感動していると、瑠衣がパンッ!と手を打った。

「とにかく、此れからまた移動だし作戦あるしもう此処で決めようぜ。トールを仲間にするか否か!」

 歩は頷き、全員の顔を見回して、厳かな声で云った。

「決を取ります。賛成の人は挙手を。」

 少しの時間の後、歩は微笑んだ。

「賛成多数ですね。これからよろしくお願いします、トール。」

「よ、よろしく。あ、名前……大して変わらないんだけど……参宮叡です。」

 トールが名乗るとやけに周囲が静かになった。

「さんのみや、とおる……」

 瑠衣が呟き、そしてぶふっ!と噴き出した。

「おまっ、とおるとトールって!まんまじゃねえか!」

「だから、ちょっと名乗るの憚られたんだよね!キミが絶対おちょくるだろうからね!」

 瑠衣は爆笑したまま参宮の背中をばしばし叩いて、行くぞ行くぞと大股で歩き出した。参宮は訳が分からないという顔で瑠衣について行く。

「お嬢様、車を用意しますので1分程お待ちください。」

「ありがとうございます。では、トール……参宮さんに作戦を話しつつそちらに向かいます。」

 いつまでも瑠衣と参宮のやり取りに微笑ましくしてはいられない。

 リアレス教団との戦いは未だ始まったばかりなのだ。

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