其の二
「お前は将来何になりたいんだ?」
「……?」
子ども達が公園で遊んでいる。木漏れ日の中でブランコを揺らしたり滑り台を滑ったり砂場で山を作ったり。
私はベンチに腰掛けそれを見守り、私の隣では織田作さんが本のページを捲る。そんな長閑な時間が流れていた。
「将来ですか?」
織田作さんは本を閉じ、私の顔を窺った。
「私は、何も。」
「何も……か。」
義務教育である中学を卒業後は働くことも視野に入れている。それで織田作さんの負担が少なくなれば重畳だと思っていた。
「俺や彼奴らのためか?」
「……え。」
「おやじさんから聞いた。」
お世話になっている階下の洋食屋のおじさんにはこの事を話していた。あと数ヶ月で中学生となる私の進路は早く決定しておくべきだと考えたからだ。
「……特にしたいことがないから。だったら働いて皆が楽に暮らせるようにしたいって。そう思っただけで。」
私の人生はあの時終わる筈だった。
激化した龍頭抗争により私の住んでいた街は火の海となり、多くの命が奪われた。
両親は崩れた瓦礫の下敷きとなり冷たくなっていた。私はそんな両親を置いて、頭をキリキリと痛ませる幾つもの鐘の音に苛まれ、その音がしなくなるまでひたすら走った。止まったと思えば鳴り響き、また止まったと思えば再開されるその鐘の音から逃げるように。
最終的に力尽きた私は近くの今にも崩れ掛けている家屋に入り、眠っている間に瓦礫に埋もれていた。しかし、五月蝿かった鐘の音はもう聞こえなくなっていた。
このまま両親のように死んでいけるものだと、そう思っていた。ずっと一緒にいようと云った両親との約束を果たせると思った。
其処に偶々織田作さんが通り掛からなければきっとそうなっていた筈だ。
「お前は優しいな。」
織田作さんが私に手を伸ばす。反射的にビクリと身体を震わせる私に織田作さんは微笑して、ポンと私の頭に手を置いた。
「未だ子どもなんだから、もっと大人に甘えれば良い。」
大きな手がさらさらと髪に触れる。それが少しこそばゆくて、でも嬉しくて。その手にぐりぐりと頭を押し付けた。
「如何した?」
「甘えてるんです。」
織田作さんはそうかと応えて少し相好を崩す。
暫くそんな温かな時間が過ぎる中でふと疑問を口にした。
「……織田作さんは将来の夢、ありますか?」
織田作さんは目を瞬かせ、ああと首を縦に振った。
「海の見える部屋で……小説を書きたいんだ。」
「海……」
海の見える部屋で小説を書く。
綺麗な青空の下、白い砂浜と透き通るような紺碧の海のすぐ傍にある小さな一軒家。大きな窓を開ければ海風がそっと肌を撫で、ふと顔を上げれば美しい水平線が見えるそんな書斎で。
織田作さんが原稿用紙と向き合う姿。
そんな情景を思い浮かべるだけで。
胸がきゅっと締め付けられた。
心臓の辺りから何かが込み上げてきて。
熱くて、痛くて。耐えることができずに。
ずっと押し留めてきたものが決壊するように。
「如何した!?」
心配かけさせたくないのに。
そんな思いとは裏腹に涙が止まらないのだ。
「な……何でも、ないっ」
「そんな事……!」
嗚咽を強く噛み殺して、涙をどれだけ拭っても収まらない。どんどん苦しくなってきて喉を痛めるような咳が出た。
「っ……ごめんなさっ」
「謝らなくて良いから我慢するな。」
織田作さんはコートを脱いで私に被せた。
「これで皆には見えない。」
「っ……!」
私は織田作さんに拾われてから泣いたことは一度もなかった。未だ小さい子どもたちの前で泣く訳にはいかなかった。
私は彼等の親にはなれない。絶対に。
だからこそ、親を失った彼等を守らなければならないと思った。
だって、家族なのだから。
できることは何でもした。
家事も基本的なことは全て身につけて、学業も安定した成績を維持して。
皆が困ることがないように、そのために。
強くなるのだと、支えるのだと。
弱さは絶対に見せないのだと。
不安になんてさせないと。
何度も自分に言い聞かせた。
両親を思い出す度に自分に戒めてきた。
そうすれば、涙なんて一つも出なかった。
「お前は充分頑張ってる。皆分かっている。」
だから、たまには弱いところを見せたって良いんだ。
織田作さんはそう云って私の身体に腕を回した。顔が織田作さんの胸に軽く付けられる。
汚れるからと離れようとしてもその腕は逃がしてはくれず、諦めてされるがままになった。
トクトクと、時を刻むように鼓動が耳を反響する。
赤子は母親の鼓動を聞くと安心するのだ、と誰かが云っていたのを思い出す。
赤子ではない、織田作さんは親でもない。だがその気持ちはよく分かった。織田作さんの鼓動を聞いていると徐々に溢れていた感情が鎮まっていくように思えた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫です。ごめん、なさい。」
「海は……嫌いだったか。」
織田作さんの寂しそうに揺れる瞳が目に止まった。
「ち、ちがう。違います。」
私は息を整えて彼の顔を見上げる。
「織田作さんが、海の見える部屋で小説を書くのを想像したら、幸せそうだなって思って。それで。そうしたら。」
涙が止まらなくなったのだ。決して織田作さんの夢を否定したいわけじゃない。
「そうか、なら良かった。」
織田作さんは小さく息を吐いた後、再び私を抱き締めた。
「織田作さん?」
「一緒に行かないか?」
砂色のコートを挟んでこもった声がそう云った。
「俗世から離れて、静かでそれこそさざ波の音しか聞こえないような場所で。俺は小説を書いて、お前はカレーを作ってる。」
またカレーですか、と私が笑うとああそうだと織田作さんは開き直り、腕の力を少し強める。
「書き終わった小説を一番に見せて、歩が真剣に読んでるのを眺めながら一息ついて。ご飯の支度すら忘れて読み更けるお前の代わりにカレーを作って。読み終わって、興奮した様子で感想を云っているのをまた眺めて。夜は好きな本でも読みながら並んだ布団で眠る。」
そうなったら幸せだと思わないか?
尋ねる声は小さく震えていた。
「……それは、私で良いんですか?」
「お前が良い。」
「何かの予行演習ですか。」
「本番だ。」
「12歳、小学生。」
「知っているが?」
「あの、プロポーズみたいですよ。」
「そうだな。」
そうだな、じゃない。
云う人を間違っている。
織田作さんならもっと美人で美味しいカレーを作ってくれる素晴らしい女性が見つかる筈だ。
「もし仮にそうなったとしてそれで織田作さんは幸せなんですか?」
「幸せだ。」
それを云われてしまったら。
私の名前を呼び、答えを聞かせてくれと請う低い声。
答えなんて、そんなもの。
「……幸せに、決まってるじゃないですか。」
しかし、その夢は夢のまま。
永遠に叶うことのない夢となってしまったのである。
▽
「わあ、美味しそう!」
「うん、Q君にあげるよ。」
昨日電車で貰った蜜柑を目の前の少年に手渡す。鉄格子の間から小さな手が嬉しそうに伸ばされ、私は一つ其処に置いた。
「食べても良い?」
「大丈夫。」
私はもう一つを取り出して皮を剥いた。蜜柑の甘い匂いが暗くじめじめとした座敷牢に充満する。
「それにしても僕に会いに来るなんてお姉ちゃんも物好きだよね。」
「そうかな?」
「だってみーんな、僕に近づきたくないと思うよ。そういう異能力だもん。」
Q君もとい夢野久作は自嘲にも似た笑みを浮かべていた。
「私はQ君の異能力、知らないから。」
「そっか。知らない人もいるんだね。」
「それで、どんな異能力なの?」
「教えなーい!」
にんまりと口角を上げて蜜柑を剥くQ君にそっかと相槌を打つ。蜜柑を割って口に含むと甘味と酸味が口内に広がった。美味しい、心からそう思った。
「お姉ちゃん、僕、また当分外に出られないよ。」
「如何して?」
「お姉ちゃん、本当に何にも知らないんだね。」
「大きな騒ぎがあった時なら病院にいたよ。訓練で頭打って。Q君外に出てたの?」
Q君は小さく頷いた。だが、その表情から楽しかったと言える状況ではなかったことが分かる。
「お姉ちゃんがいたら楽しかったかなあ。」
「どうだろう。好きなところには連れていってあげられるかもしれないけど、楽しくはなかったかもしれない。」
それでも良いよ。
Q君はそう云って笑った。
「僕は普通に生きてみたい。普通に生きれたらそれが楽しいと思うよ。……何でこんなことになっちゃったのかな。」
普通に生きたい。
それは叶わない願いなのだろうか。
こんな子どもに普通の生活を望ませる、そんな世界の何が正しいのだろうか。
ただ真面目に仕事をこなしていただけなのに殺されてしまう、そんな世界で誰が生きていたいだろうか。
否、これがマフィアの世界なのだ。
私が自分から飛び込んだ世界なのだ。
悲嘆はしない。
同情もしない。
蜜柑を一房口に入れる。
それはとても甘くて、どこか苦い味がした。
▽
座敷牢を出てすぐに声を掛けられた。
「よォ、一昨日ぶりだな。」
「中原幹部。」
「Qのところか?」
「はい、久しぶりに。」
中原幹部は頷いて、私に半歩近づいた。
私は翻って道を開ける。
「逃げんな。」
「逃げてないです。幹部様がお通りになられるので道を開けただけです。」
「別に此処に用事はねェよ。」
じゃあ、何故此処に来たのか。そんなツッコミを飲み込んで私は中原幹部の顔色を窺う。
「その……何だ。飯でも食いに行かねェか。」
久しぶりにその言葉を聞いた気がした。
中原幹部は私が芥川さんとの訓練のために配属が変わってもよく話しかけてくれた。ご飯にもよく誘われた。
丁重にお断りしてきた。
私には元から空腹という感覚があまりなかった。4年前は子どもたちもいた手前食べない訳にもいかずそれなりに食事を取ってきたが。
「すみません、お腹空いてないので。」
「なら、そこのカフェまで護衛しろ。」
中原幹部はくいっと親指でその方向を指した。
「中原幹部の護衛なんて私には荷が重……」
「つべこべ云ってねェでついて来やがれ。」
渋る私の右腕を無理矢理引いて中原幹部は歩き出す。大股で歩く彼に引き摺られるようにしてついていけば、すぐ其処にシックなカフェが見えた。
中原幹部は私を離して口を開く。
「此処のランチが美味えんだと。」
「そうなんですか、知りませんでした。」
ヨコハマの地理は全て頭に入っているため、ここにカフェがあるのは知っていた。お洒落で落ち着いた内装の高級感が漂う少し大人向けのカフェ。私一人では少し入りにくいような場所だ。
「中原幹部はこういう所似合うような気がします。」
「そうか?」
中原幹部は首を捻りつつ、店のドアを開けた。整った顔立ちの若い男性店員がやって来て、何名様ですか?と尋ねる。
中原幹部は二人だと答え、店員の指し示した席へとスタスタと歩いていった。
アンティークな木製の椅子に腰掛け、メニューを片手で捲る中原幹部に周囲の女性客の視線が集まる。
「おい、早く座れ。此処な。」
「……了解です。」
私は中原幹部が指した対面の席に腰を下ろし、メニューを覗く。珈琲の種類が豊富、それにランチの他にも軽食がかなり揃っている。
「俺は日替わりランチで良いが、手前は?」
「私はブレンドを。」
「オレンジジュースは卒業したのか。」
「何時の話してるんですか……?」
まだ二年前くらいだろ。
中原幹部が肘をついて不敵に笑った。
「二年も経てば色々変わってくるものですよ。」
ちょうど近くを通りかかった店員に注文し、メニューを差し出す。
「そういえば、左腕骨折したんだってな。」
「見ての通りです。綺麗にバキッと。」
ギプスを振って見せると中原幹部はまた彼奴はと顔を顰める。
「あの人は首領の意思に沿っているだけで。」
「それは違え。彼奴は青鯖野郎が鍛えたせいで、その方法が正しいと思ってやがる。」
「青鯖野郎。」
「そうだ、青鯖野郎だ。会っても無視しろ。目付けられたら心中しようだの何だの云ってくるからな。」
「心中。」
「あれが最年少幹部だったとか。ああ、気に食わねェ。」
最年少幹部だった。
それで漸くその人が誰か分かった。
「……太宰さん、ですか。」
「ああ、そうだよ、あの糞太宰だよ!」
元最年少幹部太宰治と現幹部中原中也は犬猿の仲、これはポートマフィア内では周知の事実である。逆にその二人は黒社会最悪のコンビ双黒だったというのもまた覆しようのない事実であったが。最下級である私にも知らされているのだからかなり有名なのだろう。
テーブルにブレンド珈琲と日替わりランチが届いた。珈琲カップからは芳しい匂いが湯気と共に漂う。日替わりランチはサラダ、ポタージュスープ、ライス、ステーキだ。
「おお……」
中原幹部が感嘆の声を上げて、フォークを手に取る。フォークでレタスを刺して、ドレッシングを絡ませ口に含む。
「んっ!このドレッシング良いな!」
「玉ねぎ……ですかね?」
「ほら、食ってみろ。」
中原幹部がずいっと私の口にレタスを押し付ける。
「私は要らないって……んぐ」
「黙って食え。幹部命令だ。」
そう命じられては最下級構成員は従わざるを得ない。私は仕方なく口を開いて、入れられたレタスを咀嚼する。
瑞々しいレタスと中原幹部の云った通りドレッシングがとても美味しい。素材の甘味がよく引き立っている。
「……美味しいです。」
「ほら、トマト。」
「否、もう良いで……むぐぅ。」
「ステーキも美味いぜ。」
「だから何で、ぐむっ」
口の中に次々と放り込まれ、困惑を隠せない。
中原幹部はそんな私に目を細めて無邪気に笑った。
「もっと食え。食べねえからポキポキ骨が折れたりすんだよ。」
「んむっ、も……無理ですって。」
私が首をぶんぶん振って拒否すると、中原幹部はやっとフォークを引いた。
「中原幹部の食べる分が少なくなったじゃないですか。」
「でも、美味かっただろ?」
「……美味しかったですけど。」
「なら良いんだよ。」
満足したように半分になったステーキをナイフとフォークで綺麗に切り分けて、嚥下する。
「今日の予定は?」
「電話がないので特に。」
「手前って割と自由だよな。」
米一粒、ソース一滴すら残さず完食した中原幹部は伝票を見る。
「今日暫く付き合え。護衛としてな。」
「先刻も云いましたが、護衛は荷が重過ぎます。」
「否、俺以上に護衛しやすい奴はいねェだろ。」
確かに一理ある。
中原幹部の異能力はポートマフィア内ではトップクラス、体術は組織きっての実力。
護衛なんて必要ないくらいには強いのである。
「足こんななので遅いですけど。」
「それくらいは考慮する。出るぞ。」
中原幹部は席から立ち、さっさとレジに向かう。私も松葉杖で身体を支え、外に出た。
護衛ならば一応周囲の安全を確保すべきだろう。
監視の類いはない。その他怪しい人物も確認できない。
「待たせたな。」
「いくらでしたか?」
「構わねェよ。」
「……ありがとうございます。」
中原幹部も然り気無く周囲を見て、それから歩道に出る。
「何処へ向かいますか?」
「……一旦街に出るか。」
どうやら行き先は決まっていないらしい。私は首を傾げて問う。
「見回り、ということですか?」
「まあな。おい、段差気を付けろよ。」
カツリと小さな段差に松葉杖が当たる。気を付けないと転倒するところだった。転倒したところで能力が発動していない以上大した怪我にはならなかっただろうが。
中原幹部は云った通り私に歩調を合わせてくれ、道路側を歩き、段差などの障害物を常に気に掛けてくれた。
女性にモテる訳だ。最下級構成員の女性陣が黄色い声を上げるくらいには中原幹部は人気であった。
ヨコハマの街並みを二人で歩きながら、通りかかった傘下企業の様子を確認する。組合との戦いにおいて被害が出たものはより念入りに。
「首領の話じゃ此方の被害に乗じて何かしら企んでる奴らがいるらしい。」
「ある意味凄いですね。」
この程度でポートマフィアは失墜しない。これは間違いなく断言できる。異能開業許可証があることもそうだが、この組織は政治経済にも根を張っている。傘下の企業は数多あり、資本も巨大。軍警が手を出せない程に異能力者が集っており、敵対組織はその悉くが壊滅状態である。
「一縷の勝機すら見出せませんよ、私なら。」
「一寸損失があったらすぐ弱体化したと勘違いする莫迦野郎共だ。」
すぐに片付くだろうぜ。
中原幹部は鋭く空を睨んでそう云った。
ゆったりと大通りを進み、中原幹部と適当に話をする。基本私は相槌を打つだけだが。
私の場合、仕事の話以外では会話が長続きしない。趣味もなく、食事に楽しみを持つこともなく、見目に何らかの執着があるわけでもない。
つまり、詰まらない女なのだ。私は。
中原幹部はそんな私といて楽しいのだろうか。他の人が護衛ならば自分のペースで歩けただろうに。他の人が隣にいたならもっと話が弾んだかもしれないのに。
「手前、また余計なこと考えてんだろ。」
「……はい?」
「陰気臭ェ。元からマイナス思考の塊だったが、芥川のとこに行ってから更に酷くなってやがる。そんなだから首領に……」
中原幹部は言葉を呑み込み、代わりに帽子を取って、私に押し付けるように被せた。
「わ……」
「たまにはゆっくり歩くのも悪かねェよ。その方が見えるものもある。」
「否、あの……」
「それに俺の部下は騒がしいわ、話聞かねェわ、面倒臭ェ奴が多い。」
中原幹部は頭を掻いて私に背を向けた。
「口が硬くて、愚痴も聞いて、そこそこ仕事の話もできる。そういう奴が一人くらい必要なんだ。」
だから偶にで良いから飯くらい付き合え。
中原幹部の表情は見えない。これが本音なのか、嘘なのか、私には分かる筈もない。
「……命令、ですか。」
「強制はしねェ。」
「……今日みたいなのは、なしですよ。」
「あァ、気を付ける。」
嘘でも本当でも。
少しくらい嬉しいと思っても良いのだろうか。
私はカツカツと松葉杖をついて、中原幹部の前に回り込んだ。そして、帽子を差し出す。
「たまにであれば。是非。」
「おぉ。じゃあ、また誘うからな。断るんじゃねェぞ。」
「時と場合によっては断ります。」
「手前は素直にはいと云えねえのか!」
中原幹部が差し出した帽子を被り直す。
マフィアにもこんな日常があるのだなと心の内で呟いた。穏やかで何処か温かくて何処か悲しいそんな日常。
いつ無くなってしまっても可笑しくない一抹の平和。
「そろそろ戻るか。」
「はい。」
ヨコハマをぐるりと歩き回り、日も沈み始めた。中原幹部も仕事が立て込んでいるのだろう。本部に戻るから、と車を呼ぶために携帯電話を取り出した。
その時だった。
「あれ、中也じゃない?」
「げっ、太宰……!」
ピシリと身体が石のように硬直する。
「手前こんな所で何してやがる……!」
「何って仕事だよ。敦君と鏡花ちゃんと一緒にね。」
私は中原幹部の背中に回って身体を隠す。
「逆に聞くけど帽子置き君は一体何をしているんだい?マフィアの幹部様が昼日中からうろうろうろうろ。」
「あァ?見回りだよ、悪いか。」
「実に殊勝な心掛けだ!さすがポートマフィアの牧羊犬!」
「褒めてんのか、貶してんのか分からねェが手前が云うと無性に苛つくから止めろ。」
「え、私は中也が目の前にいるってだけで苛ついてるよ?」
「俺もだわ!!」
ギギギと歯軋りをして中原幹部は太宰さんを睨み上げる。太宰さんはそれを余裕の笑みで見下ろす。
「ところで中也、彼女は君の部下なのかい?」
「あァ?手前には関係ねェだろ。」
「関係はあるよ。」
中原幹部がチラリと私を見る。私の表情はそれは酷かっただろう。直ぐに中原幹部は太宰さんに向き直った。
「……手前が関係あっても此奴には関係ねェらしいぜ。」
身体がカタカタと小刻みに震える。早く此処から逃げたいのに、足の自由が効かなかった。
「私はこの四年、君に何があったのか分からない。書類では一身上の都合を繰り返し、聞き込みでもあまり芳しくない情報ばかりだ。」
「そ、れは……」
「君を預けた夫婦は僅か1ヶ月で他界。次は……」
「太宰、いい加減にしやがれ。」
「異能力者だからと偏見を浴びて、その次も大体そんな感じだったんだろうね。週単位で居場所を変えて、最後はマフィアに落ち着いた。君がポートマフィアに入ったのは異能力者だったから、必要とされたから?」
中原幹部の制止を無視して、太宰さんは問い質す。
「承認欲求、そのために闇の世界に踏み込んでしまったのかい?」
カランと乾いた音を立てて松葉杖が地面に落ちた。
「私は。」
私は震える口を開いた。
「私は、もう、光は見れません。だから……ポートマフィアに入ったんです。」
「……織田作は君が其処にいる事を望んでいない。」
知っている。分かっている。そんな事くらい。だが、それ以上に。
彼は私を許していないだろう。
子どもたちを守らず、一人逃げた私など。
揺れていた感情が急速に冷めていくのが分かった。自然と震えも治まり、私は太宰さんを見上げた。
「織田作さんは私に何も望んでません。憎みこそすれ、私がポートマフィアにいようが何処で何をしていようがどうでもいい筈です。」
私は松葉杖を拾い踵を返してその場を離れた。
ひたすら真っ直ぐ歩いていると、不意にコートの裾を掴まれた。振り返ると、着物を着た少女の姿が目に留まった。
「あれ……?」
何処かで見たような。眩しさに目を擦ってそれでもよくよく見てみると。
「あ、鏡花ちゃん。」
泉鏡花、つい先日まで牢にいた女の子だ。
「うん。……お礼が云いたくて。」
お礼。
Q君のように牢に入っていた鏡花ちゃんの所に私は何回か訪ねていた。
「私は別に何もしてないよ。」
「お菓子をくれた。」
そういえば、差し入れにお菓子を持って行っていた気がする。
「鏡花ちゃんが、元気になれば良いなって思って。気に入ってくれてたなら嬉しい。」
「うん、凄く美味しかった。ありがとう。」
牢にいた鏡花ちゃんは口数も少なくあまり感情を見せることがなかった。今も感情の起伏は少ないが、それでも彼女の顔色は明るく輝いて見えた。
「私、今探偵社にいる。仕事を沢山貰ってる。殺しじゃない仕事。」
私は良かったねと彼女の頭を撫でた。彼女がずっと望んでいた事だ。一人だって殺さない、殺したくないのだと。そう云っていた彼女がようやく救われたのだ。
「楽しい?」
「うん、楽しい。」
鏡花ちゃんは少し俯いて頬を赤らめた。この顔も前までは見たことのない表情だった。
「鏡花ちゃん!」
其処に白い髪の少年が現れた。彼は私を見て頭を下げる。
「さっきは太宰さんがすみませんでした。」
「え、否……」
両目が焼ける程痛い。日光を直接見たようなそんな燦然たる光を放つ彼に私は目を擦った。
「あ、僕は中島敦です。武装探偵社の社員で。鏡花ちゃんや太宰さんたちと一緒に仕事をしてます。」
私も吊られて挨拶してしまう。ポートマフィアであることは火を見るよりも明らかであるので態々発言するのは控えた。
「太宰さんも悪気があったんじゃなくて。貴方の事、凄く心配してたんです。」
「それは……分かっている心算です。」
私は俯いて目を伏せる。
「でも、私は此の世界でしかいられない。」
太宰さんによって助け出された世界は私を苦しめた。面倒を見てくれた夫婦は私に優しい言葉を沢山掛けてくれた。それが私には痛くて苦しくて、目が眩む程だった。その夫婦も1ヶ月後、交通事故で息を引き取った。
私はまた一人になった。
その後、また別の家族に引き取られた私は転校することになった。
待っていたのは、異能力者への異常なまでの偏見だった。学校では教師生徒問わず暴行は日常茶飯事となり、家族にも放置される状況が続いた。
最後には家の名が傷付くから、と別の家に回された。それが数度続き、最終的には廃棄された。でも、それは当然の事であって、特に痛みは感じなかった。
ただ、分かったことがあった。
私はこの世界で生きてはいけないのだと。
世界から拒否されているのだと。
そして私は闇の世界に踏み込んだ。
「暗くて冷たくて混沌としていて、死がすぐ目の前にある。」
それでも、4年もの間生きてしまったのだけれど。
「そんな世界が私には似合ってるんです。」
中島敦はそんな事……と云いかけて口を閉ざした。
「太宰さんに伝えてください。私の事は忘れて幸せになってください、と。織田作さんもきっとあなたの幸せを願っている、と。」
中島敦の背後から中原幹部が此方に向かってくる。
「用は済んだか?」
「……太宰さんは?」
「人の部下の個人情報勝手に漏らすなって、一発ぶん殴ってやった。」
そ、それは不味いのでは?停戦協定もあるのに。私が目で訴えると、中原幹部は知るかっ!と顔を背けた。
「太宰の野郎は手前の過去掘り返して傷付けた。殴るには十分な理由だ。」
傷付いてはいないが、それでも中原幹部の優しさが伝わってくる。中原幹部がポートマフィアで慕われる理由を改めて感じた。中原幹部はそれだけ云うとさっさと去ってしまう。
「じゃあ。鏡花ちゃん、中島敦君。元気で。」
私は会釈して中原幹部の後を追った。
▽
太宰と少女の出会いは唐突だった。
「いらっしゃいませ。」
ドタバタと階上で暴れまわるような音、子どもの甲高い悲鳴。
太宰が洋食店に訪れると、そんな音の数々が散らばっていた。
その中にあって少女の声は凛と耳に響いた。スッと視線を下に降ろすと、吹けば飛びそうな細い少女が立っていた。
「空いている席にお座りください。」
「あ、ありがとう。」
見れば店の隅に彼女のものと思われる黒ずんだ赤いランドセルがあった。
太宰がそれを横目に席に座ると、少女は冷水の入ったグラスを太宰の前に置いた。
「ご注文お決まりでしたら伺いますが。」
「じゃあ、君のオススメで頼むよ。」
「おじさん、混ぜカレー一つ。」
淡白に店主に向かってそう云うと、少女はカウンターの隅の席に座った。ランドセルを開けて教科書とノートの二冊を取り出し、机に広げる。
「ねえ君、小学生かい?」
「……そう、ですけど。」
少女は訝しむような目で太宰を見る。
「小学生にしては大人っぽいね。上の子どもたちとは大違いだ。」
「……そういえば、最近この近辺で不審者が目撃されていましたがもしかして。」
「ごめんごめん。私は織田作の友達、太宰治。彼に会いに来たんだよ。」
少女は織田作さんの……と何か考え込むような仕草をして、再び太宰を見た。
「あの、今はちょっと。久しぶりに織田作さんと会って皆はしゃいでて。」
「分かってるよ。私もそこまで野暮じゃない。だからこうやってカレーを食べて暇を潰そうとしているのだよ。」
少女はなるほどと相槌を打った。
「君は上に行かなくて良いのかい?」
「……まあ。」
少女は目を泳がせ、教科書の頁を開く。
「帰って来たばかりですし、入りにくいというか。」
「へえー。」
太宰がニコニコしながら見詰めれば少女は教科書を机にドンと叩きつけるように置いた。
「何なんですか。」
「何でもないよ。ああ、そうだ。君、心中に興味はないかな?」
心中?
少女は首を傾けた。
「男の人と女の人で水に飛び込んで死ぬ?」
「方法は自由だけど、その認識で間違いはないね。」
「あなたと?」
「そう、私とだ。」
少女の大きな瞳が太宰を覗き込んだ。承諾か拒否か判別できない色を宿していた。
「織田作さんが駄目だって。」
「うん?」
「織田作さんが前自殺は駄目だって云ってました。だからできないです。」
それはまるで。
織田作が駄目と云わなければやっているという事のように聞こえる。
寧ろ、それをしようとして……。
「君は死にたいのかい?」
「死にたい……というより、両親のところに行きたくて。」
織田作が面倒を見ているのは龍頭抗争による孤児だ、という事は知っていた。この少女もそうなのだろう。
「死んでも両親のところに行けるとは限らないんじゃないかな。死後の世界には天国と地獄があると云うだろう?」
「天国と地獄。」
少女は口の中で反芻した。
「じゃあ、私は会えない。」
だって、私は地獄だろうから。
少女はひたすら真面目な大人びた顔でそう呟いた。
「ずっと一緒にいようって云ってたのに。私は約束を破った。」
彼女は笑い方も泣き方すらも忘れたように無表情だった。
「太宰さん、地獄に行ったら如何なるんですか?」
「うーん、閻魔様に裁かれるかな。それで自分の罪を贖い続けながら永久に罰を受ける。」
「罰。」
「痛いし、苦しいし。そんなのは厭だよね。」
コトリと太宰の前に混ぜカレーの皿が置かれた。
「償えるなら……」
「うん?何か云った?」
「お好みでウスターソースもどうぞ、と云いました。」
「絶対違った気がする。」
太宰はウスターソースをかけて、スプーンを手にした。口の中に運び、途端にグラスを掴んだ。ぐびりと半分程一気に飲み、次いで。
「辛い!!!!」
と叫んだ。
「そんなに……ですか?」
「そんなになのだよ……」
「そこまで辛いのに弱いとは思わなくて。すみません。」
「お詫びに名前教えて。君が20歳になって私が自殺できていなかったらもう一度心中にさそ」
太宰は最後までそれを云うことができなかった。
壊れるのではないかと思う程戸が軋り上げて開かれた。
「太宰!」
「やあ、織田作。」
「何を話していたんだ。」
太宰はいきなり織田作に詰め寄られてたじろぐ。
「何をって、ねえ?」
助けを求めるように少女を見るが。
「小学生の私には難しくて分かりませんでした。」
「どっちかというと難しいこと云っていたの君だよね!?」
少女はいつの間にか教科書を片付け、席から降りていた。冷水のグラスを太宰の横の席に置いて、織田作を見上げる。
「おかえりなさい、織田作さん。」
「あぁ、ただいま。」
織田作が少女の頭を軽く撫でる。
それだけで、少女の雰囲気が一変した。モノクロの世界に光が差し込み色彩が生まれるように。少女の顔が柔らかく綻んだ。
「元気そうだな。」
「……織田作さんも。」
それはまるで恋人同士が久方ぶりの邂逅を果たしたかのように甘く、はたまた親子の感動の再会のような温かさも太宰は感じた。
「……太宰、何をニヤニヤしている。」
「別に何もー?」
太宰と目が合った少女はふいっと視線を外して先程座っていた席の方まで戻った。ランドセルを背負うと戸を開いた。
「あれ、帰っちゃうの?」
「お二人で積もる話もあるでしょうし。」
少女はそうだ、と思い出したように半身振り向いて止まった。
「私の名前は歩です。今日はありがとうございました、太宰さん。」
少女がニコリと微笑む。しかし、それは本当に一瞬で。
パタンと閉じた戸に阻まれてしまった。
その遮蔽物を凝視する太宰の肩を織田作は軽く叩いた。
「太宰?」
「織田作ってあの子のお父さん枠?」
「……やらないぞ。」
「私は森さんと違ってロリコンじゃあないから手は出さないよ。」
「20歳になったらまた心中に誘うと云っていたのは?」
「はい、私だよ!……ハッ!何故それを!!」
真逆私を嵌めたのか、織田作!?
目を見開き驚愕を露にする太宰に織田作は告げた。
「太宰、洗いざらい話して貰おうか。」
「え、一寸待って。怖いよ、織田作!織田作ー!!」
その日が太宰が唯一見た少女の笑顔であった。
そして、この出会いこそが少女の死生観を変える切欠となった出来事だったのである。
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