其の一

 毎日のように夢を見る。

 狭くて、暗くて、冷たい所に私は閉じこもっていた。体育座りで、両膝に顔を埋めて。

 一人だけで。

 外から小さく、しかし、確かな甲高さを以て子どもたちの悲鳴が聞こえる。それにガサガサと無遠慮に私達の部屋を漁る音も。

 私は耳を塞いで、息を殺した。本当は。本当なら。私があの場にいなければならなかった。私が、守らなければならなかった。

 なのに、自分一人で安全な場所に逃げたのだ。

 暫くして人の気配が消えたのが分かった。代わりに直ぐに切羽詰まって名前を叫ぶ一人の男の声が緩めた手の隙間から耳孔に届いた。此処にいた筈の子ども達の名前を、一人ずつ悲痛な声で呼び続ける。

 私の名前が呼ばれた。

 縋るような、慈悲を求めるような声だった。

 今すぐにでも此処から飛び出したかった。
 抱き締めて、もう大丈夫だと云って欲しかった。

 しかし、それは許されない。

 ドタドタと乱れた足音が遠くなった、と思った瞬間だった。
地面を揺さぶるような激しい衝撃と爆発音が轟いた。

「っああ……」

 引き攣った声が私の口から溢れた。
 嘘だ、と何度も譫言の様に呟いた。

 結末が、分かってしまった。

 涙は出なかった。
 涙を出すことすら許されない、そう思った。

 そうして。
 私は子ども達を見殺しにして、一人生き残った。

 その後、私は其処から動くことすらできなかった。食べることも飲むこともできず、意識の浮上と沈降を繰り返しながら同じ体勢でずっと閉じこもっていた。黒く深い闇だけが私を包んでいた。其の闇の中でおやすみと温かい声が聞こえた、そんな気がした。

何日経っただろうか、もしかしたら一日しか経っていないかもしれないし、一週間以上経っているのかもしれない。
ガタガタと私の足の先の壁が動いた。

 あの人だろうか、それとも。どちらでも良かった。あの人なら目が合った瞬間に両膝をついて、懺悔しようと決めていた。違うならば、あの子たちと同じ場所に連れていって欲しいと首を差し出す覚悟もできていた。

「……やあ、私のことは覚えてる?」

 白い光が差し込む。眩しくて熱くて痛くて全身が干乾びてしまいそうだ。其の光の中から包帯が緩く巻かれた手が差し伸べられた。

「……あ」

口を開いても喉がカラカラで掠れた何かしか出てこなかった。

「……ずっとここで待っていたんだね。」

 頷くこともできなかった。待っていたんじゃない。私は逃げたのだ。

 其れでも其の人は私の腕を軽く引いて暗闇から優しく引っ張り出してくれた。

 初めに見えたのは黒だった。 黒い外套、血色が良いとは云えない白い肌、微かに光が灯った瞳、黒い蓬髪。

 一度だけであったが、会った事のある人物だった。

「だざ……っ」

 そうだよ、彼は小さく笑って私を腕の中に収めた。

「太宰治。織田作の友達。」

 織田作、織田作之助。
 身寄りのない私たちを育ててくれた大切な……

 私達の家族。

「すぐ迎えに行こうと思ってたんだけどね。遅くなってごめん。」

 私は首を横に振った。

 このまま死んでも良かったのに。餓死でも、脱水症でも、射殺でも何でも。迎えなんて、許しなんて要らなかったのに。

「……織田作は死んだよ。」

 私を抱く腕が細かく震え、それを隠すように彼は私を強く抱き寄せた。

 反対に、私の身体は硬直した。息ができず、頭の中が平衡を失ったようにぐらぐらと揺れ回った。

 子ども達も死んで、彼も死んだ。
 生き残ってしまった私にはもう……何も残ってなどいなかった。

 そんな私の背中を彼は一定のリズムで宥めるように軽く柔く叩いた。

「……君は如何する?」

「……?」

「君はこれから如何したい?」

 乾いてくぐもった声が耳を過った。これから如何したいか。聞かれても、私には其れを選択する権利も決定する権利もない。

 でも、もし一つだけ願うならば。

「ころ……してっ……ほし……」

 願わくば、地獄で。
 地獄でこの罪を裁かれたい。
 許しのない世界で、永遠に罪を贖っていきたい。

「織田作にね。人を助ける側になれと、そう云われたんだ。」

だから、殺せないよ。
彼は形の良い眉を歪めて苦笑した。

 其の言葉は万力の様に私の胸を締め上げた。今此処で死ぬことすら許されない。絶望、一言で表すなら正に其れだった。

「それに織田作たちも、君に生きて欲しいと願っている。」

「っ……」

 目が光に慣れたのか視界が少し開けた気がした。ぐちゃぐちゃになった布団、開けっ放しの箪笥、足が壊された椅子、散乱した玩具の数々が次々と目に飛び込んできた。

「う……あっ……」

 龍頭抗争と呼ばれる苛烈な抗争があった。

 其の余波で両親は死に、私も瓦礫の下敷きになって死にかけていた。そんな私を助けてくれたのが織田作之助という人だった。通称、織田作さんはポートマフィアというヨコハマを席巻する大規模な組織の構成員だった。彼は私と同じ境遇の子どもたちを戦火の海から拾い上げ、養ってくれた人だった。

 私は拾われた子ども達の中で最も歳上だった。私にはリーダーシップの欠片すらなかったが、それでも子どもたちを守らなければならない使命のようなものがあった。

 何より彼に子どもたちの様子を報告した後、いつもありがとなと織田作さんが目を細め、優しく頭を撫でてくれるこの時間が何物にも代えられない幸せな時間だった。その幸せを、安寧を守らなければならない、ずっとそう心に決めていた。

 織田作さんは私に幸せを与えてくれた大切な人だった。

 私はそんな人を裏切った。

其れなのに、生きて欲しいなど誰が。
誰が裏切り者にそんなことを望むのだろうか。

「わ、たし……は……」

 もし、彼が望んだとして、私はどう生きれば良いのだろうか。


 ───四年が経った今も、其の答えは出せずにいる。


 世界が暗転し刹那の闇の後、意識が急速に浮上する。頭上で鳴り響く高く耳に残る電子音によって強制的に覚醒させられ、音源に腕を伸ばした。

「……はい。」

 手探りで通話ボタンを押して耳に当てる。

「分かりました、直ぐに。」

 電話の主は用件だけを簡潔に述べると通話を切った。

 ただ一言、首領がお待ちだ、と。

 ミスをした覚えはない。
 裏切った覚えもない。
 情報を漏洩した覚えもない。

 だが、役立たずである自覚はある。
 できそこないの自覚もある。
 無能である自覚もある。

そろそろ殺されるのだろうか、用済み、廃棄、処刑、不穏当な単語が脳裏を駆け巡っていく中、先ずはいつも通り着替える事にした。

 灰色のブラウス、黒のスキニー、そして同色のトレンチコート。

 両腰の黒の拳銃嚢には黒の拳銃が二挺。手首、足首には予備弾倉の入ったバンド、コートの裏にはナイフが仕込んである。

 其れらを再度確認し、ベッド脇にある松葉杖を取り、支えにして立ち上がる。

右足が動かない。

つい先日、訓練で骨折したものだ。きつく包帯を巻かれ、全治一ヶ月と診断された其の傷に今のところ痛みはない。そっと指で包帯をなぞってから私は歩き出した。

港湾都市ヨコハマ、その海沿いには巨大なビルが屹立している。軍警すらも恐れ、普通の人間ならば避けて通る場所。

ポートマフィアの拠点である本部ビル。

其の裏口から泥棒でもするかの如く気配を殺して入る私は間違いなく不審者に見えるが、スーツの構成員たちは一抹の関心もなくすれ違っていく。

 それもそうだ。

 私は此のポートマフィアの構成員なのだから。

 構成員と一口に云っても、私は下っ端中の下っ端。所謂最下級構成員である。稀に割りの良い任務が与えられたりもするが給料は微々たるもの。回される仕事も掃除や事務処理程度である。

エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。

 其の間も私は自分はどのようにして死ぬのか考えていた。首領の元に一階ずつ確かな速度で近付いていく度に処刑という単語が強く頭に浮かぶようになっていった。

 基本的には銃殺ではないだろうか。

 胸か頭蓋を撃ち抜かれて死ぬか、手足やらから始まり嬲り殺されるか。

チン、と鐘が鳴った。エレベーターが止まる音だ。

最上階にはまだ早い。

ドアが厳かに開く。

「あァ、手前か。」

「……中原幹部。」

エレベーターに乗り込んだのは些か小柄ではあるものの、組織きっての体術使いかつ圧倒的な異能を持つポートマフィア五大幹部の一人、中原中也である。

 何階ですか?私がそう尋ねると、中原幹部は私を一瞥し、同じ所だと云った。

 同じ所。つまり首領の元である。

 ということは私の呼び出しに中原幹部が関わるのだろうか。

 其処で私は一つの答えに辿り着く。

「重力による圧死……。」

 中原幹部の異能、《汚れつちまつた悲しみに》の重力操作による処刑。裁量によっては拷問のような苦痛を伴う死となろう。

 考えただけで冷や汗が背中を伝った。

「おい、何考えてる。」

 中原幹部が怪訝そうに私を見るので、これから処刑されるかもしれないということを話した。

「中原幹部、できるなら蚊を叩き潰すようにプチッと殺っちゃってください。」

「……手前な。そもそも、下級構成員が首領の前で死ねる訳ねェだろうが。」

「……処刑人数1000人達成記念とか。」

莫迦か、中原幹部が心底呆れた顔をした。

「手前が不始末を犯したって話も聞いてねェし、そもそも首領は環境に配慮する人だ。処刑で態々最上階を使ったりしねェよ。」

「……でも、私は首領からの命令を未だに達成できていません。」

私は松葉杖で床をコツリと突く。

「ただでさえ役立たずなのに、命令すらも守れない私は殺されても……。」

俯いて独り言ちると中原幹部の舌打ちが聞こえた。すかさず深く頭を下げて謝罪する。

「す、すみません。」

「芥川の野郎、何でもかんでも太宰の真似しやがって。」

中原幹部の怒りの方向は何故か芥川さんへ向いてしまったらしい。私は慌てて弁解する。

「あ、芥川さんは何も悪くないです。私が物覚えが悪くて弱いからで。」

 其れに対して中原幹部が何か云おうとしたのか口を開いた時、チンと再び鐘が鳴った。最上階に到着したのだ。瞬間、あっと思う間もなく中原幹部の人差し指が開くボタンを押し込んだ。

「手前が先に行け。」

「で、でも……」

「早くしろ、莫迦。」

 私は松葉杖で身体を支えながらエレベーターから降りる。松葉杖を使って歩き数日、これまでも何度か使っているのだがまだ慣れない。少しよろけながらも振り返って中原幹部に頭を垂れた。

「ありがとうございます。」

「……先刻の話。俺はな、物覚えが悪い奴を指導したりしねェ。」

 頭に手を置かれた、と思った瞬間。わしゃっと私の髪を掻き混ぜるようにして撫でる中原幹部に私は顔を上げる。

「ほら、行くぞ。」

 そう云って外套を翻し、中原幹部は奥へ進んでいった。

 ポートマフィア首領、森鴎外。敵対者は徹底的に潰し、合理的かつ理論的な絶対的指導者。

私のような最下級構成員が顔を伺うことは滅多になく、まさに雲の上の存在と云っても過言ではない。私はそんな神にも等しい人と対面しているのだ。

濃く深い闇を称える我等が首領は真意の見えない笑顔で私たちを迎えた。中原幹部は帽子を取って一礼し、私も其れに倣う。

「中也君、よく来てくれたね。……君も骨折は大丈夫かな?」

 執務机に両肘を置き、私に探るような視線を投げかける。

 一目で全てを見透かせる、そんな目だ。

「……全治一ヶ月です。」

「芥川君も荒いねえ。」

 首領は私を労るような言葉を述べるが、何処か冷たい。

 其れに此の部屋の空気は息苦しい。
 早く外に出たい、新鮮な空気を肺一杯に吸い込みたいという欲が脳を掠めた。

「君の頑張りはよく聞いてるよ。けどね、君にはもっと強くなって貰わねばならないんだよ。すまないね。」

「はい、存じております。」

「それと、今回君に任せたい仕事があるんだ。内容は此の封筒の資料を読んで。三日以内に頼むよ。」

「了解しました。」

首領の手の中にあった茶封筒を受け取ればもう良いよと暗に退出を命じられた。

「……失礼します。」

 私は再度頭を下げて部屋を出た。視線、多分中原幹部のものを感じたが振り返らなかった。

 殺されはしなかった。だが、タイムリミットが迫っていることも分かってしまった。見込みのないものを廃棄することくらいあの首領にとって造作もない。エレベーターに乗り、1階のボタンを押して、壁に背中を預ける。

「今日は……9:00から訓練で、午後は空いてて。」

 なら昼にでも首領から貰った仕事をこなそう。

……意識があれば。

 1階まで止まらずに降りて、元来た道を引き返す。行きと同じように黒服の集団とすれ違いながら裏口から外に出る。

 空は白み、海風が頬を冷たく撫で擦る。運送用のコンテナが山積まれた向こう側の太平洋は緩慢に満ち引きを繰り返していた。

 この景色をあの人も、織田作さんも見たのだろうか。

あの人の情報は私のような地位にあっても知ることができた。織田作之助。ポートマフィアの最下級構成員で、殺しを一切行わず何でも屋のような立ち位置にいた変わり者。しかし、実力は先程すれ違ったような黒服の者たちを優に越え、首領も一目置く存在だった、とか。

ビルとビルの狭間から朝日が昇る。

「……痛いなぁ。」

顔に零れる日の光は私にはとても眩しくて、焼かれるように痛かった。

 8:45、訓練開始15分前。ポートマフィア直轄の備蓄倉庫。訓練に指定された場所だ。

 約束の時間まで未だ少しある。私はコンテナを机にして拳銃のメンテナンスを行っていた。愛用している二挺の拳銃を黒光りする程に磨く。

 倉庫の電球は点いておらず、窓もないため実質、光は一つも存在しない。寧ろその方が安心する。

 これはマフィアの性なのか、個人的な問題なのか。

 8:59。外に漸く人の気配を感じるようになった。金属同士が擦れ合うような音に訓練の開始を予感した。拳銃をホルスターに仕舞い、積み重なった木箱の影に控える。

 30秒前。警鐘が脳内で鋭く高く鳴り響いた。
 半歩後退する。
 鳴り止まない。
 二歩後退する。

 ───未だ鳴り止まない。

 私は身を翻して奥まで退却した。拳銃を拳銃嚢から抜き、シャッターに5発撃ち込み穴を空ける。

 9:00まで残り10秒。終息しない警鐘に焦燥感を覚えながら、其の穴を左足で蹴り破る。人一人分通れる大きさの穴が形成され、私は其処を潜り抜けた。

 9:00。

 倉庫が何の前触れもなく爆発した。爆風と衝撃波に身体が吹き飛ばされ、地に強かに身体を打ち付ける。木片や金属片が叢を跳ねるように飛び散る。

 あのまま彼処にいたなら間違いなく死んでいただろう。

 けれども、これで終わりではない。訓練は未だ始まったばかりなのだ。

 脳内をつん裂くように先程とは別の音階の警鐘が鳴っている。

松葉杖に体重を預け立ち上がった。腰と背中に鈍く痛みが走るが支障はない。

 其の場を離れるため歩き出そうとしたその時凄まじいスピードで赤黒い何かが迫った。

 訓練で何度も目にしてはいるものの並の反射神経では避けることすら叶わない漆黒の獣。

 形振り構っていられない。迫り来る黒獣に銃口を向け発砲。黒獣が怯んだ隙に後退し、再装填。更に押し寄せる黒獣の顎に松葉杖を噛ませ、左足で蹴り上げる。警鐘はその時既に止んでいて、最後と思われる黒獣に銃弾を浴びせ拳銃を下ろした。

「漸く黒獣を対処できるようになったか。」

 爆心地より噴き上がる黒煙から黒い外套の男が姿を現す。口に手を当て、咳をする彼は首領直属の遊撃部隊の長。

外套を操る異能力《羅生門》の使い手、芥川龍之介だ。

「……正直応戦するのがやっとですが。」

 応戦できる理由の一つはこれ迄の訓練における芥川さんの攻撃から予測して、確実に死なない行動を選択しているという事だが。

「首領からの命令は覚えているか。」

 冷酷な声音が風と共に運ばれて来る。

「……《天衣無縫》を越えること、です。」

 異能力《天衣無縫》は5秒以上6秒未満の未来を予知する力で、何より織田作之助が持っていたものだと聞かされている。

「愚鈍で無能な貴様が《天衣無縫》を越える可能性など万に一つも無いと云うのにな。」

 無様を通り越し憐れみすら感じると芥川さんはまた一つ咳をした。

「弱者は死ね。僕に無為な時間を使わせるな。」

 死ねと云うならば殺してくれれば良いのにと心の底から思った。その黒獣の顎で骨も残さず噛み砕いてくれたなら、其の黒い刃で心臓を刺し貫いてくれたなら。

 私は救われるというのに。

 脳を裂くように警鐘が鳴った時、眼前には既に黒刃が肉迫していた。この位置ならば喉を裂かれ死ぬことができると思った。命の危機が1ミリずつ迫る度に鐘の音は大きくなっていった。

 生きることは罪だ。

 幸介、克巳、優、真嗣、咲楽を見捨て4年もの間生きた私の罪。

 目を閉じてその時を待った。

「貴様は死にたいのか。」

 そんな言葉が私に降りかかった。私は瞼を開ける。

「……組織の役に立たない、芥川さんの貴重な時間を浪費する私は此の世に必要ないと。」

 刃は喉の僅か数ミリ手前で停止していた。それでも警鐘は鳴っていた。

「遅かれ早かれ私は処刑されていた筈ですし、私にもその覚悟はあります。正直、前回の訓練終了の段階で殺されても可笑しくはなかったと思ってます。」

 私は真っ直ぐに芥川さんを見、芥川さんは瞬きをした後目を反らす。

「貴様ならば避けられる筈だと……」

 ボソリと聞こえた言葉に私は苦笑した。苦笑などと呼べるものではなかったかもしれない。何もかもに諦めた人間が最期に遺す笑顔、のような表現の方が正しいかもしれなかった。

 芥川さんはそんな私の顔を見るなり、喉を刺し貫かんとしていた刃を引き、代わりに私の左腕にそれを巻き付けた。

身体が宙を舞った。視界が一瞬反転し、次の瞬間地面に叩きつけられる。下敷きになった左腕は叩きつけられた直後バキリと嫌な音を立てた。

 激痛が走った。左腕がみるみる赤く青く変色していくのが見てとれた。頭痛すらもたらしていた程の警鐘はいつの間にか収まっていた。

「芥川さん……」

 芥川さんは何も言わず去っていく。
 今日の訓練は終わったらしい。
 私は右腕で何とか身体を起こした。

 ダランと力なく垂れた左腕が痛々しい。
 実際痛いが。

「首領の任務の前に病院か......」


 私の異能力に名前は未だない。そもそも異能力と呼べる代物かすらも検討がつかない。一応異能力として国に認定されているので異能力なのだが。

 私の其れが真実異能力だとして簡潔に説明するならば。

 自身に重傷以上のダメージをもたらす危機を30秒前に察知することができる。

 所謂、虫の知らせのようなものだ。それに察知できるというだけで、如何してダメージを受けるのか、その内容は一切分からない。危機察知に際して私の頭には警鐘が鳴り、危機が過ぎ去るもしくは実際に重傷以上の負傷があった場合止まる。また、その危機に対して私が何らかのアクションを起こし、回避できると判断されれば止まる。

 《天衣無縫》には到底及ばない力である。

 それでも、《羅生門》の怒涛の攻撃に対して生き残っているのは一重に中原幹部の指導のお陰である。私は一寸前まで中原幹部の直属の部下の更に下の下っ端というポジションにおり、色々とあって中原幹部とは顔見知りとなり、色々とあって体術やら基本的な戦闘のご指導を賜っていた。そういった貴重な経験によって今もこうして生きている。

 却説、当然の様に病院で医者に激怒され。

 知ってると思いますけど全治一ヶ月!!絶対安静!!絶対安静!!ですからね!!と二回も念を押された私は首領から預かった茶封筒を開けていた。

 中に入っていたのは1枚の紙と更に一回り小さな茶封筒。

 成る程、此れが世にも名高いマトリョーシカ封筒……ではなく、多分私が見ないようにという配慮だろう。其の封筒は中に戻し、紙だけを取り出す。

その紙片には端的に曰く、この封筒を武装探偵社の社長に可及的速やかに届けろと書かれていた。

武装探偵社……。確か最近武装探偵社が人虎を匿っている、捕まえたら莫大な賞金が手に入るみたいな話があったような。

 その話を聞いた直後くらいに、芥川さんとの訓練で意識不明の重体となってしまったため参戦できなかったが。

 後は、停戦協定が結ばれたとか何とか。

 とにかく、私のような最下級構成員には情報があまり流れて来ないため、其れくらいしか知らない。

 本当に此れはかなり重要な書類だったりするのだろうか。否、私のようないつ死んでもおかしくない人間が持っていくのだから大したものではないのかも。

 電車に乗って、席を譲ろうとしたら青褪めた顔で寧ろ貴女こそ座っていなさいと云われたりしながら特に障害なく武装探偵社前に着いた私は封筒を再度確認してからエレベーターに乗った。

 左腕と右足の骨折は生活が何かと不便だ。少しレトロな建物だったので階段の往復かもと不安に駆られたが、エレベーターで安心した。

……もし先刻芥川さんに殺されていたなら此の書類は誰が届けたのだろうか。私の代わりは幾らでもいるのだから関係ないか。ポートマフィアの本部ビルよりも遥かに短時間なエレベーターの中でとりとめのないことを考える。

 エレベーターの扉が開いて目の前にあったのが武装探偵社の玄関だった。古風な、だが親しみのある木製のドア。私は深呼吸を一つして其の金属のドアノブを以て押し開いた。

「すみません……」

第一声を発したところで、はたと思う。

……私はどのような立場なのだろうか、と。
普通にマフィアで良いのだろうか。襲撃と勘違いされたりしないだろうか。

 配達員、宅急便とかのふりをした方が良いだろうか。
 左腕と右足を骨折した人間が?
 明らかに怪しまれる。

 沈黙が流れた。武装探偵社の面々と思われる人々からの視線が痛い。

「えっと……」

「こんにちは、此方は武装探偵社です!依頼でしょうか?」

眼鏡を掛けた女性が話し掛けてくださった。眩しいくらいの美人さんだ。眩し過ぎて目が痛い。

「あ……の。」

 声が、出ない。目も痛いが、此の武装探偵社。全体的にキラキラしている。キラキラし過ぎて息が詰まりそうだ。目眩を感じながらも松葉杖で体勢を立て直し、封筒をずいっと女性に差し出す。

「こ、れを。武装探偵社社長に、手渡すように、仰せつかって……ます。」

 しどろもどろになりながら言葉を紡ぐと、女性は封筒を取ってくれた。

「ありがとうございます。社長に渡しておきますね。」

「此方こそありがとう、ございます。失礼します。」

……自然な流れで渡せた、と思う。ポートマフィアだとか配達だとか取り繕う必要は一切なかった。安堵の吐息が無意識に零れ落ちた。

 首領に対するのと同じくらい深めに頭を下げて、扉を閉める。

 これで首領からの任務は完了した。謎の達成感に包まれながら私はエレベーターのボタンを押す。すぐにドアが開いたためさっさと入ろうとした時だった。

ドン、と身体が何かにぶつかった。私が前を見ていなかったためだ。グラッと重心が後ろに傾く。異能力が発動しない事から、頭を打ち付けて意識不明などはないだろうが痛みに備えた。

 が、予期した事象が起こる事はなかった。目前にいた人の手が私の右腕を掴み、そのまま支え起こしてくれたのだ。若干勢いがあったためその人の胸に顔を押し付ける形になってしまったが、助けられたことに間違いはない。

「大丈夫かい、お嬢さん?」

 聞き覚えのある声だった。否、記憶の中のものよりも優しく明るさに満ちた声だった。

 だからこそ顔を上げるのが躊躇われた。

 此の世で会うことはもう万に一つもないと思っていた。人を助ける側になるのだとそう言って闇から抜け出した彼と、反対に闇へと自ら進み出た私はもう住む世界が違うのだから。

 鼓動が早くなり、汗が全身に纏わりつく。酷い息切れと目眩で意識に霞がかかる。

「失礼……しました。」

 彼が何か云う前に身体を離して俯いてエレベーターに入る。ボタンを連打し、扉が閉まる。

「ねえ、君……」

 ガッと、閉じようとしていた扉が無理矢理抉じ開けられた。安全装置が働いたのか扉は私の意思に反して完全に開放される。

そして、彼が私の前に立った。

「ああ、矢っ張り君だったのだね。」

 両頬に手を添えられ、顔が上向かされる。

 否応なしに彼と、太宰治と視線を交わしてしまう。

「真逆此処で会えるとはね。しかもこんな傷だらけで。……顔色もあまり良くない。」

 頬をするりと撫でられて息を呑んだ。エレベーターの扉は無慈悲にも閉ざされ逃げ場を完全に失ってしまう。

「学校は?この近くに住むようになったのかい?」

「が、学校は……1年で辞めて、家は其の辺り……。」

其の辺りじゃ分からないよ、太宰さんは私の髪を梳くように撫でて微笑する。

「細かい事情は抜きにしても君が生きていてくれて良かった。織田作もきっと喜んでいる筈だ。」

 扉が開き、太宰さんは私の右手を取る。
 私を逃がさないように、抗わせないように。

「積もる話は其処の喫茶店でしようか。勿論、私の奢りだよ!」

「わ、私は仕事が……」

「仕事?何の仕事だい?」

 全てを見透かしているような、まるで首領のような瞳に射抜かれ、肩の震えが止まらない。その間にも太宰さんは1階の喫茶店うずまき、そのテーブル席まで私の手を引いた。肩を軽く押されストンとソファーに座らされてしまう。

「太宰さ……」

「私は珈琲。君は?」

「っ……同じもの、で。」

 太宰さんは店員である女性にコーヒーを二つ頼むと私の向かいの席に座った。

「却説、それで?君は今何をしているんだい?」

 足下に視線を合わせる。何をしているのか、云える筈もなかった。

「それとも私にこう云わせる心算かい?何故ポートマフィアに入っているのか、とね。」

 胸を鋭利なナイフを突き立てられたような痛みが貫いた。

 会いたくなかった。
 知られたくなかった。

「4年前、私は君が学校に通えるようにそれなりの手配を行った後に君の元を去ったのだよ。これ迄の罪を洗浄し、この武装探偵社に入るためには2年の刻が必要だったからね。」

 太宰さんはテーブルに片肘を着いて話を続けた。

「2年後、私は君に会いに行こうとした。けれども、君は学校を辞め、所在を転々と変え、最終的に消息不明となってしまった。」

 武装探偵社のコネなんかを使ってみてもてんで見つからなかったよ。太宰さんは深く息を吐いた。

「そして、私の前に突然現れた君は手足を骨折し、顔色も優れず、懐、あと腰かな。其処には物騒なものまで仕込んでいる。」

 私はおずおずと顔を上げた。太宰さんの整った顔が悲痛に歪んでいる。

 太宰さんは信じていたのだろう。消息不明となった私がもし生きているならば必ず光の当たる世界にいるものだ、と。

 学校に行っていなくとも、普通の職に就き、穏やかな日々を送っているだろう、と。

「ごめんな、さい……。」

 謝罪の言葉しか出なかった。どれだけ謝っても許される訳がない。それでも私の頭の中には謝罪の言葉しか浮かばなかったのだ。頭を下げて懺悔することしか、私にはできないのだ。

「ごめんなさい……ごめん、なさい。」

「顔を上げてくれたまえよ。……私の責任でもあるのだから。」

 其れは違う。全て私が悪いのだ。太宰さんに何一つ責任はない。私は必死に首を振った。

「これは私が決めた、事です。」

 なら尚質が悪いよと太宰さんは失笑を漏らした。

 注文を取ってくれた店員の女性が私の前に珈琲を置き、太宰さんに耳打ちする。

「太宰さん、国木田さんがいらっしゃっていますよ。」

 国木田さん、同僚の人だろうか。先程いた武装探偵社の中にいた人かもしれない。

「国木田君に伝えてくれたまえ。私は今重要な仕事を任されているのだ、と。」

「心中のお誘いは重要な仕事ではありませんよ?」

 軽快なやり取りを聞きつつ熱めの珈琲を一気に飲み干す。舌や上顎が痛いが躊躇している間はない。

「太宰さんはお仕事に行ってください。私はこれで失礼します。」

「え、一寸待って……」

 奢ってくれるとは言っていたが、伝票を素早く取って席を立つ。カツカツと松葉杖をつきながら自分が出せる最高速度でレジへ。その台に伝票と引っ張り出した紙幣を置く。

「とても美味しかったので御釣りは要りません。」

 店員のありがとうございましたを背に私は足を前に前に踏み出した。太宰さんは追っては来なかったが後方でもう一人男性と云い争うような声が聞こえたような気がした。

 自宅であるアパートの近くの駅に降り、其処へ戻ろうとした時である。懐で電子音が鳴った。仕事だろうか。医者の絶対安静の言葉はいつまで経っても聞けそうにない。

私は携帯を耳に押し当て、はいと応えた。

 通話相手である顧問役が云うには粗大ゴミの処理の手伝いをしろという内容であったが、実際には下級構成員のよく回ってくる仕事の一つ。死体処理である。

 死体処理と言っても、只片付けるだけでない。戦闘の痕跡を消し、証拠は全て隠滅し、時には不自然死に見せかける。

 再び電車に乗り、所定の地点に到着した私を待っていたのは作業服を着た死体処理歴(=下級構成員歴)20年の40代ベテラン男性であった。私はこの人を先輩と呼び、よく手伝いをしている。

「お前はいっつもギプスしてるか松葉杖ついてるのなあ。今日は両方だけど。」

「訓練でちょっと……」

「訓練って云ってもよ。あの芥川の金魚のフンみたいな女、いるだろ?あれがそんな大怪我してるところは見たことねえぞ。」

「金魚のフン……」

 樋口さんのことだろうか。だとしたらかなり失礼な云い方である。一応、直属でないにしても樋口さんの方が役職的には上なのだから。

「樋口さんは美人ですし。」

「それとこれは違うと思うけどなあ。」

「樋口さんは仕事も早くてとても優秀な方ですよ。」

「優秀なら後片付けがやり易いようにしてくれても良いだろうがよ。」

 先輩が向ける目線の先には身体の中心を刃で貫かれ、串刺しになったような死体が折り重なるように転がっていた。

「多いですね……」

「芥川の異能力は容赦ねえからなあ。こう、ブスーーッと一発さ。噛み砕いたみたいな死体よりはよっぽどマシだがな。」

 先輩は黒の寝袋に死体を1体ずつ丁重に入れていく。先輩に準じながら私も無言で作業を開始した。

「俺もこんな風に死んでいくのかねえ。」

 全員分の死体を回収し、並べたところでポツリと先輩が溢す。

「先輩は優秀なので大丈夫ですよ。」

「万年最下級構成員の俺に対する嫌味かぁ?」

「私は役立たずなのできっとずっと最下級です。」

 そんなことないと思うけどと先輩は間髪入れずに云った。

「こんな怪我してぼろぼろの癖に、誰もが避けるような仕事手伝ってくれる奴が役立たずな筈ねえだろ。今回だって結構な人数に召集掛けたがこのザマだしよ。」

 先輩は寝袋をトラックに積める。日は既に落ちており、街灯の光だけが私たちを照らしていた。

「死体の片付けなんて誰もしない、したくない。でも、誰かがしねえとヨコハマは死体だらけになっちまう。それくらいには治安が悪い場所だよ、此処は。」

「それは……」

「そんなヨコハマ見たくない、だから働く。首領への忠誠心とか関係なく、ヨコハマのためにな!」

「何か格好良いです、先輩。」

 何かじゃなくて格好良いんだよ。先輩は腰に手を当て訂正した。

「そう云うならマフィアなんて辞めろって話だが、俺はこのポートマフィアに恩があるしな。」

 ポートマフィアの中には色々な事情を持つ者が多い。先輩もその一人なのだろう。先輩ならきっと光の世界でも生きていけるだろうに。それでも彼に対し眩しいものを感じないのは先輩にマフィアとして生きる覚悟があるからなのだろう。

「お前も自分のこと役立たずなんて思うなよ。マフィアでもそうでもなくてもお前を必要としてくれる奴は絶対いるから、な?」

 本当にそんな人がいるだろうか。私のような罪を犯した人間を必要としてくれる人が。

「よし、今日はおしまいだ。お前明日暇か?」

「緊急の用件がなければ。」

「んじゃ、ここに明日昼集合な。血痕とかもうちょい消したいからさ。」

 だいぶ消えているとは思ったが何も云わず私は頷いた。プロは妥協しないのだ。

 先輩は、んじゃ明日なーとトラックに乗り、窓から私に手を振った。

 明日、明日か。
 約束がある以上明日までは生きなければならない。

 踵を返して自宅の方へ、闇に溶け込むように私は足を運んだ。


中原中也は夜の街にバイクを走らせていた。その表情は険しく、鬱憤を晴らすようにアクセルを全開に道を駆け抜ける。

「クソっ……」

中也の機嫌が著しく損なわれているのは早朝の一件によるものに他ならない。元は部下のそのまた下の下であった少女。何かと偶然や因縁が重なって行動を共にしていることが多く、戦闘に関しても一通り教育を行ったのは中也であった。

 その頃から少女は生に対して執着がなかった。元相棒の自殺癖とは異なる、死への羨望を少女は常に宿していた。

 更に拍車を掛けたのは首領の命令で芥川から訓練を受けるようになった頃からだった。

 自分を役立たずと、無能と、無価値な存在だと刷り込むように口にするようになった。

 見る度に傷が増えていった。ギプスか松葉杖のどちらかを会う度に目にするようになった。両方あることもざらにあった。

 食事に連れて行こうとしても断られるようになった。あまり食べられないのだと困ったような表情を浮かべていた。

 顔色が一段と悪くなった。目の下に隈ができ、睡眠不足であることがありありと伝わってきた。

 少女と出会う頻度が格段に減った。朝や昼間の仕事が多くなったのだと、風の噂で聞いた。

 少女は光が苦手なのだとよく云っていた。日光に背を向け、夜を好んだ。マフィアとは逆の所謂光の世界を生きる者たちと接触するのを避ける傾向にあった。元々コミュニケーションに難ありではあったが。

 そんな少女と久しぶりに本部ビルで遭遇した。処刑するときは蚊を叩き潰すように、と処刑されることを死を前提に話していた。

 芥川との訓練の成果は未だに出ないのだという。寧ろ人虎の件で荒れていた芥川によって頭を強打し意識不明の重体、昏睡状態が続いていたのだと報告が上がった。直ぐに見舞いに行ったが目を閉じあちこちに傷を負った彼女を見ていることすら辛かった。

 少女の異能は自身の危機を察知するというものであって未来視とは別物であった。織田作之助の《天衣無縫》を越えることなど殆ど不可能な話であった。

 少女が首領の部屋から静かに立ち去る。カツカツと一定のリズムで反響する松葉杖の音が遠ざかり、中也は一歩首領の前に進み出た。

「中也君、待たせてすまないね。」

「いえ、問題ありません。」

 首領、森鴎外はにこりと綺麗な笑みを浮かべる。

「実は少し気になることがあってね。調査を依頼したいのだが。」

「直ぐに手配します。……組合関係ですか?」

「違うよ、また別の組織だ。」

 組合との戦いで小さいとは云えない損害を被ったポートマフィアは現在立て直しを図っている。その隙を突こうとする下部組織や海外組織が少なからず存在するのだ。

「潰して貰っても構わない。指揮は君に一任しよう。」

「了解しました。」

 中也は資料を受け取り、部屋を出ようとして立ち止まった。

「首領、先刻の……」

「うん?ああ、彼女かい?君は面識があるんだっけ。」

 中也は頷いて、ある提案をする。

「俺に教育を任せて貰えませんか。」

「何故かな?」

「芥川では……彼奴の身が保ちません。」

 あんな訓練を繰り返していたら遠くない未来、命を落とす。中也にはそれが分かっていた。しかし、首領は顎に手を当て考える素振りをしただけだった。

「彼女は芥川君に任せる。」

「……俺では力不足ですか。」

「違うよ。君では彼女に生きる希望を持たせてしまうかもしれないだろう?」

 生きる希望?中也は聞き返した。

「あの子は優秀だ。仕事は絶対に完遂するし、頭の回転も悪くない。むしろ良い方なんだけど。君のおかげで戦闘能力も向上しただろうしね。それに貴重な異能力者だ。私は彼女に大きな期待を寄せているし、絶対の信頼すらも抱いている。」

「それだけ買ってるなら……」

何故、彼女を下級構成員のままにしているのか。

「彼女の異能力が《天衣無縫》を越えることは不可能だ、絶対に。彼女のそれは異能力と云われればそうであるし、只防衛本能と勘が鋭いだけだと云わればそれまで、そんな能力だ。」

「ならあの訓練は何のために……?」

森鴎外は不敵に口端を上げた。

「もし私が突然敵の凶刃に遭った場合、どうなると考えるかな、中也君。」

「それは……俺が。」

「君達幹部がいなかったら。」

 それは、首領の近くにいる護衛の誰かが身を盾にしてでも守る、ということになるだろう。

そこで中也は感付いた。

「訓練しているのは彼女が自分だけでなく、他の人間の危機すらも察知することができる、その可能性を見出だしたからだよ。それができるようになれば私の傍に置こうと考えている。」

 なら、彼女は何か。

 首領の万が一の際の盾となるために生きているというのか。

「彼女は自分より年下の子どもたちを、異能力でその危機を察知していたにも関わらず見殺しにした過去に縛られている。」

その過去を、トラウマすらも利用されて。

「仇であっても見殺しにはできないだろうねえ。彼女は。」

 首領は至極呑気な口調で語った。だが、それは余りにも残酷なものであった。
 首領は彼女の最後の盾としての異能力、性格を含めた能力を評価しているに過ぎないのだ。

其れはポートマフィアの首領に必要な合理的な判断。組織の意志なのだ。

「けれども、彼女が生に対して希望を持ってしまえば話は別だ。一瞬の躊躇で人は死ぬこともあるのだからね。」

「首領、ですが……」

「死こそが希望、死こそが救済。今の彼女の力はそうでなければ使い物にはならない。部下を思う君には心苦しいことかもしれないがね。……失望したかい?」

「いえ……」

ポートマフィアの幹部以下全ての人間には首領を守らなければならない責務がある。命に換えても、だ。しかし、その意志が希薄な者も間違いなくいるわけで。信用できないということは分からない訳でもなかった。

「よって、彼女は今のままで良いんだよ。もし、彼女に生の意味を与えようとするならば……」


中也は法定速度を若干無視したライディングを終え、本部ビルへと戻る。
すれ違う部下たちに声を掛けながらデスクワーク用に充てられた執務室の扉を開く。

ポートマフィアにとって首領も幹部も確かに重要な役職であるが、それでも最も大事なのは部下や構成員だ。彼らは組織の財産だと中也はそう考えている。

 デスクに積まれた報告書を視界から外し、執務椅子に深く腰を下ろす。

 彼女を何とかしたいと思うのは間違っているのだろうか。

……否、間違っていない筈だ。

 具体的には何をすれば良いかは分からない。
 只、何かしてやりたいと思うのだ。

 そもそも首領に死に値する危機がなければ彼女が出る幕はない。
先ずは目の前の脅威から、徹底的に排除する。中也はくるりとチェアを一度回してから報告書に手をつけた。


翌日、どんよりと曇り今にも雨が降りそうな空の下、私はアパートの自室を出た。朝はいつも通りの夢を見ながら起床し、報告書の作成をしていた。
時間帯としては昼と呼ばれる時間となり、折り畳み傘を持参して駅へと歩く。

昨日も来た駅の改札を抜け、丁度着いた電車に乗る。電車の中は閑散としていて主婦と思われる女性や年配の夫婦が座っているくらいであった。その年配の夫婦が蜜柑を5個くれたため、トレンチコートのポケットをパンパンにして目的の駅で降りた。

先輩に渡したら食べてくれるのだろうか。要らないと云われたら芥川さんに投げつ……渡せば良いだろうか。否、今思えば芥川さんとは訓練以外会ったことがない。

「……矢っ張り先輩にあげよう。」

 厭がられてもビタミンですよー、と強制的に口に突っ込む。これが最善だ。

 予想通りに雨が降り始め、黒い折り畳み傘を開き、約束した地点へと向かう。
この雨で血痕は流れないだろうか。そうすれば先輩の仕事も少しは減るのに。

 目的地に近づく毎に雨と喧騒が混じり合ったものが耳に入ってくる。ここは云うと申し訳ないがマフィアが戦闘に使うくらいには人通りが悪い場所だった筈だ。

 更に進み先輩と待ち合わせた場所の近くまで来た。人だかりができていて、なかなか思うように歩けないが分け行って漸く人並みの前に来た。

 鼻腔を微かに血臭が掠めた。

 背中を悪寒が走った。

 パシャリと踏んだ水溜まりは雨によってできたものではなかった。

「……あぁ。」

 昨日、先輩と二人で作業した場所だった。もう随分と綺麗になっていたのに血痕が気になるから、と云っていた場所だった。

そこには新たな血が流れていた。真新しい深紅の血液だった。雨に流され広がる赤の海の中心には。

 人が倒れていた。

 仰向けで手足を投げ出す男性。

 顔が判別できない程砕かれた死体。

 それでも私には分かる。これが先輩だということを。

 俺もこんな風に死んでいくのかねえ。
 昨日先輩が云っていたことを思い出す。
 真逆、現実になるなんて誰が思っただろうか。

 先輩には帰る場所があった。
 妻と子どもがいるのだと、幸せそうに話していた。

 ヨコハマが大好きな人だった。

 何故。
 何故先輩が死ななければならなかったのか。

 何故私はいつまでも此の世に居続けているんだろう。

 私はそっとその場を離れた。

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