其の二十四

本部ビルに着いて、バイクを降り射鹿さんの狙撃銃の入ったライフルバッグを背負って、エントランスへ向かう。

「歩っ!」

聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、振り返れば立原さんと銀さんが駆けてくる。

「中也さんから話聞いて来たんだ。首領の所に行かねえと。」

「広津さんは......?」

「ジイさんはオーディンの後始末だ。」

黒蜥蜴では、首領の元に向かう人間を立原さんと銀さんだけにし、別の構成員は一ヶ所に集まって待機するように指示している。其の意見に強く反対する者、指示に従わず本部へ向かおうとする者はオーディンの力が作用している可能性があるとして隔離しているのだそうだ。別部隊もその様な対応を取っているらしく、本部は無人に近いらしい。

エレベーターに乗り、ヨコハマの街を眼下に望みながら、立原さんは険しい顔で云った。

「お前がさ、探偵社行く前に一件仕事頼んだだろ?あれももしかしてオーディンの影響下にあったからなんじゃないかって。」

「はい、其の可能性は極めて高いです。......すみません、判別できなくて。」

立原さんはお前を責めてる訳じゃない、と首を左右に振った。

「だって彼奴等は裏切ってねえ。オーディンに利用されただけだからな。だったらお前の目には見えなくて当然だろ。」

銀さんが私の肩を叩いた。大丈夫だと励まされているようだった。

「ただ、現状オーディンの異能力から解放するには命令を達成するか、殺すかしかない。命令を達成するってなったら首領を殺す事になる。......首領を殺させる訳にはいかねえから彼奴等を殺すしか選択肢がない。」

糞みたいな異能だ、と立原さんが吐き捨てる。

「首領がもし構成員から襲撃を受けたとして、対応は如何しますか?」

「......どんな理由であれ首領に手を出した時点で其奴等に此処で生きていく道はねえよ。」

エレベーターが停止し、扉が開く。

「躊躇うなよ。じゃねえと、此方が死ぬ。」

立原さんが両手にそれぞれ拳銃を、銀さんも短刀を手にした。

「了解です。」

太腿に装着した拳銃嚢から愛用の二挺の拳銃を引き抜き、前を行く二人を追う。首領の執務室の前には見張りの構成員が二人いて、臨戦態勢を取る私達を警戒するように自動小銃を向けた。

「緊急だ、通してくれるか。」

見張りの構成員は武器を降ろすようにと警告する。重厚な壁や扉、そして見張りのポートマフィア内でも選りすぐりの構成員によって首領の執務室前は荘厳な緊張感が漂う。殺気が加われば尚更だ。

「首領に連絡はしている。今は首領の命に関わる危機的状況だから武装してるだけだ。」

それならば、と見張りはゆっくりと扉を開いた。立原さんの此れまでの功績からくる信用の賜物だろう。

立原さんと銀さんは中に入り、銃口と刃を床に向けるようにして持ち、手を後ろに組んだ。私も其れに倣い、立原さんの背に隠れるようにして立った。

首領と今、面と向かって話すのは少し気が引けたからだ。

「話は聞いているよ。此処は確かに安全だが逃げ場はない。誰が敵か味方かも分からない此の状況において一ヶ所に留まっている事は得策ではないだろうね。」

「俺と銀、其れに歩で護衛します。」

君達なら安心だ、と首領は立ち上がり、私達の元へと歩き出した。私は首領と視線が合わないように全面窓を見ていた。其処でふと気付いた。

空に何かが見える。

どんどん近付いてくる。

闇が、人が見える。
複数の人間が、私には見える。

一つだけ、思い至る事象があった。私は体験した事がないが、ヘリコプター型の輸送機にステルス系と増強系の異能力を掛けて、ビルの最上階に突っ込み、輸送機から部隊を排出し、無理矢理上階から制圧するという戦術を使う組織があった、というデータを見掛けた事がある。

其の際、確か強化防壁に回転式多銃身機関砲で穴を開けて輸送機と建物の衝突による衝撃を緩和したとか。其れでも輸送機は飛べるような状態ではなかったらしいが。

真逆。

否、躊躇っている暇はない。

私は、やらなければならない。其れがポートマフィアの構成員としての使命なのだから。

「首領、空からの襲撃があります。速やかに脱出を。」

戦慄が走る。

マジかよ、と立原さんが唸る。

「制圧を阻止するため、私は残ります。立原さん、銀さん、首領を頼みます。」

「けどっ......!」

「もし、私の予想通りになればエレベーターが破壊される可能性もあります。なので、速く行ってください。」

立原さんと銀さんは渋るが、首領は空を見て一度頷き、歩き始めた。私を振り返りもしない。

其れがポートマフィアの首領だ。

「っ......死ぬなよ!」

立原さんと銀さんは首領を追い、走っていった。私以外人は誰もいなくなってしまった。

「生きたい......」

けれど、其の意志が反映されないのが戦争だ。

あと10秒。空で突然火花が散り、強化硝子の窓に銃弾が穿たれた。今は凹んでいるだけだが、秒間数百発の銃弾が撃ち込まれる事で所々穴が空いた。

そして、凄まじい衝撃が執務室を襲った。縦か、横かも分からない激しい揺れと形容する事もできないような破壊音。

ステルスがなくなったのか、其の衝撃の正体が姿を現す。ポートマフィアが所有する輸送機の内の一機だった。其れの前部分、操縦席付近が少し突っ込んでいる程度だった。首領の執務机や装飾品が若干吹き飛んでいる位の被害である。

結論、輸送機は原型及び飛行機能を保持しつつ、建物の被害も最小という形になっている。

分析をしつつ、拳銃の銃口をハッチに合わせる。

が、直後。

ずぶりと不穏な音が響いた。

其の音は直ぐ近く、否、私の身体から発せられたようだった。

背中を見る。不可視の何かが刺さっている。私の目に不可視の無機物は見えない。見えるのは白衣を濡らす赤だけだ。

「っ......!」

私はいつの間にか背後に存在していた闇に回し蹴りを放った。踵が鳩尾に命中したらしく、がふっと息を強制的に吐き出す声と共に床に倒れた。

不可視のものが露になる。背中に刺さっていたのはかなり小振りなサバイバルナイフだ。幸か不幸かおかげで内臓は傷付いていない。内臓に届いていたなら異能力が発動して避ける事ができていただろうから。

多分、首領達と入れ替わるようにして侵入していたのだと思う。私は窓を注視していたから其の隙を突いてナイフを突き立てた、と推測される。

起き上がろうとする男に銃口を向ける。男は何か......呪詛の言葉でも吐こうとしたのだろうか、大きく口を開いた。

男の口から一音が発せられようとした時、私は引き金を引いた。

男の呪詛の言葉は断末魔に変わり、男は今度こそ床に伏した。

私は男の死を見届ける事なく、次の行動に移った。転がるようにして衝撃によって吹き飛び縦に立つような状態になった執務机の陰に隠れ、外から侵入した黒服の男女が撃つ自動小銃による無数の銃弾を躱す。

目が眩むような閃光の中、視界の端に執務室からエレベーターに向かおうとする数人の影を発見した。

「させ、ないっ!!」

愛銃が撃鉄を轟かせる。手に重い痺れが走る。

銃弾は頭や胸に当たり、鮮血が舞った。致命傷だ。そうなるように私が撃った。

全員見覚えのあるポートマフィアの構成員だった。

「貴女は思わないの?」

銃撃音だけが響く室内で女の声が聞こえた。

射鹿さんの声だ。

「中也さんを一番にしたいって。中也さんを誰にも命令される事のない場所に立たせてあげたいって。」

「......思いません。」

何でよ、と癇癪に近い声が耳を打った。

「中也さんは頂点に立てる存在よ!だって、中也さんはわたしを部下にしてくれたのよ!優秀だって、お前にしかできない事があるって、わたしを直近の部下にしてくれてたの!!森鴎外はわたしの事名前すら覚えてなかったのに!」

分かる。
気持ちは痛い程分かる。

だって、中原幹部は私に希望をくれた。未来をくれた。居場所をくれた。

無価値で、欠陥品で、何処で野垂れ死んでいようが誰も気に留めないような、こんな私を。

いつだって助けてくれた。

「中也さんをわたしが首領にする。わたしが首領に導くの!!だから、邪魔しないで!!」

射鹿さんの言い分は分かった。他の構成員も多かれ少なかれそう考えているのだろう。此処にいるのも中原幹部の直属の部下が多い。でも、彼等がどれだけ叫ぼうが通す事はできない。

「あなた達の間違いは二つあります。」

私は呟くように、だが彼等に確かに聞こえる声で云った。

「一つ目は、あなた達の此の行動は寧ろ中原幹部の地位を貶める可能性が高いこと。此れは考えれば分かる話です。組織を揺るがし命令に背くような反逆者を部下に持つ幹部を誰が首領として認めるのかという事です。」

現在の首領、森鴎外は今のポートマフィアを確立した存在として、幹部含め組織が絶対とする人物だ。ポートマフィアを統べるのは彼しかいないとされる程大きな存在。部下が勝手に蜂起し、事を起こしたとなれば中原幹部の信用は地に落ちる。

「そして、もう一つはあなた達の其の意志が自分のものである可能性が極めて低い事。もし自分の意志で此の行為に及んでいたとしたら余りに時が悪いという他ありません。」

オーディンに操られているのだろうと憐れまれ、現時点では駆逐の対象でしかない。自分の意志だと声高に云ったところで誰も信じないし、手伝う事もない。

「此れだけ大きな理由があればあなた達の前に立ち塞がるのに十分だと思いませんか?」

「首領に気に入られてるからって調子に乗って......!」

射鹿さんが怒りに肩を震わせ、自動小銃を私に照準した。

「貴女一人で幹部直属の強襲部隊に勝てると思って?」

「此処には確かに私しかいない。でも、あなた達の味方が此れ以上増える事もない。」

私は無事に首領が安全な場所まで行けるよう、時間を稼ぐ事が最大の目的だ。

勝ちに拘る必要はない。

でも、少しだけ欲張って良いなら。

此のポートマフィアの精鋭集団を撃破し、生き残りたい。

私には未だやらなければならない事があるから。

構成員が一斉に引き金に指を掛ける。私は構成員達の人数、配置などから戦術を組み立てる。

警鐘は鳴らない。

なら、此の30秒、私は無敵だ。

私は彼等が引き金を引く前に動いた。懐から閃光弾を取り出し、彼等に放る。

「閃光弾よ!皆、目を......!」

射鹿さんの声に構成員達は目を閉じたり、小銃を影にして光を見ないよう防御姿勢を取る。

次の瞬間、閃光が弾けた。白光が視界を埋め尽くし、視力を奪い身動きが取れなくなる。直視した者はだが。

「5秒後、戦闘開始しろ!大丈夫、向こうも早々動けな......っ!」

ドガッという音に指示を出していた男が息を呑む。

私が執務机を蹴り倒した音だ。

そのまま私は倒れた執務机の上に立ち、すかさず背負っていたライフルバッグを投げた。不意を打たれた構成員の男の頭に命中し、跳ね返るように宙を舞う。

私は瞬間、地を蹴り、男に肉迫した。宙をくるりと回転していたライフルバッグを再び手にし、其れで男の頭部を強打する。鈍く生々しい感触が手に重く響いた。

銃床の側面が命中したのだろう。男は泡を噴いて床に倒れた。

「わたしのっ、狙撃銃......!!」

射鹿さんが目を剥き、狙撃銃に手を伸ばす。しかし、私は其れを背中側に引いて、拳銃を向ける。

「っ、く!」

二回引き金を引く。直前に射鹿さんは大きく後退し回避する。射鹿さんが先程立っていた場所を銃弾が跳ねる。跳ねた銃弾は別の構成員の腕や足に当たり、呻き声となって返ってくる。

「何でそんなに強いのよ、大した異能力じゃないに。わたしと同じ非戦闘系の筈なのに......!」

「多分、其れは皆さんと同じです。」

ナイフを振りかざす男の腹部に打拳を、殴り掛かってくる女は勢いを利用して投げ飛ばす。

「中原幹部のために戦っているからです。」

私は中原幹部の意志を守るために戦う。

中原幹部の今を守るために戦う。

「射鹿さんは、今が幸せじゃなかったんですか?中原幹部の傍にいて、支える事ができる今が厭だったんですか?」

「っ......!!そんなのっ!!」

「私はあなたなら中原幹部を守ってくださると信じていました。私がいなくなったとしても、あなたなら命を賭して、一番近くで、中原幹部を守るだろうと。」

振り回したライフルバッグが骨を砕く。銃弾が頭に、胸に、当たってはばたばたと人が倒れていく。

「中原幹部を悲しませないと、そう信じていたんです。」

顔を、腕を、肩を、足を、脇腹を、銃弾やナイフが掠めた。白衣が自分と誰かも分からない血で赤く染まる。真っ白だったのが嘘のように。

痛い。痛くて堪らない。

もう何人殺したかも分からない。中原幹部の部下、姐さんの、黒蜥蜴の部隊の人もいた。

皆、大切な人の未来のために戦っている。変革を求めて、特別になって欲しくて戦っている。

其の意志を私は潰して、壊して、踏み躙って、なかった事にしている。

自分が正しいのかなんて、もう分からなくなる位殺している。

其れでも手と足は止まらない。止まってはいけない。

どしゃりと誰かが血の海に沈んだ。

輸送機から人が出てくる事もなくなった。もう殆ど殺してしまったのだろう。

最後の一人は射鹿さんだった。歩み寄る私に射鹿さんはじりじりと後退する。

「わたし、わたしね、気付いたの。」

射鹿さんは俯いて云った。

「わたしは中也さんに恋してるんじゃなかった。好きな人がいたのに、何故か中也さんを好きになって......。」

「......オーディンの異能力、ですね。」

私の声は極めて冷たかった。

「わたし、中也さんのために命は賭けられない。でも、戦うことも止められない。中也さんを首領にしたくて堪らないの。」

助けて、と射鹿さんの唇が動いた。声はない。でも、確かに射鹿さんは云った。

「私は、あなたに恋を教わったんです。恋という存在が痛くて苦しくて、でも熱くて、愛とは違う自分だけの大切な感情だと知った切欠だったんです。其れをあなたは......嘘だと云うんですね。」

右手の黒の9ミリ拳銃をゆっくりと射鹿さんに向けた。

「最後に一つ教えてください。グルヴェイグの居場所、あなたは知ってるんじゃないですか?」

射鹿さんは顔を静かに上げた。知っているわ、と震える声が響いた。

「沿岸にポートマフィア所有の廃工場がある。わたしが以前見張りをしていたの。其処にオーディンとグルヴェイグが現れて、わたしは......」

オーディンに操られる事になった、そういう事なのだろう。最後まで聞かなくても分かった。

引き金に指を掛ける。もう聞く事も、話す事も何もない。

射鹿さんは動かない。

「さよなら。」

もし、次があるならば。

誰にも利用されず、自由に。

自分の本当に大切な人のために。

銃声が一発鳴った。空薬莢が乾いた音を立てて落ちた。

「......行かないと。」

グルヴェイグを倒す。そして、全てを終わらせる。私はライフルバッグを背負い執務室を出て、エレベーターで一階に降りた。本部ビルは静まり返っていて人の気配がまるでない。引き摺るように足を動かして、其処を後にする。

身体が重いのか、白衣が重いのかすら分からない。衣嚢をがさがさと漁って、即効性があるとか云う痛み止めの注射を腕に刺す。胸の奥の痛みも此れで消えてしまえば良いのに。そういう訳にはいかないだろう。

停めていたバイクに乗り込み、道に出た。空は僅かに紫掛かっていて、夜が終わりを告げようとしているのが分かった。

バイクを走らせ、辿り着いたのは作良さんの工場兼自宅だった。キャンピングカーがあるから、戻ってきているのだろうか。そっと扉を開けば、カウンターでノートPCを操る作良さんの姿があった。

「作良さん。」

私が名前を呼ぶと、作良さんは視線を私に向けた。

「莫迦だなあ。女の子が身体中傷だらけにしてさ。」

悲しそうに微笑む作良さんの方に足を進める。

「なあ、お前はもう十分頑張ったんじゃねえの?」

PCを閉じた作良さんが車椅子を動かして私の前で止まった。

「だってさ、お前はいっぱい傷付いてんだよ。心も身体も。お前は......人を殺せるような人間じゃないから。命の重みをお前はよく知ってるから。」

作良さんは私に手を伸ばして、頬を撫でた。

「もう此れ以上何もする必要ないんだ。ゆっくりのんびりしたって誰も文句云わないだろ。何なら彼奴の提案通り外国行くか?」

作良さんが穏やかに尋ねる。

「ヨーロッパとか良さそうじゃね?暑いところと寒いところは厭だな。ってそんなところ中々ないかー。丁度良い気候ってねえのかな。」

作良さんは何処までも優しかった。私はいつも其の優しさに甘え、そして救われている。

「作良さんは......私を、立ち止まらせてくれる人です。隣で一緒に止まってくれて、其れを許して、認めてくれる私にとってとても大切な人です。」

中原幹部は何時だって私の手の届かないところにいる。真っ直ぐ前にいる筈なのに其の背中は遠く遥か彼方にある。私は中原幹部を追って前に、前にと進む。

けど、中原幹部には届かない。

そんな私に、止まって良いよと云って、一緒に止まってくれる人がいる。私がまた進み始めれば一緒に進んでくれる人がいる。一緒に進んでいるけれど、私がいつ諦めても良いように逃げ道を用意してくれる、そんな人がいる。

「ごめんなさい、作良さん。私はもう大丈夫です。」

だからこそ、私は止まらない。止まる訳にはいかない。

「私がグルヴェイグを殺します。王の写本を此の手で殲滅してみせる。」

「何で止まんないかな。おれ、本気だと思われてない訳?」

作良さんは俯いて大きく深い溜め息を溢した。

「おれは、止まって欲しいんだよ。此処で止まって、逃げて、戦うのなんてやめて欲しいんだよ。......好きな奴が死に行く所なんて見たくないんだよ。」

ぐずと鼻を啜る音が聞こえた。泣かせる心算はなかったのに。作良さんは袖で目を擦った。赤く腫れた目が痛々しかった。

「行くな、行くなよ。一緒にいよう。ずっと......一緒に!」

私は、作良さんに腕を回した。血が着いたのは申し訳なかったが、此れくらいしか私に今できることがない。

「作良さん、私は帰ってきます。必ず、あなたの元に帰ると約束します。そうしたら、何処かに遊びに行きましょう。誰も、私達を知っている人がいないような、そんな遠くに。」

ハハ、と作良さんが乾いた笑い声を上げた。どうも信用されてないようだ。此れも日頃の行いのせいである。如何すれば信用されるのだろうか、と考えながら背中を擦っていると、作良さんがぽつりと尋ねた。

「お前が行かなきゃ駄目なのか?」

「......はい。」

「少し待てば、幹部とかがやってくれるんじゃないのか?」

「いいえ、此れは私が終わらせなければならないんです。」

「......策はあるのか?」

私は作良さんから身体を離し、胸に手を当てる。

「勿論です。そのために此処に来たんですから。」

「......そうだな。頼まれたやつなら届いてる。」

作良さんが車椅子を動かし、棚から細長い箱を取り出した。私に向かって軽く放って、持ってけと促す。

「おれが多少弄ったから、おれの異能力もあってかなり強化されてる筈だ。後は、止血して着替えとけ位しか云えない。」

「ありがとうございます。」

「......其れで本当に勝てるのか?」

私は、小さく首を振った。分からない、というよりは勝ち目はないに等しいだろう。

何せ向こうは不死身なのだから。

「でも、できるだけの用意はしたので。後、必要なのは可能性を掴むに足り得る少しの運位でしょうか。」

「最後は運任せかよ。其れで帰って来るのを信じて待てって?」

莫迦じゃねえの、と作良さんは笑った。私もグルヴェイグに敗北して色々あの手この手、利用できるものは全て利用して万全と云える準備をしてきたのだから。

最後は運としか言い様がないところまで準備したのだから。

「勝ってみせます。」

「......分かったよ。おれは止めない。もう勝手にしろ。」

作良さんは云って、タオルや包帯、消毒液などを私に投げた。鬱憤を放出するように、ビュンビュン投げてくるのでとにかくキャッチする。

「ばーかばーか、お前なんか大嫌いだ!」

「先刻は好きって云ってたのに......」

「ずっとおれの気持ち無視してたの何処のどいつだよ、ばーか!!」

服を脱ぎ、止血をし、もう一度痛み止めを打った後、新しい服と白衣を着る。私に背を向け、ばーかばーかと未だに罵っている作良さんにそろそろ行きますねと云い置いて、出入口へ向かった。

扉を前に私は立ち止まる。

「作良さん、一つだけ聞いて良いですか。」

「莫迦の質問には答えません。」

「私が帰ってこなかったら如何しますか?」

返事がない。沈黙が流れ、時が過ぎ去っていく。それでも私は待った。答えを聞かなければならないとそう思った。

「......此処に居るよ。」

作良さんは落ち着いた声で云った。

「お前が帰って来るのを此処で待ち続けるよ。最後の瞬間まで、ずっとな。」

ああ、其れは責任重大だ。

「作良さんのためにも、帰って来ないと、ですね。」

扉を開け、外へ出た。綺麗な朝焼けが目の前にあった。此の景色を見るのを今日で最後にはしない。決意を胸に私はバイクへと歩みを進めた。


中也と芥川は本部ビルに駆け付けた。森と立原の情報に依れば、歩が一人で戦っているのは明白だったからだ。

本部ビルを見上げれば首領の執務室がある階には輸送機が突き刺さっている。あの大きさならば二十から三十人程を乗せることができる筈だ。ハッチが開いていることからも乗っていた兵が執務室を襲撃したのが目に見えている。

歩は強いが、数で押されれば......。

だが、戦場になっているにしては、其処は余りに静かだった。

「芥川、手前は下から頼む。俺は直で上に行く。」

「了解しました。お気をつけて。」

お前もな、と返して中也は空を駆り、強化硝子の壁を蹴って、最上階の執務室に難なく到着した。

そして、中也の視界に広がっていたのは。

惨状。

其の一言に尽きる。

首領である森鴎外はクリーンであることを好む。故に執務室では血は殆ど流させない。血の匂いがしたのは中也の経験上、今を含めて二回。

其の二回のどちらにも歩が関わっている。

凄まじい血の匂いに中也は顔を引き攣らせた。何処を見ても死体、死体、死体。生きている人間は一人もいない。

其の中に、中也は自分の直近の部下を見付ける。仕事のできる優秀な、ナイフを得意としていた部下だった。他にも、紅葉の部隊、黒蜥蜴、遊撃隊の構成員の顔見知りが見えた。

一通り見て回り、最後に中也が確認したのは射鹿まりの死体だった。一発の銃弾によって即死しているようだった。当然だ、分かりきっていたことだ。

優秀な部下だった。自分に心酔し、此処までついてきてくれた大切な部下だった。

仇を討ちたいなどとは考えなかった。仇である男はもう死んでいるのだから。

だから、ただただ、こう思った。

「......莫迦だな、手前は。」

充血した目を開き涙を流して倒れていた射鹿の目に手を当てそっと閉じて独り言ちた。

「本当は俺の仕事だってのに。」

丁度その時、扉が開いて芥川が現れた。血臭からか、それともいつもの呼吸器の問題か、口に手を当て咳をする。

「下階問題ありませんでした。」

「そうか。」

「......此の中に歩が?」

芥川が死体を見回すが、中也は首を横に振った。

「此処にはいねえ。下もいなかったんだろ?」

「はい。ですが、廊下、エントランス、エレベーターに掛けて血痕が付着していましたので、戦闘後離脱した可能性が。」

中也は死体を避けて、扉の方へ向かい廊下に視線を送る。

「何処かに向かったのだとしたらグルヴェイグの所だろうな。彼奴は王の写本全員を殺そうとしている。」

「......また一人で、ですか。」

芥川の含みのある言葉にそうだよ、と中也は苦笑しながら云った。

「彼奴は何でも一人で片付けようとする。俺達が傷付かないために、俺達を守るために、自分は傷付いても、磨り減っても良いと考えている。」

此れもそうだ、と中也は自分の部下の死体を見下ろして云った。

「歩は白衣の処刑人なんて呼ばれて裏切り者を殺しているが、本当はそんな事はしたくない筈だ。其れでもしているのは、其の反逆を俺達の責任にさせないためだ。」

「......真逆、歩が殺した部下に関して我々が言及されないのは。」

中也は小さく頷いた。芥川の予想を肯定するものだ。

「歩は首領に裏切り者は殺すように命じられている。其れなりに危険を伴うし、誰に批判されようが、罵倒されようが遂行しなければならない。そんな理由から歩は首領からそれなりに報酬を貰っている。其の一つが、自分が殺した人間の、其の上司に当たる人間は責任を取る必要がない、という自分には何の利益もないような権利だ。」

普通、部下が裏切った場合、其の上司に対して処分が下される。決して軽くはない、幹部ならば其の地位を剥奪される可能性もある、そんな罰を負わされる。けれども、歩が未然に其の人間を殺し、反逆行為を防げば、上司は罪に問われない。

「だから、歩は殺しをする。俺達が罪に問われないためにな。」

「僕は知りませんでした。」

「首領と幹部の一部しか知らないからな。」

中也は再び輸送機によって作られた穴へと歩んだ。芥川は何処へ?と尋ねる。

「太宰と合流して、彼奴の所に向かう。芥川、手前は敦とヴァフスルーズニルを追ってくれ。」

「承知。」

中也は穴から飛び降り、芥川はエレベーターの方へ戻っていった。


射鹿さんが云っていた廃工場付近でバイクを停め、二挺の拳銃を手に薄暗い中へ侵入した。ポートマフィアの、オーディンに操られている構成員が居るかと思われたが、誰とも遭遇することなく奥へと進むことができた。

大型の機械などが配置され、金属の管などが敷地内を縦横無尽に走る内部を進んでいくと、コンテナが大量に積まれた倉庫だったと思われる広いスペースに辿り着いた。

突然、明かりが付く。

「来ると思ってた。」

10メートル前方に彼女はいた。

「でも、来て欲しくなかった。来なければ良いって、ずっと祈ってた。」

「グルヴェイグ......」

グルヴェイグは隣にガンドを控えさせ、細剣を手に立っている。

「私ね、歩ちゃんのこと好きなんだよ。友達として、大事にしたいって思ってるんだよ。」

優しい目をしていた。友達に向ける目だ、とそういった関係の人間が少ない私にも分かった。今、引き返せば戦わずに済むとそう目が訴えているようだった。

グルヴェイグ......否、此の場合ヘイズと呼んだ方が良いのかもしれない。ヘイズを私は真っ直ぐに見詰めて告げた。

「私がポートマフィアで、あなたが王の写本である以上、戦いは避けられない。」

「......そうだよね。うん、其の通りだよ。」

私達は最初から戦う運命だったのだとヘイズは何処か諦めた顔で云った。

「でも、前みたいに生かしたりしないよ。」

「勿論です。私もあなたを殺す心算ですから。」

「不死身の私を?冗談でしょ。」

グルヴェイグは嘲笑うような表情で私を見ている。

「冗談になるかならないか、其れは今此処で決めましょう。」

「そうね。其れが良いわ。」

グルヴェイグはガンドの頭を撫でて、何か囁いた。すると、ガンドは走って外へ向かって行った。グルヴェイグの方を見れば、歩ちゃんとの戦い邪魔されたくないからと微笑み、細剣を構えた。

私も両手の拳銃の銃口を彼女に向ける。

王の写本、不死身の少女グルヴェイグとの死闘が今、始まる。


中也は太宰を拾い、車を走らせていた。

「其れで中也、何処に向かっているんだい?」

「知ってて聞いてんのか?グルヴェイグの所だ。」

「其れは分かるとも。特定できたのかという話だよ。」

中也はまあな、と暗い声で肯定した。

「射鹿が死ぬ直前位だろうな、メールを寄越してた。其処に自分に何があったか、自分がどんな想いだったか、みたいなことが書かれてた。」

其の情報から廃工場が王の写本の拠点となっている可能性が示唆された。

「其処じゃなければ別の場所に向かう。候補は山程あるからな。付き合って貰うぜ、太宰。」

「否、其の廃工場で間違いないだろう。乱歩さんの推理とも合致しているしね。」

「矢っ張り知ってたのかよ。」

乱歩さんは歩ちゃん関係になると聞かなくても教えてくれるんだよね、と太宰は真剣な面持ちで云った。

「......あの探偵野郎何か隠してるんじゃねェか。歩のことも、王の写本のことも。」

「......多分ね。其れに関しては社長が乱歩さんに問い質したようだけど、全てが解決したらとか、歩ちゃんが無事に戻ってきたらとか云ってはぐらかされていてね。乱歩さんは私以上に様々なものが見えているから、きっと此の一連の事件も。」

全て見えているのかもしれない。其の上で徹底的に秘密を隠し、最低限助言はする。

「困りものだよ。歩ちゃんのことになると私の予測は宛にならないのに。」

太宰が額に手を当てて呻いていると、中也が薄く笑った。何?と太宰が胡乱げに中也を睨めば中也は笑みを深くした。

「別に?まあ、一つ云うことがあるとすれば。安心しろ、手前にだけはやらねェから。」

太宰は、はあと大きな溜め息を吐いた。

「私を警戒し過ぎて魔人に出し抜かれているようじゃね......」

中也が反論しようとして、着いたよと太宰が遮る。廃工場は静寂に包まれているようであったが、其の入り口に小さな影があった。車から降りた中也と太宰が其の影を睨む。

「やあ、番犬君。歩ちゃんのところに行きたいのだけれど、其処を退いてくれるかな?」

『行かせはしない。』

威嚇の姿勢を取る狼ガンドの声が脳内に直接聞こえた。其れは射鹿の異能力のような、テレパシーに近いものだった。

『行かせるものか。グルヴェイグの邪魔はさせない。』

歯を剥き出しにして、背の毛を逆立たせる狼に中也は一歩前に進んだ。

「邪魔なのは手前だろうが駄犬。死にたくなかったらさっさと道開けろ。」

『我に死はない。』

工場の陰からもう一匹、ガンドと思われる狼が現れる。更にもう一匹とガンドは増え続け、二人を囲んだ。

『お前達二人を殺し、グルヴェイグは歩を殺す。平穏を取り戻すのは我等王の写本である。』

「何体出して来ようが全員ぶっ潰すだけだ!」

中也は右手をダン!と地面に付け、閧の声を上げた。

「重力操作!」

中也の異能により、地面が隆起し剣山のように鋭く複数の狼を貫いた。しかし、逃れた一体が太宰に突進しぎらりと牙を光らせた。

「却説、如何なるかな......」

太宰は拳を握り、狼の頭を殴打する。狼は宙を舞ったものの、一回転して着地した。其の姿に中也は目を見張る。

「其の犬、異能力じゃねェのかよ......!」

「そうみたいだね。」

太宰は拳を摩りながら、ガンドを観察するように見詰めた。ガンドが異能生命体ではない、と太宰によって判明した。しかし其の異様は此の世界に存在するには余りに歪で不釣り合いだ。

何かがある。見落としてはならない、早急に解決すべき重大な何かが。


銃声と剣戟の音が交互に響く戦場が其処にはあった。正確に云えば歩が二挺の拳銃を発砲し、グルヴェイグが細剣で弾き落としているのだ。

撃たれると感じた時点で行動するのでは遅過ぎる。此の時点で常人外れたグルヴェイグの反射速度と運動能力の高さが露呈しているのだ。否、其の程度ならばあるいは歩も可能なのかもしれない。二人は共に同じ眼を持ち、場所は違えど同じように苛烈な戦場を渡ってきたのだから。

違いがあるとすれば。

グルヴェイグの頬を銃弾が掠めた。一筋の傷になったが、其れは直ぐ様修復される。

グルヴェイグの異常なまでの回復力と死して尚復活する其の力。

単純に言語化すれば不死身と呼ばれる其の肉体。

対して歩の身体はぼろぼろだった。先の戦闘での大小の傷。其の中でも最も深い背中の傷。痛み止めを打ち、包帯をきつく巻いても血液は溢れ、白衣を濡らした。

グルヴェイグはそんな歩から目を反らした。

戦いたくない。だって友達だから。

止まって欲しい。だって傷付く姿が見たくないから。

好きなのに。初めての友達なのに。

如何して。
如何して、戦わなくちゃいけないの。

だって、私は。

「神様に恨みなんてない。私は誰も殺されてないのに。」

でも、戦わなければならないと強迫観念のように押し寄せてくる。自分の意思が塗り潰されていく。

何故なら自分は其の恨みから創られた存在だから。

グルヴェイグは地を蹴った。銃弾が掠め、肉を抉る。細剣を振り回す。乱雑に銃弾を薙ぎ払い足を前に動かす。

世界が赤く染まって、視界に映るのはただの人間が一人。区別なんてものはない。区別なんてしてはいけないのだ。

区別してしまったら、剣が、意志が鈍ってしまうから。


中也の手から射出した銃弾が数体のガンドの額を貫いた。ガンドは無数に湧き、常に中也と太宰を取り囲むように動いた。けれども、初期とは異なって攻撃はしてこない。

中也は舌打ちをして、太宰に視線を送る。

「如何すんだ、此れ。明らかに時間稼ぎだろ。」

「否、違う。」

太宰は否定し、首を振った。

「総力戦を仕掛ける心算なんだろう。散っているガンドを此処に集めて何かをしようとしている。そうでなければ我々を殺すと云える程の勝算がない。」

「集めれば勝算があるってか?」

「もし、一つの大きな力がガンドとして分割されているのなら。集結することで本来の力が発揮されるのだとしたら。」

ガンドは異能力ではない。太宰の異能に例外はないのだから間違いない。だが、此のガンドが地球上の生物とも考えにくい。では、ガンドは一体何なのか。

「現実を侵し、常識を覆し、此の世界に存在してはならない異物を産み出す。そんな異能が存在するというのか。」

戦慄を覚える。そんな異能があるとすれば脅威以外の何物でもない。此の世界を構成する、根幹を覆す程の異能力だ。

『其の見解は間違いではない。太宰治。』

一体のガンドが語り掛ける。

『だが、少し違う。此れは偶然だった。我等は奇跡のような偶然によって此の世界に産み落とされた異物だったのだ。』

其のガンドの背中がバキリと割れた。亀裂が開き、其の中に無数の別のガンドが光となって入っていく。

『一つ助言をくれてやろう。我等は一心同体。我を倒さなければ、グルヴェイグも死ぬことはない。またグルヴェイグを殺さなければ我を守る権能も消えることはない。故に我等は不死身なのだ。』

ガンドが光を帯びる。其の光は視界を埋め尽くすまでに広がり、やがて徐々に収束していく。

そうして現れたのは、

「何だ、此奴は......!?」

視界一杯に映る硬い鱗に覆われた胴体はとぐろを巻いていた。首が痛くなる程見上げて漸く見えた頭にはぎょろりと光る目が二つ。

巨大な蛇だ。

口が裂けていて、剣のように尖った牙が露出していた。だらだらと口端から液体が漏れだし、地面を濡らす。

『我はヨルムンガンド。神を殺すため神の眷属となりし者。今此処に神殺しの力、其の一端を示さん!』

ヨルムンガンドは其れだけ云って方向転換した。海の方へとうねりながら進んでいく。

「逃げてる訳じゃねェな。何企んでやがる。」

「考えるのは後だ、中也。追うよ。」

「分かってる。先行して様子見る。手前は歩の助太刀に行け。俺が一人で対処する。」

太宰はそういう訳にはいかないのだと苦笑した。中也が疑念を持ちつつも、空を駆りヨルムンガンドの後を追う。

「私の予想が当たっていれば......」

太宰は目を伏せた。自分の予想は必ず当たる。知っているからこそ、自分は中也の側にいる必要がある。

最善を選び続けなければ誰かが死ぬ。

其れが分かっているからこそ太宰は此処に留まるのだった。


近接戦闘になれば危険だということは承知の上だった。だが、銃弾では彼女を殺しきれないこともまた知っていた。

牽制の一撃でも、致死の一撃でも、彼女は止まらない。

眼前を剣先が閃いた。咄嗟に右に躱す。耳朶を鋭い剣先が抉り取る。痺れはあるが痛みはない。其の剣身が引き戻されながら、私の首を斬らんと水平に移動しているのが見えて、私はグルヴェイグの手を左手の拳銃の銃把の角で叩き落とす。

右手の黒の拳銃の銃口がグルヴェイグの肩口に向いており、そのまま引き金を引く。が、グルヴェイグの空いた手で銃身を払い除けられ、銃弾は壁に穴を穿った。

グルヴェイグが私の右手を掴み、私の銃把がグルヴェイグの細剣を持つ手を押し留める。

私とグルヴェイグは無言だった。

けれど、伝わってくるものはあった。

生きたい、死にたくないという意志同士がせめぎあっているのが分かった。守りたいと、邪魔はさせないと、そんな意志がぶつかっているのが分かった。

此れが人間の極限の戦いなのだ、とそう感じた。不死身だろうが、異能力を持っていようが、此れは間違いなく人間同士の戦いだった。

だからこそ、だろうか。

生きていると確かに実感できるのだ。

「ガンドが戦っているみたい。多分太宰治と中原中也じゃないかな。」

グルヴェイグが口を開いた。

「......そう、ですか。」

「ガンドには勝てないよ。ガンドが誰にも負けないからこそ私も負けないの。」

中原幹部が戦っている。近くで戦っている。ガンドが倒れなければグルヴェイグは倒せない。グルヴェイグを倒せなければガンドを倒すこともできない。そういう事なのだろう。

中原幹部のために、矢張りグルヴェイグは倒さなければならない。

「行かせないよ?」

「行く心算はありません。中原幹部を守るためにはあなたと戦い倒すのが最善です。」

「そ。じゃあ、まだまだ楽しめるって訳ね。」

二人同時に手を振り払い距離を取った、其の瞬間に私の頭の中で警鐘が鳴った。

此処に来て30秒後に此のぎりぎり保っていた均衡が崩れるというのか。

此処で倒れる訳にはいかない。絶対に回避しなければならない。

そんな思考の最中もグルヴェイグの突きが私を襲った。視認できるぎりぎりの速さで放たれた剣先をトリガーガードの付け根で受ける。金属が擦れ合う厭な音が響く。ほぼ目と鼻の先で其の光景が映っている。其の奥で、グルヴェイグが私を真っ直ぐに見詰めていた。

私も視線を交わしながら、踏み込みのために前に出ていた片足を踵で踏み潰した。。ぐ、とグルヴェイグが呻いた声を聞いたとほぼ同時に左手に拳銃を持ったまま拳を突き出して腹部に一発、沿った身体の横腹に蹴撃を放った。

「っ、ダーティな戦い方するんだから......っ!!」

「此れがポートマフィア流の戦い方です。」

ぐらりと揺れたグルヴェイグの身体はしかし其の膂力を以て態勢を立て直した。だが、其処まで私は読んでいた。

「そして、此れが探偵社で盗んだ技です。」

グルヴェイグの手首を掴み、最小の力で投げ飛ばす。ぐるりとグルヴェイグの身体が手首を軸に一回転し、床に背中を強打していた。

探偵社で、国木田さんが使用していた技だ。一度見た時に学習はしていたが、より近くで何度も見る機会に恵まれたため、力の使い方などがより正確に把握できた。

グルヴェイグが立ち上がる前に銃口を其の心臓に突き付ける。間髪入れず引き金を引く。

銃弾が心臓を貫き、グルヴェイグは血を吐いて絶命した。

けれども、グルヴェイグは不死身。何度でも再生する。

其の度に私は引き金を引いた。びくんと身体を震わせグルヴェイグは再び絶命、再生する。

私は引き金を引き続ける。グルヴェイグの胴体を押さえ込み、弾倉を交換し、心臓を撃ち抜く。

警鐘は止まらない。時間は残り10秒。

性急にグルヴェイグを押さえ、其れでも止まらないとなれば考えられる可能性は一つ。

此の警鐘の原因は別にあるのかもしれない。

私の異能力である警鐘には二種類あることが分かっている。重傷以上の危険を知らせるもの、そして死を知らせるもの。

此れは死を知らせる鐘ではない。

だからといって避けずに戦闘不能になる重傷を負えば私は終わりだ。

残り5秒。不意に足が引っ張られ、バランスを崩した。足元を見ればグルヴェイグが私の足を掴んでいた。

「歩ちゃん、残念。」

「っ......!」

「二発、心臓から少しずれてたよ。私以外のこと考えないで。」

腰を強かに打った私にグルヴェイグは直ぐ様覆い被さり、柔道の寝技のように私を固めに掛かった。背中の傷に痛みに限りなく近い痺れが走った。

残り1秒。抜け出そうともがく私はグルヴェイグを見上げた。其の手に細剣はあったが、刃は向けられていない。

そうして30秒が経過した瞬間。

知覚できない程の轟音が響き渡った。何が起こったのかも分からないままに強大な衝撃が全身に叩き付けられる。

身体が宙に浮いて、床か壁にぶつかって止まった。

「あ、く、うぅ......」

何処かの骨が折れた。折れて、骨が内臓に刺さっているそんな感覚があった。

全身が濡れていて水を浴びたようだった。匂いからして海水だ。視界を上げれば目の前の壁の一面が大破していた。

「ガンド......!」

グルヴェイグも私と同じように倒れ伏していた。骨も折れている、私と違って再生するだろうが。

「邪魔しないでって云ったじゃない!!」

グルヴェイグが大破した壁に向かって怒声を上げた。

空気が震撼するような怒りだった。


海に出たヨルムンガンドを中也は空を飛ぶようにして追った。

「如何する心算だ......」

海を泳ぎ移動するヨルムンガンドが廃工場から1km程離れた地点で海から出てきた。首をもたげたかと思った途端、中也に向かって黒い液体を光線のように口から吐き出す。

「中也避けろ!」

重力操作で弾こうとしていた中也はインカムから耳に直接響いた声に反応して回避行動を取った。

「其れは毒だ。重力操作で水流自体は受けられるだろうが、毒は君でも防げないだろう?一旦距離を取った方が良い。気化した毒が呼吸器になんて事もあるからね。」

毒攻撃が直撃した海水は白煙を上げ、黒く染まった。時間が少し経つと死んだ魚がぷかりと浮いてくる。

「糞っ......!」

あの攻撃を続けられればヨコハマの海が毒に侵されてしまう。

そうなれば、ヨコハマは如何なる?

「太宰、次は避けねェぞ。」

「中也......」

「俺は歩を助けるために来た。けどな、俺はポートマフィアの幹部だ。ヨコハマを守る必要がある。毒だろうが、何だろうが此れ以上ヨコハマを汚させる訳にはいかねェんだよ。」

太宰は妙に使命感があるんだからと辟易とした様子で云った。

「けれど、君をみすみす毒殺される訳にもいかなくてね。あの毒水を吐かないように誘導しよう。」

「誘導だ?」

「毒に侵された海水とヨルムンガンドの鱗を見たまえ。僅かに腐食していることが分かるだろう?つまり、あの毒は自身にとっても危険なものであり、長時間触れてはいられない。だから、ある程度近付きかつ低空で移動していれば毒水での攻撃はし難いと考えるのが妥当だ。其れに、触れさえすれば此方のものだろう?」

触れてしまえば中也の異能力で如何とでもできる。中也は当然だと笑ってヨルムンガンドの元に加速した。

ヨルムンガンドは毒水を吐こうとしたが、其れより速く中也は肉迫し、ヨルムンガンドの頭に手を当てた。

「沈め。」

中也の重力操作により下向きの重力が付与される。海の奥深くに沈めればヨルムンガンドであっても上がってくることは難しい。10m深くなるごとに水圧が1気圧上昇する。深海1000mともなれば1平方センチメートル辺りに100kgの圧力が掛かる。深海生物は体内の圧力の同じ大きさにすることで生きているが、ヨルムンガンドは深海で生きていない以上、深海と同じ圧力を体内に保持していることは有り得ない。体内の圧力を変換する機構があるとも考えにくい。

だが、ヨルムンガンドは一向に海に沈まなかった。中也は瞠目する。

『此れが我に与えられた権能。地球上の様々な力、重力、万有引力などの効果を我が身体は受け付けない。故に貴様の異能力は効かない。』

ヨルムンガンドはそう云ったと同時に其の尾を振り回した。其の側面が中也に命中し、中也は海に叩き落とされる。

「がっ......!」

其処にヨルムンガンドが毒水噴出の態勢となる。

中也は不味い、と息を呑むが海水から素早く誰かが中也を回収し、其の場を離れたことで難を逃れた。

「太宰......云いたかねェが助かった。」

「はいはい。素直じゃないねえ。」

太宰が小型船を操縦し、中也を拾ったのだった。船酔いしそうなテクニックだが、助かったのだから文句は云えない。

「俺の重力が効かない。」

如何するんだ、と中也は太宰を睨んだ。

「別に効かない訳じゃない。きっとあの蛇は権能というものを身体に纏い、重力などの代用としているのだろう。0に何を掛けても0。重力のないものに中也の異能力を発動させても無意味だ。けど中也がヨルムンガンドに対して作用させる重力が効かないだけであって、例えば高重力化した君の拳や蹴り、物体の射出は多少なりとも通じるだろう。」

太宰はけどね、とヨルムンガンドに視線を送った。ヨルムンガンドの周囲に霧のような白い煙が立ち昇っている。

「毒水が蒸発して霧状になっている。あれでは近付くのは難しい。向こうも多少の体表の損傷は構わないと考えているのだろうね。また、あの硬い体表を早々に腐食させてしまうんだから大抵の物体は溶けて使い物にならなくなる。」

「今の俺には有効打がないってか。」

「其の通り。可能性があるとすれば歩ちゃんがグルヴェイグを倒すことだが、一度や二度殺したところでヨルムンガンドは弱体化しない。よって今の時点での勝算は今限りなく0だ。」

中也は廃工場を一瞥した。そして太宰に視線を戻す。

「汚濁なら如何だ。」

太宰は無言だった。中也は畳み掛けるように云った。

「汚濁で此奴をぶっ殺す。そうすれば彼奴に勝機を作ることができるか?」

「......其れでは少し足りない。」

太宰はハンドルを回し、ヨルムンガンドに向き直った。

「君は歩ちゃんを何処まで信じられる?」

「んな分かりきったこと聞くんじゃねェ。」

「そうだね......なら云うけど、此の勝負に勝つ方法は一つしかない。歩ちゃんがグルヴェイグ、私達がヨルムンガンドをほぼ同時に倒すことだ。」

ヨルムンガンドがガンドとして分散していた。あれはグルヴェイグの不死身とも云える命の総数と発言から推測される。太宰が見たところ千に及んでいた。其れが一個体となっている今、太宰と中也で倒すことでグルヴェイグから不死身の力を失わせる。また、歩がグルヴェイグを何らかの手段で戦闘不能にできればヨルムンガンドの権能が切れ、重力を受け付けるようになる。此の二つが同時に起こらなければ両者を殺す事はできない。

「歩がグルヴェイグを倒すことを信じろってんなら俺は端から信じてる。歩は勝つ、そのために戦場に立つ奴だ。」

太宰は頷き、船をヨルムンガンドに向き直らせた。

「分かった。なら作戦を......」

其の時だった。ヨルムンガンドが絶叫染みた咆哮を上げた。バチリとヨルムンガンドの身体を紫電が走る。

『歩、貴様貴様貴様───!!』

ヨルムンガンドが尾を薙ぎ払うように振った。海が大きく波打ち、巨大な無数の水の弾丸が亜音速で飛ばされた。

「っ......中也!!」

「任せろ!」

小型船を貫かんとした海水の弾丸を蹴り飛ばし、波を鎮める。

けれども、ドゴ!!と背後で爆発のような轟音が聞こえて中也は、太宰は、振り返った。

廃工場の壁が崩壊したのだ。あの水の弾丸が直撃したことになる。

「手前、真逆歩とグルヴェイグを狙って......!!」

『グルヴェイグが38回も殺されたのだ。我も手を打つのは道理。水が当たったとして歩が死ぬことはあっても、グルヴェイグは死なない。助太刀して当然だ。』

38回、歩はグルヴェイグを殺した。其れが何れ程熾烈な戦いから細い細い可能性の糸を手繰り寄せたものか。中也にはありありと分かった。先の戦いで深い傷を負って、夥しい血を流して、其れでも勝ち得たものなのだ。

「太宰。」

「君の云いたい事は分かる。でも、歩ちゃんが無事か保証できない今勝率は......」

「歩は死んでねェ。手前も分かってンだろ。其れに勝率とかそんなモン如何でも良い。」

中也は黒手套を外して放り捨てた。

「あの蛇野郎をぶっ殺さなきゃ気が済まねェ。」

太宰は仕方ないね、と苦笑した。

「太宰、行って来る。」

「行ってらっしゃい。君達の運命、私が見届けよう。」

中也は小型船から飛び出し、ヨルムンガンドに迫った。

「汝、陰鬱なる汚濁の許容よ、更めてわれを目覚ますことなかれ......」

中也の腕に、顔に、異能痕が浮かび光を帯びる。

───汚濁が始まる。


グルヴェイグの怒声はヨルムンガンドには届かない。物理的に届く距離ではなかった。

あの衝撃であちこちの骨が折れたが直ぐに再生した。

だが、相手はそうではない。

苦しそうな呼吸、咳き込むと同時に吐き出された血の塊。

「歩ちゃん、苦しいよね。」

グルヴェイグは細剣を拾い、覚束無い足取りで歩に近付いた。

「ごめんね、こんな形で終わらせて。」

グルヴェイグは倒れている歩の一歩手前で立ち止まった。両手で細剣を持ち、振り上げる。

「楽に、殺してあげる。」

煌めく切っ先が歩の胸へ吸い込まれるように降ろされていく。グルヴェイグはぐっと目を閉じた。ただひたすら心の中で懺悔した。

ガギッと何かにぶつかって切っ先は止まった。グルヴェイグはゆっくりと目を開ける。床まで貫通してしまったのか、そう考えたから。

しかし、其処にあったのは。

「歩......ちゃ、」

「未だっ、未だ終わらせない......!」

歩が細剣の剣先を受け止めていた。

───特殊警棒で。

「私は不死身じゃない。異能力も大して強くない。でも......」

あなたを殺すまで私は死なない。

歩の命の火が音を立てて燃え上がった。

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