其の十九

「如何したンだい?」

探偵社のオフィスフロア、与えられたスペースで黙々とキーボードを叩いていた私は谷崎さんの声に顔を上げた。

「何がですか?」

「頬のガーゼ。昨日はなかったから。」

私は右頬に手を置き、鈍い痛みを感じながら返答した。

「転んでぶつけました。」

「ええっ......」

「ぼーっとしてて。」

乱歩さんから視線を受けたが一旦スルーした。谷崎さんは気をつけてね、と額の汗を拭きながら自分の席に戻っていく。その後、太宰さんや国木田さんとひそひそ話していたが、私は報告書作りに没頭していた。

「歩さん、お客様がお越しですわ。」

「お客様、ですか?」

数時間が経ち、ナオミさんに呼ばれたため応接室に移動する。探偵社の私に何の用事だろうかと考えながら中を覗くと、沈鬱な面持ちの作良さんがいた。落胆しきり、肩を落としている作良さんに如何したんですか?と尋ねながら向かいの席に座った。

「歩......って、その顔如何した!?」

「否、其の話は良いんで。」

「良くねえだろ!女の子の顔だぞ!顔っ!!」

女の子だなんて......私なんかに使う言葉ではない。

「本当に良いんです。それで如何したんですか?」

「......ほら、お前とおれで考えた中原幹部対策装置あるじゃん?」

一気に作良さんの表情が暗くなる。ずーんという効果音が似合う程だ。

「あれ、特許出せないかなって思って調べてたらこれより凄いのがあってさ。」

作良さんが間にあるテーブルに銃のような形状の物品を置いた。

「指向性共振銃。対異能者用に作られた銃で、音波が脳を直接振動させる事で、照射一秒後には意識消失、十秒で死......なんて物騒な代物だ。」

私は感心しながら指向性共振銃なる銃を手に取る。銃弾が効かない異能者も多い。私と作良さんで考えたように音波、振動波が有効と思わない人間がいない筈はないのだ。私達の開発したものは規模も大きく、準備の手間が掛かる。此の銃と比べれば下位互換品と云われても仕方ないだろう。

「ただでさえ悔しいのに、興味持って買っちまうおれが許せねえ。あー、もう糞。本当糞。」

作良さんが車椅子の肘置きをガンガン叩き悶える。数秒後には落ち着いて、がっくりとまた肩を落とした。

「それさ、お前使える?」

「拳銃のようなものですし、使えない事はないと思いますけど。」

「それやるよ。」

「......良いんですか?」

作良さんは大きく一つ首を縦に振った。

「うん、やる。やるから、その頬の。何があったか云え。」

「お返しします。」

そういう交換条件なら厭だ。私は作良さんの前に指向性共振銃を滑らせる。

「そんなに云いたくないのかよ。」

「だって作良さん、聞いたら中原幹部に云いそうですし。」

中原幹部と作良さん、実は未だ繋がりがあるんじゃないかと疑っている。

「云わねえから!約束するから!」

作良さんが指向性共振銃をぐいぐいと私に押して頼み込んでくる。

「それでも厭です。目撃者にも内密にという事にしているので。」

「.......分かった。おれ分かったかも。」

作良さんがずいっと身を乗り出した。車椅子のバランスが危ない。私は作良さんの肩を支え戻しながら何が分かったのか尋ねる。

「幹部には絶対に聞かれたくない案件、目撃者にも内密。という事は中原幹部の直属の部下といざこざでもあったな?」

「......否、そんな事は。」

私の反応にはい図星ね、と作良さんは腕を組んで眉を上げた。

「おれとお前何回仕事してると思ってんの。お前は中原幹部の部下じゃなかったら容赦しねえだろうが。幹部に危害が及ぶ可能性があるからな。でも、幹部直近の部下なら話は違えだろ。裏切り者でもなけりゃ幹部の名に汚点が着かないよう、幹部に必要外の話が回らないよう証拠を可能な限り隠滅する。」

作良さんの推理力には項垂れるしかない。私に関しては特に鋭くて名探偵の域に達しているのではないだろうか。

「てか、はっきり云って犯人あいつだろ。射鹿まりだろ。」

「え。」

「お前そんな顔させるの最近其奴しかいないし。」

殆ど核心に迫っている。此処までバレてしまうとは、私ってそんなに分かりやすい人間だっただろうか。

「で、白状する気になった?」

「......うう。」

「はいはい、唸らない。で、何なの?」

作良さんがぽんぽんと私の頭を軽く叩いた。

「知りたい事が、あるんです。」

顔を前方に向けると作良さんは何?と首を捻った。丁度ナオミさんが緑茶を持ってきてくださって、私は其れを一口含んで嚥下し、昨日から抱いている疑問を口にする。

「恋って何ですか?」

ガシャンガラガラドシャアバキングシャダザイーーッと一寸不安になるような音がオフィスフロアの方向から聞こえた。

「......恋?恋って......あの恋?」

作良さんがぽかんと呆けた顔で繰り返す。

「多分、作良さんが思っているので合っているかと。」

「......え、マジ?」

「マジです。私、恋が何か知りたいんです。」

「う、嘘っ......嘘だろーっ!!」

作良さんが何故かガンガンとテーブルに額を打ち付ける。額が赤くなり、血が出そうというタイミングで止まった 。

「おれは......教えたくない。」

「何故ですか?」

作良さんは頭を掻いた。明らかに拗ねた声音だった。

「其れ、気付いたら......。とにかく厭だ。おれは教えない。」

頑なに教えないと云い張りお茶を啜るので、私は唇を尖らせる。

「作良さん、意地悪。」

「んぐふっ!」

気管に入ったのか咳き込む作良さんにティッシュの箱を差し出す。

「お、ま、マジ、も、げほっごほっ!」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だけどっ!......おれは教えられません!」

顔を真っ赤にして足早......車椅子早?に帰っていってしまう作良さん。その止めるな!!という異様な剣幕に引き止める事もできず私は自分の席に戻った。

のだが、何故か社長が現れて。

「今日は休みだ。」

「休み......ですか?」

休日は探偵社に来てから十分過ぎる程いただいているのだが。此れがポートマフィアより、否、梶井さんの研究所勤務より良いところだと思っている。

「此れを。」

更に社長が渡してきたのは一万円札で。

「こんな、いただけません!」

そう私が比較的大きな声で訴えても社長はもう社長室に戻っており届かない。出向中の給金はポートマフィアから振り込まれる。探偵社からこのようなお金を貰う訳にはいかないのだが。

「此れ、如何すれば......」

私が途方に暮れていると、乱歩さんがその一万円札を見に来た。

「......此れで美味しいものでも食べて来いってさ。」

「美味しいもの。」

「下のうずまきでも良いし、別のところでも良いし。一人じゃ荷が重いなら鏡花ちゃんと一緒に行くと良いよ。」

鏡花ちゃんと......と云われ鏡花ちゃんを見ると、立ち上がって少しそわそわしていた。

「そう......します。」

「うん、お金余ったら僕のお菓子買ってきてね。」

乱歩さんはにこりと笑って、席に戻っていった。

私はノートパソコンを閉めて鞄に入れ、武器一式を確認した。一応指向性共振銃も鞄に入れ、肩に提げる。

「鏡花ちゃん。」

「うん、行く。」

鏡花ちゃんがぱたぱたと私に駆け寄ってきた。子犬のようで可愛らしい。

「では、行ってきます。」

「行ってきます。」

調査員と事務員の皆さんの行ってらっしゃいという声が重なった。

私と鏡花ちゃんは先ず階下のうずまきに足を運んだ。

「あら、貴女達、仕事は如何したの?もしかしてサボりかしら?」

「ホットミルク。歩は珈琲?」

私達を迎えてくれた店員......ルーシー・モード・モンゴメリ、私はルーシーさんと呼ぶその人は私達の背後の何かを確認し、嘆息した後、皮肉めいて尋ねた。鏡花ちゃんにあっさりスルーされ私が代わりに事情を説明する。

「サボりではなくて。社長が此れで好きなものを食べて来て良いと。」

「ちょっ、一万円をこんなところで堂々と出さないでくれる!?危ないじゃない!」

私がそのまま手に持っていた一万円札を見せるとルーシーさんが慌てて手で隠した。幸いお客さんは常連さんばかりで私達を微笑ましそうに眺めているだけだった。

「お財布は何処?ちゃんと仕舞っておきなさい。」

「財布、財布......あ、ありました。」

「良かったわね。大事に使いなさいよ。」

ルーシーさんはテーブル席に私達を誘導し、マスターにホットコーヒーとミルクと云った後、片付けを始めた。布巾でカウンターを拭いたり、皿を洗ったりと忙しそうであった。

「歩は恋が知りたいの?」

鏡花ちゃんが冷水の入ったグラスには目も暮れず私を真っ直ぐ見詰めた。

「......恋というものの辞書的な意味は知ってる。でも、其れが如何いった感情なのか分からなくて。」

射鹿さんの、中原幹部に対する恋というものは。

熱く、痛く、激しく。

逸そ恐怖すら感じさせるもので。

「私の気持ちは中途半端だと云われた。私は......半端な覚悟で中原幹部の部下でいる訳じゃない。他の人にだって負けてない、そう思ってた。けど両方の覚悟が天秤に掛けられた時、恋というものによって偏りができるというなら。」

私は恋について知るべきだ。恋というものが何か知る事ができれば、私は。

射鹿さんの云っている事が理解できるんじゃないかと思う。そして、私の気持ちが射鹿さんのものより中途半端なものだと納得できる筈だ。

「協力したい......けど、何をすれば良いか分からない。」

鏡花ちゃんの瞳が揺れる。私も同意し俯いた。

「私も、其れが分からなくて。辞書やネットを調べても余り......。」

最初樋口さんに聞いた時も曖昧で、芥川さんが如何とか云って暴走していた。

うーんと顎に手を当て考え込んでいる私の前にコーヒーが、鏡花ちゃんにミルクが置かれる。

「二人して何してるのよ。」

ルーシーさんが腰に手を当てて尋ねた。

「恋とは何かについて考えているんですけど。」

私の答えにルーシーさんは露骨に眉を顰めた。

「恋って......其れは。」

「ルーシーさん、知ってるんですか?」

ルーシーさんはそっぽを向き、ぼそぼそと述べるには。

「其の人を想うと胸がドキドキしたり、其の人が誰かと一緒にいるとモヤモヤしたり......って何云わせるのよ!!」

ルーシーさんの頬が湯気が出そうな程真っ赤になる。

「ドキドキ、モヤモヤ......」

「擬音語が多くて分からない。」

私と鏡花ちゃんは首を傾げた。

「あーもう、面倒臭い!ならさっさと少女漫画でも読めば良いじゃない!!」

私と鏡花ちゃんは顔を見合わせる。成る程、漫画か。確かに漫画にそういうジャンルがあるのは知っている。聞いた事はあるが読んだ事はない。

私と鏡花ちゃんはそれぞれ前に置かれた飲み物を一気に飲み、事は一刻を争うとばかりにレジへ急行した。

「ちょ、ちょっと!何処行くの!?」

「書店。」

鏡花ちゃんが応じ、私がレジにお金を置いて走り出した。

「直進して左、三番目の信号を右に古本屋がある。」

「了解!」

鏡花ちゃんの後を追いかけ、私も地を蹴った。


嵐のように去っていった二人の背中をモンゴメリは呆れた目で見ていた。

「あの二人、大丈夫なの......。」

心配なら見に行くと良いよ休憩も兼ねて、とうずまきの店長が柔らかな表情で云った。

「休憩にはならなさそうだけれど。」

モンゴメリはエプロンや三角巾を外し、一通り片付けるとうずまきを出た。

「あの二人なら......最短距離にある場所に行く筈。」

モンゴメリは二人の行動パターンを予測しつつ、走り出した。


「少女漫画ってこんなに。」

「......少女漫画は専門外。」

古本屋の漫画コーナーに来た私達はその多さに愕然とした。

「どれを読むのが最善なのか......」

「分からない。でも、今日全部は不可能。」

私も其れには頷くしかない。が、上から順に読む事が正しいのかも分からない。

「通路で仁王立ちしないでくれるかしら。」

ぜえはあと荒い息遣いが聞こえ、鏡花ちゃんと振り返るとルーシーさんが立っていた。走って追いかけて来てくれたのだろうか。膝に手を当て、辛そうである。

「ルーシーさん、如何したんですか?」

「あ、あんた達が変な行動取らないか見に来たのよ!」

見張りよ見張り!!と私を指すルーシーさん。

「それで、何してるの。」

「少女漫画沢山あって何から読もうかと。」

ルーシーさんは本棚を見ながら進んでいき、此処!と棚の縁を叩いた。

「映像化作品を集めてる棚よ。映像化してるからって万人が好む作品かは分からないけど有名って事ではあるんだから此れから読んでみるのは如何?」

「おおっ......ルーシーさんありがとうございます。助かります。」

ルーシーさん、言葉は棘がある事が多いが。

「ほら、良いから早く読んで納得できる答えを見つけて来なさい。」

優しくて面倒見が良い......つまり良い人なのである。

「......姉。」

「誰が姉よ!おチビちゃんの姉なんて御免よ!」

身長が最も高いルーシーさんが上段から三冊一巻目を取り、私達に差し出す。......矢張り姉か。

私は其れを受け取ってページを捲った。

「何で此の男はキラキラして花を背負っているの。」

「そういうものよ。」

「夜叉白雪、二巻を取って。」

「異能を出さない!あたしが取ってあげるから!」

二人の様子を眺めながらも、私は無言でページを捲り続けた。

二十程読んだ位だろうか。空が赤らみ始めたのに気付き、時計を見ると18時を回っていた。

「鏡花ちゃん、そろそろ帰らないと。」

「......もうちょっと読みたかった。」

「また読みに来れば良いでしょ。それくらい付き合ってあげるわよ。」

名残惜しくなりながらも古書店を離れ、帰路に着いた。

「それで?何か分かった?」

ルーシーさんに対し、私は率直な感想を述べる。

「......凄く面白かったです。描写が細かくて、綺麗で。男性キャラも端正な顔立ちで、人気なのも頷けます。」

「何、漫画の分析してるのよ!そうじゃないでしょ!貴女の本来の目的は!?」

「恋について知る......」

「で、其れは如何なの。」

私は眉間に皺を寄せながら考える。

「何というか、余りにキラキラしていて、眩しくて。」

漫画として見るのは良かった。けれども其れを現実に置き換えて考えるのは......。

「私に恋は......理解できないんでしょうか。」

「そんな事......」

絶望にも似た陰鬱な雰囲気が漂う中、びくりと鏡花ちゃんが足を止めた。

「鏡花ちゃん......?」

私は鏡花ちゃんが警戒する前方に視線を動かすと。

犬が居た。

其の犬が私に向かって一直線に突進してくる。

「へ?え、わあっ......!」

前足を挙げ、私の肩程にまで達する巨体を以て抱き付いてくる。何とかバランスを取るも、かなりの重量で押し返すようにして支えるのがやっとである。

其の犬には金色の首輪とリードが繋がっていた。飼い主が油断した隙に逃げたのかもしれない。

私の頬を舌でペロペロ舐め、人懐っこい其の犬を撫でていると、チャキリと不穏な金属音が端から聞こえた。

「私、犬は無理。」

鏡花ちゃんが何処に隠していたのか小刀を半身抜いた。

「お、落ち着きなさいよ。」

「歩に抱き付くなんて言語道断。斬る。」

鏡花ちゃんは如何やら犬が苦手なようだ。そんな鏡花ちゃんを必死に抑えながらルーシーさんが犬を観察する。

「この子......犬なのかしら。」

「え、犬じゃないんですか?」

「否......狼に見えて......」

......真逆現代日本で狼を飼うことはできないだろう、と思っていると、ルーシーさんもそう感じたのか気のせいね、と苦笑いした。鏡花ちゃんは狼はイヌ科。つまり、敵。とどちらにせよ嫌悪感を示していた。

「あ、あーっ!ガンド!!」

脇道から現れた女の子が私達を見て悲鳴を上げる。プラチナのような色の長い髪に黒い瞳白い肌の少女だ。外国人、それも北欧系の整った顔立ちだった。

「ガンド、もうっ何してるの!」

流暢な日本語だった。犬のリードを引っ張り女の子は気まずそうに肩を竦めてごめんねと深く頭を下げた。

「この子、いつもはこんな事ないの。大人しくて良い子で。その......許してくれる?」

「其れは全然。ガンドっていう名前なんですね。」

「うん!格好いいでしょ?」

「はい。」

フフと嬉しそうに笑う少女に私も顔が緩む。本当に可愛らしい子だった。

「私はヘイズ。つい最近この街に来たの。」

ヘイズさんがロングスカートの縁を摘まんでお辞儀をするので、私も歩です、と云って頭を下げた。

「日本にはずっと居たんだけど、街が違うと勝手が違って。迷子にもなるし。」

「え、もしかして......」

「うん、迷子なの。」

ガンドなら帰り道分かるかなって思って任せてたら走り出しちゃってと茶目っ気たっぷりに笑うヘイズさんにルーシーさんや鏡花ちゃんは呆れ顔であった。

「其処まで行けば家が分かるって感じなんだけど......」

「教えていただければ分かるかも。」

ヘイズさんが申し訳なさそうに目印にしている店の名前や住居の特徴を挙げていく。

「それなら分かる。」

鏡花ちゃんがいち早く口を開いた。ヘイズさんが本当!?と前のめりになる。

「案内する。着いてきて。」

「ありがとう!」

ガンドもウォン!と高く吠えた。家に帰れると分かって喜んでいるのかもしれない。鏡花ちゃんはびくっとしていたが。

私達四人はヘイズさんの家へと歩みを進めた。

「じゃあ皆は恋について調べてたの?」

「そう。でも、この子には難しいみたい。」

ルーシーさんが如何したものか、と頭を悩ませる。非常に申し訳なくて私は身を縮こまらせた。

「ヘイズ、何かない?」

「うーん......。私の言葉で伝わるか分からないけれど。」

ヘイズは胸に手を当て、話し始める。

「其の人が好きというのもそうだけど。其の人と会いたいと思ったり、会えなかったら寂しくて堪らなくなったり......」

会いたい、会えないと寂しい。

そういえば、と中原幹部の事を思い出した。

最近余り会えていない気がする。一週間に一回会っているのだが、二人で会ったり、話をしたりする事がなくて。電話もメールも仕事関連が多くて。

否、仕事上の関係なのだから当然か。

それでも探偵社への出向前はもっと......。

「其の人が他の人と一緒にいて、楽しそうにしていると胸が痛くなったり、」

......中原幹部が、射鹿さんと一緒に歩いていた時、胸が痛くなった。頭が錯乱状態になって、如何すれば良いか分からなくなった。

「友達と旅行したりした時にね、其の人が一緒だったらもっと楽しかっただろうなあって思ったり。」

キャンプに行った時、中原幹部と一緒に富士山を見たいと思った。写真じゃない此の綺麗な景色を中原幹部に見せたいと思った。

「其の人の事を想うと、本当にちょっとした事で胸がズキズキ痛んだり、其の人と会えるだけでドキドキして、触れられると凄く嬉しくて。電話もメールも全部幸せで。」

頭の中が白に染まった。中原幹部との事が......当てはまる。おかしい位に当てはまる。

「其の人の役に立ちたい、守りたい、傍にいて助けたい。其の人をもっと知りたい。」

違う。此れは、此の気持ちは......私が部下だからで。

「そんな熱くて、痛くて、幸せだなって思ったり苦しい時もあったり......。うん、其れが私にとっての恋かな。」

私は中原幹部の事が......。

「歩、如何したの?」

「っ......」

「顔、赤い。熱があるのかも。」

鏡花ちゃんが私の頬に手を当てる。顔が、全身が熱い。

「うん、もう良いかな。」

ヘイズさんが私を見て笑顔を浮かべる。私はあわあわと口を開閉させる事しかできなくて。

「あ、此処、家の近くの!もう大丈夫そう!」

「そう?良かった。」

「本当にありがとう。暫くヨコハマに居る予定だから会ったらよろしくね!帰り道気をつけて!」

ヘイズさんが別れを告げ、私達も手を振る。私はそれどころではなくて、殆ど無意識にだったが。

「大丈夫?」

「......はい。」

ルーシーさんに尋ねられたが、頷く事しかできなくて更に心配されてしまった。取り敢えず帰りましょう、と元来た道を戻っていく。

「ねえ。」

鏡花ちゃんとルーシーさんの後ろを歩いていた私は突然腕を掴まれてつんのめる。慌てて顔を向けると、ヘイズさんが立っていた。

「あ、ヘイズさん。」

「あのね、貴女光と闇が混ざって凄く変な色になってる。」

ヘイズさんの真っ直ぐな視線に私は圧倒される。

「ちゃんと自分の居場所は一つに決めた方が良いよ。」

「......ヘイズさん、あなたは。」

「話はそれだけ。またね。」

ヘイズさんは踵を返した。其の背中に私は問い掛ける。

「私と同じ目......?」

ヘイズさんはびくりと肩を揺らしたが聞こえなかったかのように去っていった。そんなヘイズさんに違和感を覚えながらも私は二人の後を追い掛けるのだった。


「あーあ。」

ヘイズはアパートの自室の扉を開けた。

「こんな簡単に見つけちゃうなんて。今までの私達は何してたんだろうって思っちゃうよ、オーディン。」

「何の話だ。」

奥のリビングにいたのは金髪の男、オーディンであった。

「見つけたの。私達の神様。」

「何......?」

「うん、間違いない。やっと見つけたの。私達の神様を!」

ヘイズは此れ以上ないという笑顔を讃えた。

其れは喜色だけでなく、ある種の狂気を孕んでいた。


乱歩さんのお菓子を大量に購入し、手渡した後、私は直ぐに自宅に戻った。バタンと閉じた玄関扉の音が大きく感じた。玄関に入った途端力がずるずる抜けて其処で踞ってしまう。

「歩、おかえりなさい。......如何しました?」

フェージャが私の異変に気付き、早足で私に近付くと片膝を着いた。

「私、知ってしまったんです。」

「何をです?」

フェージャの声音は優しかった。

「恋が......何なのか。」

私は膝に顔を埋めた。

「こんなの、私が持って良い感情じゃないっ......!」

知らなければ良かった。こんな感情、私にあってはならないものだ。

私と中原幹部の関係は上司と部下だ。中原幹部の直近に近い部下で。だから私が死ぬ事に悲しんでくれるだけで。中原幹部は部下以上の感情を持ってはいない。そして、私が中原幹部に対してポートマフィアの幹部、上司以上の感情を持ってはいけないのに。

なのに、今の私は大切な上司以上の想いを抱いていたのだ。

「射鹿さんに云われて当然だったんです。私は、知らない事を良い事に中原幹部を振り回して......。中途半端なんてものじゃない。最低な人間なんです。」

フェージャが背中を撫でてくれる。それさえも痛かった。全身が痛くて、立つこともできなかった。此れが恋による痛みだと思うと厭で厭で堪らなかった。

早急にこんな感情捨てなければと思った。

「歩、ご飯にしませんか?」

唐突にフェージャがそんな事を云った。

「今日はボルシチを作ってみたんです。ぼくの祖国ロシアが誇る伝統的な料理です。」

「ボルシチ......」

「ガーリックトーストも作ろうかなと思っているんです。ボルシチに合うそうですよ。食後はハーブティーでも淹れましょうか。」

私が顔を上げるとフェージャは慈愛に満ちた目で私を見ていた。

「温かいものを食べて、お風呂に入って、ゆっくり眠りしょう。そうして、全て明日考えましょう。」

フェージャの言葉に私はこくりと頷く。其れが良い。今の私はきっとまともな思考回路を保ってはいられない。今日は休んで、また明日考えれば良い。

フェージャが立って、私の前に手を差し出す。其れを支えに私は足に力を込めた。

フェージャがいなかったら私は如何なっていただろう。此の玄関でずっと踞っていたのだろうか。多分そうなる。感情を持て余して何もできなかったに違いない。

「フェージャ......」

「はい。」

「ありがとうございます。此処に居てくれて。」

「ええ、ぼくは貴女の一番の味方ですから。」

フェージャはこういう事を本当にすらすら口にする。折角、日本語の教材を買ったのに。

でも、其れが今の私にとっては救いとなっているのだから。

フェージャに手を引かれて私は歩みを進めた。


翌日になった。昨日は異例の22時に眠りに着いたので、4時に目が覚めてしまった。支度をして、寝室の扉を開けると既にフェージャは起きていて、紅茶を飲みながらラジオから流れるクラシックに耳を傾けていた。

「おはようございます、歩。」

「おはようございます。......昨日はすみませんでした。」

「気にしないでください。其れで如何ですか?落ち着きましたか?」

「はい、だいぶ......。ご迷惑をお掛けしました。」

私が頭を下げると、良いんですよとフェージャは顔を綻ばせた。

「紅茶、一杯如何ですか。」

「いただきます。」

フェージャが紅茶を注ぎ、ジャムを入れてかき混ぜる。私は対面の席に座り、置かれた紅茶を一口飲んだ。

穏やかな時間が流れる。フェージャの淹れた紅茶を飲むと、身体が温かくなってリラックスできる。

「歩、恋というものは誰もが抱き得る感情の一つです。其処には悦楽も苦痛も在り、人は心を乱されます。」

フェージャの声が静かに耳に響き、脳に染み入るようだった。

「恋は人を美しくも、醜くもするものなのです。ですが、ぼくは貴女の恋が貴女を醜くしたものだとは思えません。」

「......でも。」

「貴女が如何思っているのであれ、ぼくは彼に恋をしている歩を好ましく、また純粋で美しいものだと感じています。」

フェージャは飲み終えた紅茶のカップをソーサーの上に置いた。

「歩は彼に恋をして後悔していますか?」

「後悔......ですか?」

「あんな人を何で好きになってしまったんだろう、人生の汚点だ、屈辱的だ。そういう類いの後悔です。」

そんな事思う筈がない。中原幹部はどんな事があろうとも私の大切な人で生きる意味で守るべき人で。そう思ったのは中原幹部と出会って日々を過ごす中で上司として、一人の人間として憧れ、心惹かれたからで。

反省はしている。

だが、後悔なんて一切ない。

「其の人を好きになって良かった、好きになれる自分で良かったと、そう誇る事ができるものであったなら其れは持つべき感情だったのだとぼくは思います。」

そう......なのだろうか。否、そうなんだと思う。私は中原幹部に出会ってそして救われた。毎日の中に幸せを感じられるようになった。其れは部下だからという気持ちだけじゃなくて、きっとこの感情があったからで。この感情があったから今の私がいる。

「私は幸せな人間だったんですね。中原幹部と出会う事ができて、共に在る事ができて。こうして自分の感情が何か知る事ができた。」

愛に終着点はなかった。何処までも大きくなって、温かくて鮮やかな世界だった。

けれど、恋はきっと終着点を自分で作る事ができる。失うものも多いけど、失った方が良いものもある。

私は此の気持ちを終わらせる事ができる。

中原幹部の未来のために此処で終わらせられる。

「フェージャ、ありがとうございます。私は......多分もう大丈夫です。」

「そうですか。」

「ご飯作りますね。時間あるので、朝ですが一寸豪華にしましょうか。」

「其れは楽しみです。」

ラジオから次の楽曲が流れ始めた。とても有名な曲だ。確か......。

ドヴォルザーク、交響曲第9番新世界より第4楽章。


「あ、あっ、あーっ!歩だ!いた!こんなところにいた!」

ポートマフィアに戻るまで残り一週間となった。探偵社に置いていた私物等を郵送したり、書類整理を行ったりと事後処理の準備に追われながらも定時に社を出た私は途中のスーパーマーケットで買い物をしていた。食事や生活用品を買うためだ。エコバッグの中にそれなりの量を詰め込み、左肩に提げて人通りの少ない通りにある出入口を出るとばったりと立原さんと銀さんに会った。

お久しぶりです、と挨拶しようとした矢先だった。立原さんは目を落ちるんじゃないかという位大きく開け私を指差していきなり叫んだのである。

「如何したんですか?」

「此処に居ろ。絶対居ろ。待っとけよ。絶対だぞ。銀、歩を見張ってろ。」

銀さんが私の手を握る。ただの握手ではない、拘束目的のものだ。立原さんは確認すると凄まじい速さで通りを駆け抜けていった。何がしたいのか、一寸分からないが待機している事にした。

「えっと何が......?」

銀さんは何も云わず私の手を握っているだけだった。

数分後、立原さんが戻ってきた。そしてその後ろに......中原幹部がいた。

「中原幹部......」

中原幹部は視線を落としていたが、私の声を聞くとさっと顔を上げた。

「歩......!」

私の顔を目に映すとスタスタと足早に立原さんを抜いて私の前に立った。はためいた外套から煙草の匂いがした。

中原幹部は右手の黒い手套を外し、私の頭に載せた。

「う、んんっ......」

その手が優しく頭を撫でる。反射か、癖か、目を閉じた私はその温かさと柔らかさに気持ち良くなってしまう。しかし、私は正気に戻る。

「中原幹部っ、」

「何だよ。」

「こま、困ります!」

私は中原幹部から距離を取った。

「莫迦、充電させろ。」

中原幹部が手を伸ばすが、私は更に離れ、銀さんの背中に隠れる。

「こういう事は上司と部下がする事ではありません。好きな人とすべきなんです。」

「はあ......?」

中原幹部は意味が分からないという様な顔をした。

「私はもう良いんです。中原幹部は将来添い遂げる方に沢山してあげてください。」

「手前、其れ本気で云ってんのか。」

中原幹部の表情に怒りのようなものが見えた。私は更に銀さんの背中に隠れる。

「銀、退け。二人で話す。」

銀さんが殺気を感じたのか立原さんと立ち去ってしまう。私が後退りすると、ダン!と中原幹部が私の顔の横に手を付いた。

「あ、の......」

「俺は云ったよな。自分の気持ちを諦めるなって。」

「諦めてはいません。終わらせたんです。」

「どっちも同じだ。」

「同じじゃないです。私は中原幹部のために......」

メキリとコンクリートの壁が厭な音を立てた。中原幹部の目に光がなかった。

「手前は前云ったよな?俺の気持ちを置いてきぼりにしてきた。だから分かるように頑張るんだって。」

「......はい。だから私は、」

分かってねェよ、と中原幹部は私の言葉を阻んだ。其の声は低く、掠れていた。

「手前は変わってねェ。一人で突っ走って、勝手に自己完結して。人の気持ちは全部無視して分かろうともしねェ。」

「そんな......」

頭を鈍器で撲られるような痛みが襲った。何もかもが無駄だったのだとそう云われたような、そんな絶望が私の中で渦巻いた。

「私は中原幹部のために。私より射鹿さんの方がきっと釣り合うと思って。だから......」

「手前はそんな簡単に自分の気持ち諦めれるのか。人に譲れるのか。俺は手前の中でその程度の奴だったって事か。」

中原幹部は壁から手を離した。パラパラとコンクリートの破片が零れて乾いた音が落ちた。

「もう手前が何考えてるのか理解できねェ。」

「中原幹部っ......」

「......頭冷やす。手前もさっさと帰れ。」

中原幹部は踵を返し、去っていった。黒い外套が風に揺れる残像だけが目に残った。

如何すれば良かったのだろうか、何が正しかったのだろうか。

でも、此れだけは分かった。私が良かれと思った選択は私と中原幹部との間に修復のできない大きな亀裂を生んだ事が。


十七で書いたのですが、これが夢主と中也の試練です。喧嘩?です。夢主は中也さんの将来を考えて(折角漸く)気付いた自分の恋を終わらせ。中也さんは夢主に会えないし、射鹿さんの束縛きつくてやってられないところに夢主が自分への恋に気付いたは良いが諦めた事にぷっつんしてこんな事になりました。中也さんはもうあとは夢主が気付くだけ、あと一押しだろって思ってたところにこれだからもう沸点に達してしまって。いや、ごめんなさい。こんなで。もう色々悩んだんですが、許してください。私自身もこういうのを書くとメンタルごりごり削られるんです。楽しいのはbeastで書きますね......。辛っ。

次回は王の写本が遂に本格的に動き出します。かなり残酷描写になりそうです。そして第二部はあと4話?5話?位になると思います。三部は未定です。

[ 22/41 ]


[目次]
[しおりを挟む]

前へ 次へ

トップページへ




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -