其の十六

「さかなさかなさかな、魚を食べると〜」

「あたまあたまあたま、頭が良くなる〜」

「さかなさかなさかな、魚を食べると〜」

「からだからだからだ、体に良いのさ〜」

「さあ〜、みんなで魚を食べよう」

「魚がぼくらを待っている〜。はい、一匹目です。」

「早いっ、フェージャ流石です。」

「いやいやいやいや待て待て一寸待てー!!」

朝日を浴びてヨコハマの海がキラキラと輝く。其の海面に釣糸を垂らしていた私とフェージャに鋭い声が上がった。

「な、な、何真顔で歌ってんだよ!てか、先ずお前は誰だよ!?」

「歩、彼は誰ですか?」

「おれが聞いてんだよっ!」

私はまあまあとフェージャと共に陣取っていた堤防の一角にやって来た作良さんを宥める。

「えっと、此の人はフェージャで。」

私は釣竿を片手に、そして持っていない方の手でフェージャを指した。

「作良さんです。」

更に作良さんを指して紹介した。

「作良、ですか。初めまして。」

「どーも。で、歩とはどういったご関係で?」

警戒心剥き出しの作良さんにフェージャは釣った魚、多分鯵と思われる魚をケースに入れ、餌を付けながら答えた。

「将来を誓い合った仲です。」

「はい、アウトっ!!」

作良さんは突然叫ぶと私の肩を強く掴んで揺さぶった。

「歩、嘘だよな、嘘ですよね?」

「フェージャ、作良さんは純粋な方なんですからあんまりからかっちゃ駄目ですよ。」

作良さんは動揺しているが此処は私が冷静に対応する。将来を誓い合った事は一度もない、と。

「良かった。そうだよな。」

「はい、フェージャは協力者で同居人です。」

「は?どう......?」

作良さんの顔がみるみる青ざめていく。

「ど、どーきょにんってあの?」

「同居人。同じ家に居住する人、でしたっけ。」

「今辞書的意味は求めてないっ!!」

今度は顔を赤くして作良さんがフェージャに怒声を発した。今日の作良さんは何というかイライラしている。

「作良さん、釣った魚、焼き魚にするので一緒に食べましょう。カルシウムが沢山摂れる筈です。」

作良さんはにこりと口端を上げて私を諭す。

「ありがとう、歩。お前の純粋な優しさはおれの生きる糧だ。これからもそのままの歩でいて欲しい。でもな、おれはイライラしてる訳じゃない。」

すうと作良さんは大きく息を吸って真顔になった。

「男と同居、駄目絶対。」

「でも......」

「でもじゃない。てか、中原幹部にこの事云ってないだろ。」

其れに関しては閉口せざるを得ない。だって、中原幹部に報告したら......。

絶対に許してくれない気がする。

「あの人に報告できないって事は疚しい事してるって自覚はあるんだろ?良いからぽいしとけ。な?」

「でも、フェージャは死にそうだった私を助けてくれて。私の願いも叶えてくれたんです。だから......。」

其の恩を返したい。フェージャに望みがあるのならできる限り叶えたいと思うのだ。

「......お前が本気なのは分かったけど。何かあってからじゃ遅いんだよ。」

すると、フェージャが私と作良さんに顔を向け、凪いだ声で云った。

「ぼくは想いを一つにしない限りには彼女に行為を強いたりしませんよ。」

露西亜人は紳士ですから、と続けるフェージャに作良はそうですかと素っ気なく返して、フェージャの隣のスペースに車椅子を移動させた。

車椅子の衣嚢に刺してあった釣竿を作良さんは無言で抜いて糸を海面に垂らす。

「おれは歩の意志を尊重する。けど、彼奴の気持ち、裏切ったりしようものなら容赦しねえから。」

「......ええ、勿論です。」

二人の中で折り合いが着いたのだろう。その後は魚をどちらが多く釣れるか競争したり、釣り上げた魚の名前を如何に早く言い当てられるか勝負したりしていた。結果は見事にフェージャの圧勝であったが二人が程好く仲良くなったのには少し安心した。

ところで、私も其処に加わろうとしたのだが。

一向に釣れない。
一匹目が未だ来ない。

いつもはまあまあ釣れる。もうちょっとだけ釣れる。ほんの少しだけ釣れる。うん。

場所が悪いのかな、などと考えながら少し離れたところに釣り針を投げ入れた時だった。

何かが食い付いた。しかもかなり重い。油断すれば海に持っていかれそうだ。

「っ......!」

「歩、大丈夫か!?」

作良さんが慌てて車椅子を回して私の釣竿を支えに来た。フェージャも其れに倣う。

「重っ、大物じゃね?」

「鮪でしょうか?」

「鮪は流石に......否、或いは?」

期待や不安が募る中、10分以上のせめぎ合いの末、魚らしきものの影が見えた。

「せーので引っ張るぞ。......せーの!!」

作良さんの掛け声に合わせ、三人で渾身の力を込めて引く。

そして遂に姿を現したのは......。

「眠い。」

人間だった。
男だった。
黒い長髪の異国人だった。

「......わーお。」

「......わーお。」

「......わーお。じゃなくてっ!!」

作良さんの行動は早かった。釣竿を私の手から素早く引っこ抜くと......

「キャッチアンドリッリィィィィス!!」

釣竿を海へ放り投げてしまった。私の釣竿が......沈んでいく。新品だったのに。

「歩、同じ型の新しいの買ってやるから今のは忘れるんだ。忘れよう。」

「でも、あの人、何処かで見たことあるような......。」

「組合のハワード・フィリップス・ラヴクラフトですね。」

組合......。私は参戦できなかったが、探偵社、ポートマフィア、組合、此の三組織を巻き込む抗争があったのだそうだ。その時のデータにあった名前である。その情報によれば......。

「死んだ、と私は聞いていたのですが。」

完全に生きている。しかも今ぶくぶくと泡を出しながら海に潜っていってる。本当に人間なのだろうか。真相は海の中だ。

「......報告案件ですね。」

「......だな。」

私と作良さんは静かに頷き合ったのだった。

中原幹部や他構成員宛てに報告のメールを入れた後、ケースの中にある大量の魚をバーベキューコンロで無造作に焼いていく。

「塩で良いですか?」

「良いんじゃね?他何かあんの?」

「醤油と......山葵と生姜とゆず胡椒とかありますよ。」

「お前、そんな調味料拘る奴だったっけ?」

鞄からチューブ調味料を取り出しながらそうでもないですと解答する。

「ただ最近ご飯が美味しくて色々なものを食べたいなって思ってて。」

「良いじゃん。今まで全然食ってなかったんだからもっと食え食え。」

焼けた魚をお皿に盛り付け、いただきますを云った後、食事を始める。自分で釣った魚......はないがとても美味しい。新鮮で脂がのっている。

三人で食べては焼いて食べては焼いてを繰り返し、満腹になる。残った魚は作良さんと分け合って持ち帰る事になった。

「んじゃ、またなー」

「お疲れ様です、ありがとうございました。」

作良さんと別れ、フェージャと二人帰り道を歩いた。

「今日、確か仕事があるんでしたよね。」

「はい、午後からです。」

とある会社の事務所にデータを取りに行くだけだが。

「ぼくも同行して構いませんか?」

「え、何故ですか?」

「少し気になる事がありまして。変装もしますし。」

玄関から台所へ移動し、冷蔵庫に魚を入れながらフェージャの提案に頭を悩ませる。

「変装って......」

「ああ、一寸待っていてください。」

フェージャが脱衣所の方へ行ってしまったため、私は首を傾げた。

15分程経っただろうか。現れたのは見るからにどこにでもいる真面目なサラリーマンのような風貌のフェージャだった。

「お、おお......」

私が何とも云えない歓声を上げると、フェージャは伊達眼鏡であろう其れをくいっと上げた。

「如何ですか?日本のサラリーマンに見えるように頑張ってみたのですが。」

「何か......血色が良くなったような?」

顔形は一切変わっていないが、肌色の変化と髪を顔に少し被せている事、それに目の色も違うためフェージャとは思えない。眼鏡にスーツというのも珍しい。

「ええ、少し化粧を。目はカラーコンタクトですね。髪型も変えてみました。」

「こんなに変わるものなんですね......!」

感心しながら拍手を送るとフェージャはふふと可笑しそうに微笑した。

「因みに此の姿での名前は伊藤湊になりました。」

「......如何いう選出の仕方ですか?」

「日本で一番多い名字ランキングと最近の男の名前で一番よく付けられているものの上位六個からサイコロをそれぞれ振って選びました。」

「そうなんですか。」

当たり障りのない、というか怪しまれない名前......だと思う。田中太郎とかよりはだいぶましだと私は思う。

「じゃあ、伊藤さんと呼べば良いんですか?」

「湊君でも良いですよ。」

「......其れはちょっと。」

私が渋い顔をすると、フェージャはそうですかと割とさっぱり流してしまった。自分の名前でもないしどうでも良かったのかもしれない。

「フェージャ君って呼ばれたかったりしますか?」

「いえ。其れはフェージャで。」

間髪入れずフェージャが云う。

「私もフェージャの方が呼びやすいです。」

「はい、その方が落ち着きます。」

呼び方の変更は特になく、フェージャはそれで、と話を切り替える。

「ぼくも連れて行っていただけますか?」

「......如何してもですか?」

「はい、如何しても。」

フェージャの意志は硬いらしい。

何より同居の時もそうだが、私はフェージャの押しに凄く弱いらしい。

「分かりました。でも、データを受け取る時と先方と話し合っている時は席を外してください。」

「ありがとうございます、歩。」

でも、フェージャが嬉しそうにするものだから私はフェージャに対して甘くなってしまうのである。


フェージャと目的地まで徒歩で向かう。フェージャは歩くのは遅くない筈なのに何故か私の後ろを着いてくるようにして歩いていた。

そういえば、中原幹部と二人で歩く時、私も後ろを歩く。そうすると、最近では中原幹部は溜め息を吐いては自分の隣を指したり、手招きしたりするのだ。それで隣に行くものの、矢張り癖で少し歩みを遅めて後ろに回ると最終的に中原幹部が私の腕を掴んで強制的に隣を歩かせる。

部下としては背中を守りたいところなのだが、中原幹部は頑として譲らず。

「慣れねェとな。」

などと云って私の頭を軽く撫でるのであった。

フェージャもそうなのだろうか。それとも私とは別のもっと高尚な理由があるのだろうか。きっと後者だと思う。フェージャはマイペースなところがあるが、頭の中ではいつも難解な事を考えている......ような気がする。

今は先程歌っていたあの某有名な魚の歌を鼻歌で歌っている。あの歌はなかなか頭から離れない歌だ。

「フェージャ、着きました。」

「此処ですか。」

少し古びた四階建てのビル。その二階部分が事務所だそうだ。

「......窓に全て黒いカーテンが掛けられていますね。」

「普通の中小企業の筈ですけど......。」

ポートマフィアの下部組織などでもなく、表の世界の健全な中小企業だと下調べした時には感じた。上下階も同じく何かしらの一般企業だった。

「取り敢えず入りましょう。何かあれば......それなりに対処します。」

私はインターフォンを鳴らして用件を伝え、鍵を開けて貰う。

ステンレス枠のガラス扉を開け、階段を上がり事務所の受付まで行く。受付の女性にもう一度用件を告げると、廊下の脇の一室に通された。窓もない、パイプ椅子と机しかない真っ白な部屋だった。

「取引先の人間を迎えるような部屋ではありませんね。」

フェージャがぐるりと見回して呟いた。

「そうですか?綺麗でさっぱりしてて良い部屋だと思いますけど。」

前の私ならこんな白い部屋は耐え難いものだっただろうが、今の私には何の問題もない。

それからフェージャと他愛ない話をしながら時間を潰すこと30分。

「30分経ってもお茶も出なければ担当者も来ませんが。」

「何か不備でもあったんでしょうか。」

急ぎの件か社長か国木田さんに聞いてみても良いかもしれない。とにかく状況が分からなければ此方も動けない。私は出入口の扉へ向かい、ドアノブを回し......

「......?」

ガチャガチャと回そうとしてみるも、動かないし、開かない。

「......閉まって、ます。」

「閉じ込められたと。」

「......鍵穴は外側でしたよね。」

鍵の不具合......などとは云ってられない。此れは故意の可能性が高い。フェージャもそう思ったようで私と目が合うと目を細めた。

「如何しますか?」

私は古典的な方法で行きましょうとドアから距離を取った。

助走を付け、利き脚による回し蹴りを放つ。ドゴオッ!!とかなり良い音が響いた。が、ドアは少し凹んだだけで微動だにしない。

「......頑丈ですね。」

足にびりびりと衝撃が響いた。

「音からしてドアの前に何か置かれているようです。抉じ開けられないように。」

「完全に故意じゃないですか。」

データを取りに来ただけなのに何と云う仕打ちだろう。

それとも私が来るのを把握した上でこのような事を?だとすれば目的は。

「探偵社とポートマフィアに......」

私を人質に脅迫でもする心算だろうか。

......無意味にも程がある。私を人質にしたところでどちらも動かないというのに。

でも、今は私だけじゃない。フェージャがいる。フェージャは助けなければならない。だとしたら探偵社の誰かに助けを求めた方が良い。そう思ってスマートフォンを取り出したが圏外である。電波妨害もされているらしい。

「......爆破しますか。」

此れは最終手段だ。梶井さんのようだが仕方ない。

「部屋が狭いので二人して死にますよ。まあ、ぼくは貴女と死ぬのであれば吝かではありませんが。」

「すみません、私は未だ死ねないので。」

やめましょう、と梶井さん流突破法を諦め、更に思考を巡らせる。が、突然その思考に霞みが掛かった。

「此れは......」

「催眠瓦斯ですね。」

天井近くにある通気口から催眠瓦斯が送られているらしい。向こうは本格的に私達の意識を刈り取ろうとしているようだ。

「困りましたね。」

「それでも早く開けないと......。」

「ですが、やれる事は全てやりました。」

フェージャは笑顔で逃れようのない事実を云う。そうだ、全て試した。試した上で開ける事が不可能だった。外部へ連絡する事もできない。もう手段がない。

「瓦斯の放出は止まったようですが、部屋に充満しています。其れに彼方は此の瓦斯の効果時間も知っているでしょうから其れまでは動きません。此処は諦めて寝ましょう。」

「フェージャはそうしてください。」

そういう訳にはいかない。相手が扉を開けた瞬間反撃し、捕らえる。いつでもそうできるように構えておく必要がある。

扉の脇で愛用する黒の9ミリ拳銃を手に待機する。

「私はできる限り起きています。」

「ならぼくも起きている事にします。ああ、どうせならどちらがより長く起きていられるか勝負しましょう。」

「其れは逆を云えばどちらが先に相手を眠らせる事ができるかという勝負でもありますよね。」

その通りです、とフェージャは不敵に微笑んだ。

「という訳でぼくは今から聞いているだけで眠くなる難しい話をしたいと思います。」

「其れは強敵です。でも、受けて立ちます。」

フェージャは私の隣の床に移動し腰を下ろした。体育座りで首を少し傾け、彼は私に質問した。

「歩は神という存在を信じていますか?」

唐突な問い掛けにフェージャを振り返る。

「......私は信じていません。」

「理由を聞いても?」

私は手にある拳銃を握り締め、言葉を絞り出した。

「神がいるなら父も母も子ども達も......織田作さんも皆生きている筈だから。」

私の願いを神はいつだって聞き入れてはくれなかった。だったら信じず、進み続けるしかないと私は思っている。

「いきなり如何したんです?神だなんて。」

「12年前、この日本には神がいたそうです。」

12年前、私が5歳といったところか。14年前に大戦があり、その2年後となると日本は大戦直後の混迷期と云って良い。私はその頃の事は思い出す事もできないが、神という存在に縋らなければやっていけないような時代だったのかもしれない。

「その神は生死を司るとされ、自身に生死の概念は一切存在せず、また、神の不興を買った者は神の力によって惨い死を迎えたそうです。」

「お伽噺のような話ですね。」

フェージャは確かにと顎に手を当て、ですが実際にあったそうですと続けた。

「と云っても、結局其の神とは人間であり、力は異能だったそうですが。」

「神じゃないんじゃないですか。」

私は息を漏らした。脱力感からか若干眠気が重くなった。これもフェージャの策略か。

「それほどまでに強大な異能。其の異能者が特一級危険異能者の中でも最上位に位置する事は間違いありません。」

「見たことがあるんですか?」

まるで経験したような口振りだったため私が尋ねてみると、全て受け売りですとフェージャは首を横に振った。

「ただこの話は二種類の人間から聞きました。」

「二種類......」

「其の神を未だに崇める宗教団体の人間、もう一方は......」

フェージャは一拍の間の後、口を開いた。

「其の神を探し出し、殺そうとしている異能力者集団。」

「異能力者集団......」

不穏な単語に私は眉を寄せる。

「彼等は現在日本を拠点として活動しています。其の組織の恐ろしい点は少なくとも二人以上の精神操作、意識操作の異能を有している者がいるという事。」

フェージャは私を見上げ、最近こんな言葉をよく聞きませんか?と問う。

「こんな事をする心算はなかった、其れに類する言葉を。」

私は記憶を辿った。フェージャと見た汚職事件の政治家、それに乱歩さんと解決した事件での氷の異能力者。

「心当たりがあるでしょう?」

「......フェージャは何が云いたいんですか。」

「彼等の目的は神を殺す事でした。ですが、其の神は未だに見つからない。ならば、如何するか。」

どくりと鼓動が一度大きく鳴った。と同時に瓦斯のせいか咳が出て、止まらない。

「フェー......ジャっ」

「歩が予想した通りです。極論ですが、異能力者を全員殺してしまえば神も殺す事ができるだろうと。」

私の背中を撫でるフェージャの手は冷たかった。

「ヨコハマには"本"があるが故に異能者が自然に集まる場所でもあります。よって彼等はヨコハマに拠点を置いた。しかし、殺すと云っても情報がなければ返り討ちに遭うかもしれません。また、全員を本当に殺す事ができたかも不明になります。其処で貴女の存在を利用する事にした。」

心臓が冷たくなるような厭な感覚が私を襲った。意識を失うどころの話ではないのに、睡眠瓦斯によって思考に歪みが生じ始めている。

「貴女は現在ポートマフィアと探偵社、ヨコハマを取り仕切る二組織と繋がりがある。貴女は自分など必要とあらば切り捨てられて構わない矮小な存在と考えているでしょうが、どちらもそうは思っていません。貴女との交換条件ならどんなものでも支払うでしょう。」

例え組織に所属する異能者リストであっても。

「もし、仮にそうだとしたら、ますます......ゲホッ、眠る訳にはいかなくなったじゃないですかっ......」

だが、正直限界だった。目を開けているのが辛くて、息をするのも苦しくて、思考も余り纏まらない。絶対に寝てはならないという意志だけが私を支えていた。私は9ミリ拳銃を抱えながら白衣の内からナイフを取り出す。

こうなったら強制的に意識を此方に繋ぎ止めておくしかない。

太腿の重要な血管がない部分を刺す。痛みで眠気を吹き飛ばす。

切っ先を其処に向け、突き入れる......。

筈だった。

パシリとナイフを持つ手が強く掴まれた。

勝負に勝つため妨害したのかと思い、振り返った私はフェージャの表情に息を呑んだ。

何と云うのだろう。切羽詰まったような、余裕のない表情だったのだ。

「駄目です。」

私の手を掴む力が強くなり、私はナイフを取り落としてしまう。

「フェージャ......?」

「駄目なんです。貴女の血を見るのが。」

あの時の事を思い出してしまうんです、と云ってフェージャはもう片方の手でナイフを拾い上げた。

あの時とはきっと、アインスに敗れ、ログハウス付近で私が血塗れで倒れていた時の事だろう。

「あの時、ぼくは自分でも驚く程動揺していました。多分相当ショックだったんでしょうね。それ以降貴女の血を見るのが恐ろしくて堪りません。ぼくは歩が......死ぬのが怖いのだと思います。」

フェージャは淡々と言葉を紡いだ。だからこそ彼の声からは確かな恐怖のようなものが感じ取れた。

「勝負は終わりです。」

フェージャは私の手を引くと、体育座りをしている膝と膝の間に私を座らせた。されるがままになったのは身体に力が入らなかったからだ。これではもし起きていられたとしても反撃はできなかっただろう。自分の無力さが胸を締め付けた。

「歩はぼくが守りますから安心して眠ってください。」

「フェー......ジャが?」

「はい。次起きた時はそうですね......家、という訳にはいかないと思うので、病院である事を約束します。」

フェージャが私の頭を自身の胸に付けてゆるゆると撫でる。其れだけでもう目が開けていられなくなってしまう。瞼を閉じると、意識がどんどん深い闇に落ちていった。

「おやすみなさい、良い夢を。」

最後にフェージャの声が聞こえ、私は意識を失った。


フョードルは歩の寝顔を眺め頭を撫でながら欠伸を一度した。フョードルにとって催眠瓦斯が効果がない訳ではない。だがこれまでの経験から耐性が着いているため欠伸程度で済んでいるのである。

フョードルはもう一度欠伸をして、歩の肩に顎を載せ、目を閉じた。

それから暫く経ち、固く閉ざされていた扉が開いた。部屋に入ってきたのは二人の男女だった。其の男が歩とフョードルに近付く。彼等の目的は歩のみであったため、フョードルを退かそうと男がフョードルの腕を掴んだ時だった。

男が突然仰け反って背中から床に倒れた。其の倒れた床を男を中心としてみるみる内に赤い液体が広がっていった。

女が悲鳴を上げ、腰が抜けて床に座りこんでしまう。フョードルは歩を片腕で支え立ち上がると女に歩み寄った。

「貴女を解放する方法は只一つ、死のみです。」

フョードルが女に手を伸ばし、額に触れる。瞬間、バシャリと血液が噴き出し、女は地に伏し絶命した。しかしフョードルは意に介さず、歩を抱えて扉から外に出た。

ゆっくりとした足取りで廊下を歩き、奥へと進む。事務机が並ぶオフィスフロアは静寂に包まれていた。

その静寂は人為的に作られたものだった。タイルの床には此の事務所の職員であろう数人が倒れていた。動く気配もなく死んでいる事は明白だった。

その中で只一人、生きている人間が居た。

「誤算だった。」

事務机の上に座り漆黒のカーテンを見詰めていた男は顔だけフョードルに向ける。二十代位と思われる異国の男だった。

「君が居るのは想定外だったよ。天人五衰が一人にして死の家の鼠の頭目フョードル・ドストエフスキー。」

「ぼくは想定内でしたよ。」

フョードルは冷笑を浮かべた。

「貴方が此処に居る事も、歩を狙っている事も全て。」

男は金色の髪を揺らし、頷いた。

「君の先を見通す能力と情報収集力は我々も高く評価している。だからこそ我々は君から情報を買い、君を生かしてきた。」

「ええ、貴方達とは計画遂行に際して利害が一致していたので協力していました。ですが、彼女が関わるなら話は別です。」

フョードルは歩を床に降ろし、拳銃を懐から抜いた。

「彼女はぼくの唯一です。彼女の生はぼくにとって計画完遂と同等の価値がある。勿論、どちらも得る心算ですが。......なので貴方方に利用され殺されて良い存在ではないのですよ。」

男はフョードルの銃口を眼光鋭く睨む。

「鼠風情が神を殺すため神の力を得た我々を殺せると?」

「ぼくには可能です。貴方の異能は意識操作系。しかも触れなければ発動しない。攻撃するには武器を使う他ありませんが例えば貴方が今此処で拳銃を取り出したとしても、ぼくが撃つ方が早いでしょう。」

フョードルが引き金に指を掛ける。

「......更に君に異能を使おうとしても先程の二人のように殺されるだけ、か。」

「その通りです。......ぼくは彼女のためなら神であれ異形であれ殺してみせます。」

どのような残虐非道も彼女のためなら喜んで実行しよう。
彼女を守るためなら神の采配すら読みきってみせよう。
彼女の願いを叶えるためならば凡百ものを支払おう。

「歩に嫌われたくはないので、悟らせはしませんが。」

「あのフョードル・ドストエフスキーともあろう者が一人の女にご執心とは。」

一人納得するように何度も頷いて男は机から降り立った。

「今日は退こう。だが、仲間全員に通達する。鼠は一匹残らず殺さねばならないと。」

「貴方方ではぼくは殺せないとは思いますが。」

男はフョードルの脇を通り、出入口の方へ去っていく。けれども、男は一度立ち止まった。

「フョードル、其の歩という女気持ち悪い色をしているな。」

「......ええ、そうでしょう。でも、ぼくにとっては其れすら愛しいのですよ。」

「君から愛しいなんて言葉が出る事自体気持ち悪い話だ。土産話にもなりはしない。」

男は今度こそ去っていった。

フョードルは其の背中を見送り終えると、歩を再び抱え上げた。すうすうと寝息を立てる彼女の頬を撫でる。

「......貴女に其の組織の名を云うのを忘れていましたね。」

フョードルは歩を抱き締め、歌うように云った。

「彼等の名前は......」


同時刻、探偵社にて。

「乱歩さん、軍警から連絡がありました。」

谷崎の声に乱歩が目を開け、他の社員も仕事を一旦中止し、顔を上げた。

「其れで、内容は?」

「はい、其の氷の異能者と最近汚職で逮捕された政治家から尋問を行ったところ両方からある組織の名が出たそうです。」

谷崎が資料を乱歩に渡し、深刻な面持ちで告げる。

「其の組織の名前は......」


また、時を同じくしてポートマフィア本部ビル最上階、首領の執務室に二人の幹部が集合していた。

「首領、例の組織について情報が届きました。」

中也が軍警からですが、と眉間に皺を寄せながら資料を差し出す。

「と云っても判明したのは名前だけで他は一切不明。下部組織にも根回しはしていますが、有力な情報は殆どありません。」

「仲間と思われる輩も拘束し、尋問してはいるが、途中で原因不明の死を迎える者ばかりでのう。」

「紅葉君がやり過ぎたんじゃないのかい?......はい、ごめんなさい。睨まないで紅葉君。」

ふざけている場合ではない、と紅葉が厳しい表情を見せる。

「情報は全くなし。異能か洗脳かは分からぬが政治家にまで手が伸びておる。」

首領は腕を組み、困ったねえと間延びした声で云った。

「それで、其の組織の名前は?」

中也が口を開く。

「其の組織の名前は......」


「王の写本」


「鼠が裏切った。」

男の言葉にふーんと関心のなさそうな女の声が一つ。

「良いんじゃない?どうせ皆殺すんでしょ?」

「殺す。異能者は全て。そうすればあの神も殺す事ができるかもしれない。」

「......でも、見付かると良いよね。私達の神様。」

金髪の男はそうだなと応じた。

王の写本構成員、オーディン。本名不詳。

異能力《高き者の言葉》。


という訳で遂に組織の名前と構成員一人が判明致しました。大体Wikipediaで調べています。しかも文豪じゃないという。そこはもう謝罪しかないです。作品名や内容から異能力を考えていきたいと思っていますのでWikipediaで調べないようによろしくお願いします笑

ところで、このサイトを始めておおよそ半年になろうとしております。長かったような短かったような......。文章量も全部合わせると25万文字位になっていそうなんですが(数えてはいない)、読者の皆様お付き合いくださっていつも本当にありがとうございます!拍手や感想も大変励みになっています。これからも皆様と共に楽しく頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします!

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シグマ君かわいいし格好良くないですか!?カジノのために頑張ってるのが本当に。直球で好きです!!いや、凄い......。いつかドス君、シグマ君、ゴーゴリ君で夢主とほのぼの日常小説みたいなの(ほのぼのと言いつつ......)書きたいです。楽しそう。シグマ君はもしかしたら二部で登場するかもしれません。予定外ですが。私は書くぞ、絶対シグマ君書くぞ。多分一、二話後位に......。その時は是非寛大な目で!よろしくお願いします!

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