番外編一

其れは俺が幹部になって少し経った頃。

俺は厭なものを見た。心底厭なものだ。

俺の執務室に入ってきたのは小柄な女だった。

其れだけなら文句は何一つない。

ポートマフィアは男女比に差があるとはいえ、姐さんのように女幹部もいる。実力があれば男女関係なく這い上がる事のできる組織だ。女だから何か問題がある訳じゃねェ。

漆黒の外套に隠れてはいるが垣間見える首と腕の包帯。右目から頭に掛けても包帯が巻かれ、左頬に大きなガーゼ。

ポートマフィア元最年少幹部、太宰治のコスプレかと思った。否、コスプレにしか見えない。あんな唐変木に未だ心酔している奴がいるとは。

否、待てよ。異能力か何かで女になった太宰なんじゃねェのか。

......彼奴に異能力は効かないか。

だが、太宰本人だろうがコスプレだろうが俺を苛つかせるには十分な材料で。

「おい、手前の其れは厭がらせか何かか。」

執務室の扉を背に両手に本や書類、ノートパソコンを抱えていた女は俺の低く威圧的な声音にびくりと肩を震わせた。

「な、何かお気に障りましたか。すみません。」

太宰が女になったとして出す筈もない小さな掠れた声が鼓膜を揺らした。怯えのようなものも滲むその声を聞いて頭の中がさっと瞬時に冷えた。

「いや、悪い。何でもねェ。」

「......此方こそすみません。すぐ帰りますので書類の受け取りをお願いします。」

女は顔を上げ、おずおずと書類を俺に差し出した。俺は其れを手に取り、中身を見ながら少女を一瞥する。

折れそうな程細い身体。青白い肌。後はほとんどが黒一色であった。

名前も所属も知らないが、この女が太宰だなんて自分の目は如何かしている。目頭を押さえつつも妙に纏まった綺麗な報告書に目を通す。

「此れ、手前が作ったのか?良い仕事するじゃねェか。」

作成者名にある北上という男は俺直属の部下が率いる強襲部隊所属の構成員だ。昇進したいのかその部下を押し退けてまで俺の機嫌を取ろうとしているような奴だ。
しかし、書類作成に関しては杜撰を極めたような奴だった。他人によく見せられるな、こんなもんと呆れる位には。其れが此処まで急に成長したと云うのは凄いを通り越して怪しい。別人だと考えて当たり前だ。

「......私は何も。」

少し間をあけ、女は否定した。

「でも、中原幹部にそう云っていただけるなら北上さんも喜びます。」

他の強襲部隊の連中にこれ程整った書類を作る奴もいなかった筈だ。つまり此奴が作ったと考えるのが妥当なのだが、本人は無表情にあくまでも自分ではないと白を切る心算のようだ。

「そうかよ、まあ良い。其れで、初めて見る面だな。名前は?」

「私程度の構成員の名前を覚えるなんて記憶の無駄遣いです。用件は終わったので私は此れで失礼します。」

皮肉めいた口調で返しそそくさと立ち去ろうとする女に苛立ちを覚えながらも俺は軽く床を蹴った。重力操作で自分を宙に浮かせ、進路を阻むように降り立ち扉を手で押さえる。

「聞かれた事は確り答えねェと背信の疑い有りと見なす奴がいないとは限らねェ。気をつけとけ。」

女は瞬きをして、暫し黙考した。

名前云うだけでそんな悩む事か?

「歩です。」

20秒程経った頃、女はやっと唇を開いた。

「所属は?北上の所か。」

「先日まで事務をしていたのですが、辞令が掛かって北上さんの下に就く事になりました。」

事務から戦闘部隊にか。なかなか珍しい転属の仕方だが今ならば頷ける。

ポートマフィアを含め三組織による勢力闘争。其れが直に始まる。
龍頭抗争程でなくとも総力戦を余儀無くされるだろうと首領も予期していた。

人員は多いに越した事はないだろう。

然れど即戦力とならなければ犬死となるのもまた事実である。

ポートマフィアが在るのはそんな非情で残酷な世界だ。

「あの......」

歩の声に我に返った俺は何気無く歩の腕の中にある本を目に止めた。

學ぼう近接格闘術、學ぼう護身術、學ぼう......。

如何やら近接戦闘の理解を深めようとしているようだ。その視線に気付いたのか歩は其れらを背中側に隠し、仕事があるので帰っても良いですか?と尋ねてくる。

「あァ、手間取らせたな。」

俺が扉から手を離すと、歩は失礼しますと軽く会釈して今度こそ去っていった。

其れが俺、中原中也と歩の初めての邂逅であった。


一度顔見知りになるとその姿は目に止まりやすいもので。

二度目の遭遇は新月の夜だった。街中にある広場のベンチで淡い青の光を放つ街灯を頼りに歩はノートパソコンのキーを叩いていた。

ポートマフィア直轄のレストランで食事とワインを楽しもうとしていた俺は運動も兼ねて徒歩で向かっていた。そうしてその広場の近くを通り、歩の姿を見咎めた訳である。

指を細かく動かしながら、時にベンチの空きスペースに置いてある橙色の液体の入ったペットボトルに口を付ける姿を俺は暫く見ていた。

耳にイヤホンをし、目はパソコンの画面に集中しているため俺には気付いていないようだ。

足音をなるべく立てずに背後に接近してみる。

最初に見えたのはパソコンの画面だ。其処には二つのウインドウが開いており、一つは報告書を作っているのか文字が打ち込まれており、もう一方では動画が流れていた。

二人の軍服を着た男が格闘をしている映像だった。

遅ェ打拳だ、などと勝手に批評しているとウインドウの一つ、報告書を作っている方が閉じられる。

「ご用でしょうか、中原幹部。」

イヤホンを取り振り向いた歩に俺は若干面食らった。反射的に半歩後退して息を吐く。

「気付いてやがったのか。」

「......中原幹部は分かりやすいですから。」

歩はノートパソコンを閉じてベンチの空きスペースに置く。

それより分かりやすいって何だ。

「其れで中原幹部、私に何か?」

「......偶々手前が見えて。手前こそこんな所で報告書か?」

「......まあ、はい。」

歩が含みのある視線を別の方向に向ける。男が携帯電話を手に何か話していた。若い栗色の髪の男だ。何処かで見た事があるような気はしたが、その男は通話が切れたのかその場を離れていった。

「彼奴が如何かしたのか?」

「......何でもないです。個人的な事なので。」

......個人的な事。

「手前、ストー......」

「違います。」

平時より語気を強め歩は云った。

「報告書を片付けていただけです。もう終わりましたので私は帰ります。」

歩はペットボトルの中身を全て飲み干し、ゴミ箱に向けて手のスナップだけで投げる。案外器用な奴なのかもしれない。一直線にペットボトルは空を駆け、ゴミ箱の中に収まった。

「あれ、何の飲み物だ?」

「野菜ジュースです。」

確かに野菜ジュースはそんな色をしていたな。納得して、小脇にノートパソコンを抱え立ち上がった歩を窺う。まだ何か?とでも云うように無機質な瞳を向ける歩に、飯は?と問う。

「ご飯は......」

懐からがさがさと音を立てて取り出したのは携帯栄養補助食品として名高いスナックである。開封済みの。

其れを恰も主食であり、副菜であり、主菜であるかのように堂々と見せて。

「此れを食べればお腹いっぱいです。」

なんて誇らしげに云うものだから頭の中にある糸的な何かががぷつんと切れた。

「......行くぞ。」

「え。」

衝動的に俺は歩の腕を掴んだ。困惑する歩を引き摺るように道に出る。

少し力を入れるだけで折ってしまえそうな腕。明らかに健康診断に引っ掛かる痩せ過ぎな身体。血色が悪過ぎる顔。

何故こうも不健康を具現化したような奴なのかと思ったら。

戦闘以前の問題だ。

此奴は如何にかしないと死ぬ。

そして、俺以外にきっと其れを指摘する奴は此奴にはいないのだ。いたらとっくに改善されている筈だ。

結論として。

俺が何とかしねェと歩は死ぬ。

歩は北上の部下だと云っていた。なら俺にとっては部下の部下の部下?その辺りだろう。

つまり、広く見れば俺の部下だ。部下の面倒をある程度見るのは上司の器量だ。

俺は靴音も高らかに大通りを踏み出し、一人で行く予定だったレストランへと急いだ。


「好きなもん食え。」

個室の椅子に座らせ、メニューを押し付ける。歩は目を白黒させ、首を左右にぶんぶん振った。

「いやいや、何故ですか。」

「さっさと頼んで黙って食え。幹部命令だ。」

落ち着いた雰囲気の女の店員がお飲み物は如何しますか?と尋ねてくる。

ワインを飲む心算だったが、此奴がちゃんと食っているか監視するためにも酔ってはならない。茶で良い、と返して歩に視線を送る。

「手前は?飲み物。」

「あ、う、え、オレンジジュース......で。」

オレンジジュース。

女店員が去っていった後、俺は驚きの余り歩の顔を凝視してしまった。

「オレンジジュースって......」

歩は顔を反らした。

如何にも珈琲飲んでますよ、酒なんて余裕ですみたいな顔しておいて最終的な選択がオレンジジュースとは。

意外が過ぎる。

「......オレンジジュース、美味しいですよ。」

「其れは分かる。」

大人でも飲む奴は当然いる。いるはいるが俺の前でオレンジジュースを態々注文する奴は初めて見た。酒を頼む奴も少ないが、大体体裁のためか珈琲やら茶やらを飲む奴が圧倒的多数なのだ。

「其れに珈琲、苦くて飲めなくて。お酒も未成年なので無理で。お茶でも良かったんですけど。その、飲みたくなって。」

......?
未成年?
誰が?

たっぷり数秒間考えた俺は漸く答えを見出だす。

「手前......未成年なのか。」

歩は不思議そうに俺を見て、私未だ14歳ですよと発言する。

14......だと?

「マジか。」

「大マジです。」

見えませんか?と顔をぺたぺた触りながら歩が俺に問う。

見えない......事もない。包帯とガーゼに目が行っていたが、顔には幼さが未だ残っている。身長もその年齢なら平均値な位だ。体重は間違いなく平均を遥かに下回っているだろうが。

しかし、雰囲気や言動は大人の其れで見ようによっては小柄な成人......

......何かちょっと今自分で自分の傷を抉った気がする。

「あー......真面目に見りゃ14か?って感じだな。普通に話してる分には20......。」

歩の顔に陰が差した。ふるふると身体を震わせ、何か決意したように目を伏せる。

此奴よく見たら割と感情表現豊かだな。

「......珈琲、飲めるように頑張ります。」

「んな、思い詰めんなよ。別にオレンジジュースが悪いって訳じゃなくて......」

「頑張ります!」

「お、おう。」

後になって聞いてみると、見た目と趣向が異なっていると世間一般に怪しまれるからこのような決断に至ったらしい。

此奴は数年後には珈琲を好んで飲むようになる。代わりにオレンジジュースを飲む姿を見なくなった。

そんな時女店員が麦茶とオレンジジュースのグラスを持ってやって来た。

「ご注文、決まりました?」

「また呼ぶからその時に頼む。」

歩はオレンジジュースショックから立ち直れずメニューも閉じたままオレンジジュースのグラスを凝視している。

今生の別れみたいな顔して見んなよ......。

女店員が下がり、俺はとんとんとテーブルを指で叩く。目線を上げた歩に飯、如何する?と尋ねてみる。

「カレーありますか?」

「あァ、結構種類あるぜ。」

「普通ので良いです。」

カレーが好きなのか、投げやりになったのかはもう表情からは窺えなくなっていた。基本的には無表情を貫いているようだ。

俺は自分のものとカレーライスを、呼び出した女店員に注文し麦茶を煽った。

歩もオレンジジュースのグラスにストローを差し、こくこくと飲む。ストローを使うのも意外だと思いながらも口には出さず別の話題を出す。

「そういえば格闘術の本やら動画見てたが興味あるのか?」

「興味というか。戦闘では矢張り手の内が多い方が良いのではと考えてまして。」

「確かにな。」

「私、事務を......主に異能力者の戦闘記録の整理をしていたんですけど、矢張り強い人は異能力だけじゃなくて他の技術も優れているんです。それにもしあの時......」

歩は途中で閉口した。何か耐えるような苦し気な顔をした。しかし、すぐ平静に戻り、目を開いた。

「中原幹部の戦闘記録も拝見した事があります。威力も去る事ながら他の誰よりも無駄がなく、異能力との組み合わせも相まって洗練された動きでした。とにかく凄かったです。」

「そ、そうか......」

こんな率直に褒められるとむず痒くなる。

今まであの青鯖野郎には貶され、嘲笑われ、陥れられ......散々だったからか。

「同じ事ができるとは思っていませんが、努力したいんです。」

少し驚いた。
第一印象は太宰に似た格好をした無表情で取っ付きにくい女だと思っていたが。話してみれば真面目で努力家で素直な奴だ。

そういう奴は嫌いじゃねェ。

「良いじゃねェか。だが、下手糞な奴のを見ても上達はしねェぞ。」

「其れはそうですけど......」

なかなか良いのがなくて、と歩は肩を落とした。そんな様子を見ていると自然と口から言葉が出た。

「偶にで良いなら俺が特訓、付き合ってやっても良いぜ。」

「そんな......中原幹部の手を煩わせる訳には。」

「構やしねェよ。」

俺は携帯電話を取り出す。

「暇な時に連絡する。携帯出せ。」

あわあわと口を開閉し、まごつく歩に早く出せと手を差し出して促すとコートの内にある衣嚢から古そうな携帯電話を俺の手に置いた。

「電話料金が安いので。」

携帯電話を操作しながら指摘すると歩は真顔で云った。

「給金の問題か?」

「そうじゃなくて、欲しいものがあるんです。」

「成る程な。幾ら位なんだ?」

「1000......万くらいですかね?」

割と大きな値だなと思いながら俺の電話番号とメールアドレスを登録した携帯電話を返す。

余り言及はせず麦茶を飲んでいると、女店員が食事を持ってきた。歩の前にカレーを、俺の前にディナーを置き、ごゆっくりどうぞと頭を下げて奥に戻っていった。

「カレーだけで良かったのか?」

「むしろ此れが入るかも怪しいところです。」

其れは食が細過ぎるだろ。

歩はいただきます、と丁寧に手を合わせてからスプーンでカレーをそっと掬って口に入れる。暫く咀嚼し嚥下した後、特に何の反応も起こさずスプーンで掬って食べるを繰り返した。

「美味いか?」

「はい、美味しいです。」

ひたすら黙々食べる。俺もいただきます、と云ってからフォークとナイフを進めつつちらちら歩の様子を確認した。

当然そうしていれば歩の方が食べるスピードは俺より圧倒的に速くなる。ルーの一片すら残さず完食した歩はオレンジジュースも飲み干し、腹部を擦った。

「食うの速ェな。大丈夫か?」

「......大丈夫です。」

早食いは身体に悪ィぞと云うと歩は普通だと思いますけどと眉間に皺を寄せた。

「中原幹部ってあれですね......お母さん、みたい?ですね。」

「みたい?じゃねェ。誰がお母さんだ。だったら手前は手間の掛かる餓鬼か。」

他愛のない話をしつつ俺も完食し一息ついた後、会計のために席を立った。

「あの、お会計矢張り自分の分は......」

「俺が無理矢理引っ張って来たんだ。俺に払わせろ。」

カードを出して早急に支払いを済ませ、外に出る。それから俺は後ろを着いてくる歩に振り返った。

「手前、家は何処だ。」

きょとんとした顔が返ってきた。

「え、何故ですか。」

「送る。」

端的にそう云うと、歩は両手を顔の前でぶんぶん振った。

「だ、大丈夫ですって。此処から近いですし。」

「女一人の夜道は危ねェだろうが。」

「いつも一人ですし、夜中に歩いた事も普通にありますから!」

頑なに拒む歩に手前な、と詰め寄ろうとした時だった。

電子音が鳴り響いた。携帯電話の着信だ。

俺のではない。

歩のだ。

出ろ、と指で耳を差すと歩はすみませんと小声で謝罪し、携帯電話を耳に当てる。一方的に話されているのか歩は無言を通していた。

「......了解です。」

最後にただ其れだけ云って携帯電話を閉じる。

「すみません、仕事ができたので失礼します。」

「仕事?今からか。」

夜はマフィアの時間帯とは誰かが云ったものだが、この時間からとは。

「私、光が駄目で。」

......太陽光とかそういうものか。確かそんな体質の人間がいるというのは知識にはあるが。

「全くという訳ではないんですけど。だから夜に仕事をする事の方が多いんです。」

そんな奴が強襲部隊にいて大丈夫なのか、普通に疑問だ。

「では、失礼します。今日はありがとうございました。」

歩は深く頭を下げて、夜の街に溶け込むように消えていった。

「......後で調べておくか。」

一人呟きながら俺もその場を後にした。


「やーいやーい烏女ー!」

それから一週間が経過し、昼から空きができた俺は歩を例の特訓をするために先日会った広場に呼び出した。
昼下がりかつ世間一般の人間には休日だったからか人がごった返していたが、何とか其処に到着した俺が目にしたのは子どもに罵詈雑言を浴びせられる歩の姿であった。
餓鬼大将なのか子どもを四人程従え、歩を指差し、主に烏を多用しながら罵る糞餓鬼。
しかし、歩は木陰にあるベンチに座り何も云わず其の糞餓鬼を眩しそうに目を細め見ていた。

否、一寸は注意しやがれ。

「歩。」

「中原幹部。」

俺が呼び掛けると、歩は糞餓鬼から俺の方に視線を向けた。すると、糞餓鬼は今度は俺を指差して。

「うわ、烏女の彼氏は矢っ張り烏男だったー!しかもチビ烏だぁぁ。」

「手前っ!!」

チビって何だ!!手前の方がチビだろうが!!

「チビ烏が怒った!逃げろぉ!」

「待ちやがれ糞餓鬼共がぁぁ!!

10分後

「くっそ......逃げ足だけは速い奴等だぜ。はぁ。」

「お疲れ様です、中原幹部。」

俺はベンチにいる歩の隣のスペースを陣取り、手で顔を扇ぐ。

「手前も一寸は怒るとかしろよ......」

「普通怒るんでしょうか?」

「怒るだろ。」

「......こらー?」

溜め息が出た。致命的な何かを悟った。

「もう良い。で、今日は休みか?」

「いえ、夜からです。」

「手前......そういう時は断れよ。」

そういう時は昼が睡眠時間なんじゃねェのか。

「いえ、寝なくても別に。」

「ずっと思ってたが健康に気を遣わなさ過ぎじゃねェか?」

「寝たら......夢を見るので。」

其れは悪夢なのだろう、歩の顔が強張る。

「其れに昨日寝たので。」

寝たと云うには顔色が悪い。睡眠薬でも飲んでそうだ。実際そうしているだろうが。

「そんなに悪い夢なのか?」

歩は何も云わなかった。口を閉ざし、空の一点を見詰めていた。

「今日はやめておくか。」

「何故ですか?」

「何故って、手前絶対無理すんだろうが。」

「......そんな事は。」

風によってふわりと歩の黒のトレンチコートが揺れる。両腰のホルスターが一瞬覗いた。

「拳銃、最新か?」

「手に馴染むものを選んだので型とかはよく分かりません。」

「新しいのが凄ェと思ってる奴の方が多いからな。良い判断だと思うぜ。」

ありがとうございます、と云った歩の声音は少し弾んでいるように思えた。此奴の感情の判断に声という項目が追加された。

「二挺拳銃か。確か立原が扱いは巧かったな。」

「はい、記録にありました。勝手に参考にしてます。」

記録、思い出した。会ったら聞こうと思ってた事があったんだった。

「そういや手前の履歴関係の情報が見つからなかった。」

上司としてある程度知っておきたかった、と言い訳じみたものを付け加えながら尋ねる。

「そんな事はないと。あ、もしかして中原幹部......」

確信めいた顔で何か云おうとした歩を遮ったのは二つの電子音だった。

「悪い、出るぞ。」

「すみません、私も失礼します。」

俺は携帯電話を耳に当て、相手に用件を尋ねる。

良い話とは到底言い難いものだった。

ポートマフィア傘下の企業が一つ潰された。下手人は現在抗争に発展しかねない程関係が悪化している組織の一つ、阿蒲組と推測される。ポートマフィアの大口の取引先だった企業だ。

抗争の火蓋を切る事になる重大な案件となるかもしれない。

そんな内容だった。

現場に向かうと云って俺は通話を切り、先に通話を終えていた歩に今日は矢張り無理だと告げる。

「......私もです。」

此奴の仕事は夜からだった筈だ。緊急の呼び出しだとしたら阿蒲組関連に違いない。俺は歩に近づき、耳打ちする。

「召集だろ?俺も行く。車呼んだから手前も乗れ。」

「え、でも......」

「気にすんな、来い。」

歩は俯き、小さく頷いた後俺の背後を着いてきた。少しして到着した黒塗りの外車の後部座席に乗り込み、運転席の部下から手渡された資料を一読する。

読み終わり隣の歩を覗くと、前を見ていた歩がすぐに此方を見た。如何しました?と目で問う歩に質問する。

「手前は阿蒲組は知ってるか?」

「ヨコハマ北西部に拠点を構える犯罪シンジケート。中規模ながらその戦闘力と凶悪性を以て勢力を強めています。また阿蒲組は内陸部に位置しているため海のポートマフィア、山の阿蒲組と称され市民から恐れられているそうです。」

「お、おォ、それだそれ。よく知ってたな。」

何か辞書みたいな説明だな、と心の中で思った。

「記録に阿蒲組の異能力者のものがあったので。」

資料にも異能力者の人数、その内容が記載されている。が、文字だけでは分からない事もあるのでどんな異能力だった?と歩に再び問う。

「奇襲、要撃に特化した異能力者が多いように感じました。特に気になったのは任意の地点を1分後爆発させる異能です。」

「1分後か。確かに要撃に向いてやがる。」

「爆発の規模は地雷一個相当。最大捕捉地点は十。戦闘スタイルは基本的には要撃。建物に入ってきた複数の相手に対してその建築物の支えとなる柱などを爆発させ倒壊させる事で大きなダメージを与えるというのがセオリーのようです。」

流石は戦闘記録の整理を担っていただけあり、資料以上の情報が手に入った。しかし。

「そんな異能力が実際にあるならヨコハマ一面火の海になってもおかしくねェ。」

「何の制約も無いならポートマフィア本部ビルの破壊も容易でしょうね。でも、その異能力者はそれをしない。」

何か致命的な弱点があるに違いない。俺が考えていると、歩が唇を開いた。

「可能性の話にはなりますけど、正確な爆破をするにはある程度その空間について把握しなければならないのかもしれません。」

「あァ、建物を破壊するにしても何処に何が在るか分からなきゃ破壊のしようもねェ。無闇矢鱈に爆破したところで倒壊する確証もないし、味方にも被害が及ぶって事か。」

「それと一つ気になるのは。この異能力者は異能以外の全てが謎に包まれている事です。一度も......姿を現した事がないそうです。」

「異能の話だけが一人歩きしてるのか。」

この異能力なら外に出なくても正確な地図、設計図などがあれば何処でも破壊できる。敢えて外に出て自分を危険に晒す真似はしないだろう。

「何時何処で誰が仕掛けてくるか分からない、か。」

「もし阿蒲組の間諜者が内部にいれば本部ビルを爆破するために設計図を手に入れようと考えるかもしれません。本人が潜入して内部構造を把握しに来る可能性もあります。今のところその気配はありませんが。」

「何故そう言い切れる?」

「......私の目、少し特殊なもので。」

......どう見たってただの黒い瞳だ。

「今回は情報戦になるかもしれませんね。」

話題を反らすように歩は云った。俺もそうだなと頷く。糞太宰も情報量が戦況を左右するのだと徹底した情報収集、管理を行っていた。情報の重要性も十分に理解している。

少しして襲撃された企業の本社ビルの手前で車が停止した。ポートマフィアの構成員が包囲しており、喧騒が広がっていた。

俺と歩は車を降りて、所々の窓が割れ、黒煙が上がっているビルを見上げた。

「派手にやられたな。」

歩が同意するように首を縦に振った。此奴の目は俺以上に見えるものがあるのかもしれない。真剣な面持ちでビルを見る歩には何も云わず、状況確認のために部下の一人に声を掛けようとした時だった。

「歩っ!!」

怒号が俺の耳をつん裂くように響いた。何だ?と思いながら見ると、歩に大股で迫る男の姿があった。北上だ。

「新人の癖に遅刻とは良い度胸だな。俺は云ったよな?5分で来いと。」

歩はすみませんと頭を下げた。その頭を北上はがっと右手で掴み引き下ろす。

「ただでさえ雑用しかできない役立たずが。大体その包帯は何だ!大袈裟ぶりやがって!だから女は厭なんだ!」

頭を激しく揺さぶられ、その包帯が緩む。何重にも巻き付けられている其れの下の方は。

赤い液体に濡れていた。

太宰のように包帯を無駄遣いしているのではない。

正真正銘の傷がその下にはあるのだ。

血管が凍り付くような衝撃が走った。

何が太宰のコスプレだ。

そんな事を考えていた過去の自分に巫山戯るなと云いたかった。若しくは殴りたかった。

俺はかつかつと荒い靴音を立てて北上に向かい、その右手を掴んだ。

「其奴は俺と一緒に来た。もし遅刻したってんなら全責任は俺にある。」

「中也さんっ......。」

馴れ馴れしく名前を呼ぶ北上はすぐに手を離した。

「真逆、中也さんに迷惑を掛けていたとは。」

「迷惑じゃねェ。呼び出したのは俺だ。」

そう云うと北上はきっと歩を睨み付けた。何を考えているか手に取るように分かる。

「勘違いすんな。俺に取り入ろうとするような女の媚びなんざには靡かねェ。」

「しかし......!」

「文句があるなら俺を殴れ。今日此奴が手前を怒らせた理由があるなら其れは全部俺の責任だからな。」

北上はぐっと唇を噛み締め引き下がり、ばつが悪くなったのか他の部下のところへ向かっていった。

「おい、大丈夫か。」

歩は頭をふらりと揺らして顔を上げた。

その目に光は無かった。

「すみません、ご迷惑をお掛けして。」

声も平坦で冷たい。

歩から感情が消えていくような、そんな錯覚を覚えた。

「......いつもああなのか。」

「いえ。」

嘘に決まってる。あれは日常的な暴力に見えた。俺は歩の頭の包帯の端を手にする。

「中原幹部?」

「直すから動くんじゃねェぞ。」

包帯を一旦外してみると、切り傷のようなものがあった。鋭利な刃物で切られたようだ。無理矢理止血していたのか血が流れてぽたぽたと青白い肌を伝っていった。

「痛いか?」

「大丈夫です。」

「......手前は強ェな。」

右目の付近にも青黒い痣があった。下手をすれば失明だ。頬にあるガーゼの下も痣か傷なのだろう。首や腕にもそんな傷があるのだとしたら。其れらを見ながら包帯を巻いていく。

「よし、できたぞ。」

「お手を煩わせてしまってすみません。」

子どもの罵詈雑言に対して怒りもしない理由も分かった。

それ以上の事が日常茶飯事だからだ。

「手前は......何でポートマフィアに入ったんだ?」

ぽつりと零れた疑問に歩は目にほの暗い色を宿して答えた。

「死に場所を求めて。」

風が吹いた。血と硝煙の混じった生温い風が。


部下の切羽詰まった声に緊張感が走る。歩から一旦離れ、報告を聞く。

「突入部隊がやられた?」

二階に向かった全員が応答不能、最後に聞こえたのは断末魔だけだと其奴は云った。

「未だ敵が居るって事か。」

俺はビルを仰ぎ、その部下に告げる。

「俺が全員潰す。」

部下が頭を下げ、去っていく中、歩が俺に歩み寄った。

「私も行って良いですか?」

「あ?......あァ、来い。」

確かに中も危険だが俺といるんだから多少は安全だろう。むしろ此処にいれば俺がいなくなったのを此れ幸いにと北上の暴力が再開されるかもしれない。俺は了承して歩き出し、歩も追随する。

俺と歩、二人で一階の破壊された自動ドアから堂々と中に入った。一階エントランスは制圧済みなのか部下の多くが後処理に掛かっていた。受付のあるカウンターにはこびりついた血の痕が残されていた。

そのカウンターの脇にエレベーターがある。ボタンを押して其れを待っていると、ぴくりと歩が肩を震わせた。

「如何した?」

「ちょっと確認をしてきます。」

歩は近くにいた構成員の一人に声を掛ける。

「あの、二階に行った人達はエレベーター到着後すぐ殺されたんじゃないですか?」

その構成員が顎に手を当て、確かにタイミング的には其れくらいだと、と云った。

「......ですよね、ありがとうございます。」

歩は軽く会釈して俺に向き直る。

「エレベーターから出てすぐ襲撃があります。確実にです。」

「......おォ。」

到着したエレベーターに乗り、二階のボタンを押す。

「俺の背中側にいろ。離れんじゃねェぞ。」

「了解です。」

エレベーターはすぐに止まり、扉がゆっくりと開放される。

「っ......!」

目前にあったのは突入した血溜まりの中で蜂の巣にされた五人の構成員の死体と多銃身回転式機関砲が搭載された金属の塊であった。人で云う目らしきものを赤く光らせ、扉が全開になった瞬間、無数の銃弾をばら撒いた。閃光が散り、空薬莢が甲高い音を立てて落ちる音が響き渡る。

「こんなもんに此奴らは殺されたって訳か。」

しかし、俺と歩は先程と同じ様に立っていた。違いがあるとすれば機巧が射出した銃弾が俺を貫通せず止まっている事くらいか。

「俺の前から消えろ、木偶。」

俺の異能力《汚れつちまつた悲しみに》は触れたものの重力を操る。

停止させていた銃弾を、あの機巧が撃ち出した倍以上の速さで射出する。

硬い金属の装甲に無数の風穴が穿たれる。幾つかが中枢部を貫いたのか、機巧は紫電を放出し、爆発した。

「おい、歩。」

「はい。」

「手前、エレベーター乗る前から此れに気付いてたのか?助かった。」

「その......中原幹部、私はですね。」

歩が何か云おうとしたが、奥から同じ様な機巧が二体現れる。

「話は後だ。」

「......はい。」

俺は機巧に向かって走り出す。多銃身回転式機関砲を向けられる前に間合いを詰め、回し蹴りを決める。壁にめり込むようにして動かなくなった其れを踏み台に天井に立ち、もう一体が直下に来たところで天井を蹴り、拳を打ち下ろした。ドゴンと煙と閃光を上げて叩き付けられた其れは目の赤い光を失って機能停止する。

「こんなもんか。」

「さすがです、中原幹部。」

歩が物陰から賞賛の拍手を俺に送る。

「記録で見るのとはやっぱり違いますね。とても参考になります。」

「そうかよ。」

目をきらきら......標準よりは輝かせて歩は俺に尊敬の眼差しを向けた。その顔は年相応のものに見えた。

「其れよりこの木偶、阿蒲組だと思うか?」

「機械はよく分からないんですけど......」

歩はタタッと跳ねるような足取りで俺の隣に立ち、機巧を見下ろす。

「阿蒲組にこんな機械を数台も持てるような資本があるとは考えにくいんですが、状況からすると阿蒲組でしょうね......」

俺もそう思う。しかし、矢張り金の問題がちらつく。何処かの企業がバックに着いているのか。それとも......。

俺は首を横に振った。

「考えるのはやめだ。」

今はしなければならない事がある。考えるのは其れが終わってからだ。

「二階は此れで全部みてェだな。部下呼んで死体と木偶の回収をさせる。」

「私たちは......」

「上の階を順に制圧する。」

歩は分かりましたと頷いた。

二階はオフィスだったのか射殺された死体があちこちに転がっていた。書類も散乱し、血と煤に薄汚れている。慎重に足を進めながら向かって左側にある非常扉を開ける。上へと階段が繋がっているのを確認し、歩を進める。

「手前はさっきポートマフィアに入る理由が死に場所を求めてだって云ったな?」

云いましたね、と歩は静かに云った。

「其れは死にたいって事か?」

「そうなりますね。」

歩は続けて云う。

「ポートマフィアに入れば、すぐに死ねると思ったんです。でも、なかなかそんな機会なくて。」

此奴も毛色は違うが太宰と同じ死にたがりか。

「そんなに死にたきゃ自殺すりゃ良いだろ。」

投げやりに云うとできませんと間髪入れず歩は応えた。

「自殺は駄目だと云われたんです。だからできません。」

つまり、ポートマフィアに入れば誰かが殺してくれる、そう思ったという事か。

莫迦莫迦しい限りだ。

「俺には死にたいなんて思考が全く理解できやしねェ。」

そう吐き捨てれば、歩は中原幹部はそういう人なんですよと返した。そういう人ってどういう人だ。勝手に納得すんな。

つかつかと早足で階段を上り、三階の非常扉を開いた。此処もオフィスのようではあるが、機巧のようなものは見られない。在るのは死体だけだ。

部下に連絡し、非常階段を使って上階へ移動する。此れを十三回繰り返した。

「次が最上階か。二階以外は何もなかったが。」

「そうですね、気を付けた方が良いかもしれません。」

最後の非常扉を開く。

先程までのオフィスとは違い、がらんとしていた。椅子も机も何もない。開け放たれた窓が鎮座するだけの空間。けれども其処には。

「チッ、矢っ張り居やがった!」

三体の機巧がその多銃身回転式機関砲を此方に向けていた。

視界が白に染まる程の銃火。

「効かねェって云ってんだろうが!」

その全てを機巧に撃ち返す。金属の破れる音が轟き渡る。

その時。

「中原幹部、屈んでください!」

俺は反射的に膝を曲げ腰を深く落とす。四発、高らかな銃声が響いた。

其れは開け放たれた窓、其処から見える空へと放たれた、筈だった。

何も無い筈の空間から四ヶ所血飛沫が上がった。そして呻き声。

「姿を消せる異能か!」

俺は逃がさないためにも地面を蹴るが。

「駄目です。逃げられました。」

歩の声に振り向く。漆黒の拳銃、其の銃口から紫煙が一筋上がっていた。

「落ちたのか。」

「分かりません。」

「見えてたんじゃねェ......のか?」

歩は首を横に振った。

「私が見えたのはあの人の闇だけです。どんな姿をしていたかや逃走手段は全く視認できませんでした。」

「闇だと?」

訳の分からない事云ってんじゃねェ!と声高に云おうとした時、不意に歩が頭を押さえた。

「っ、おい、痛むのか?」

「中原幹部、全員に撤退命令を......!」

「何......だと?」

「30秒もありません、急がないと......」

訳の分からないまま部下に撤退の命令を出す。

「何なのか後で説明して貰うからな!」

「はい。中原幹部、後10秒なので速く脱出を。」

俺は急かされるままに歩を担いで窓から外に跳躍する。重力操作で身体をコントロールしつつ中程まで降りた瞬間だった。

ドゴン!!と爆発音が轟いた。

「なっ......!」

一階から次々に火が噴き、その衝撃に空気が震える。

「あの異能か......!」

車内で歩と話していた異能力者の仕業に違いない。

眼下を見ると多数の構成員が見えた。

遠目から見ても全員でない事が分かった。

人数が足りていない。

俺は唇を噛み、ビルを振り返った。あらゆる階から火柱が上がり、何処からかがらがらと崩落するような音が耳に届いた。

「なァ。」

「はい。」

「手前は一体何者なんだ。」

歩は目を一時伏せ、また開いた。

「中原幹部は私の履歴が無いと云いましたよね。」

俺はあァ、と首肯する。

「其れは中原幹部が一般構成員のリストか、見たからだと思います。もしそうなら私の名前がある筈ありません。」

「......じゃあ、手前は、真逆。」

口の中が一瞬で干上がるようだった。

否、断片は会話の中にも幾つかあった。其れを知る機会は幾らでもあったのだ。

この時の俺は、歩をただの普通の構成員だと思いたかったのかもしれない。

「私は、異能力者です。」

......歩を此れから起こる血の赤に染まった抗争、その根幹に蔓延る漆黒の闇に巻き込ませないために。

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