小説 | ナノ


▼ 04




泣き崩れるななしさんの口から出た名前に、いつの間にか汗ばんだ手をぎゅっと握った。亡くなった二人というのは、きっと錆兎と真菰のことだろう。そう気付いたのは、短刀の飾りに使われた着物を見たときだった。これは間違いなく、あの狭霧山で出会った真菰のものだ。恐らく、ななしさんは錆兎たちと一緒に最終戦別を受けていて、そしてもう一人の生き残って鬼殺隊に入ったという人は、義勇さんのことだろう。間違いない。
次から次へと大きな粒が頬を伝い、着物の袖を濡らしていく。長い睫毛を震わせ、整った顔をぐしゃぐしゃにして、まるで子供のように泣くななしさんの背中を、俺はずっとさすり続けた。見た目以上にずっと小さくて壊れそうな背中に、今までどれだけ大きなものを抱えていたんだろうか。少しでも、その重りが、悲しみが取れればいい。そう思いながら。






「ごめんなさい。たくさん泣いてしまって」

恥ずかしい、そう言って困ったように笑ったななしさんの目は真っ赤になっていたけれど、もう涙は止まっていて、変わりにいつの間にか降ってきた雨粒が窓を濡らしていた。しとしと、しとしと、土の濡れた懐かしい匂いがする。

「俺は大丈夫です」
「人に話したの、初めてだったの。炭治郎くんは不思議ね。なんでも話したくなってしまう」
「俺でよかったら、なんでも聞きます!俺は長男だから、そういうのは任せてください!」
「ふふ、頼もしいな」

雨の匂いに混じって、クスクスと柔らかく笑うななしさんから優しい匂いがする。初めて会ったときのような、でも悲しい匂いはしない。その変わり、安心したような、ほっとしたような匂いが混じっている。ああ、そうだ。錆兎も同じような匂いをしていた。俺が岩を切った時、錆兎も同じような匂いがしていた。少しでもその悲しみを拭えるなら、やっぱり俺はその背中を支え続けたい。


「大変…!」

急に大きな声を出して、ななしさんは小走りで店の入り口に駆け寄り、慌てた様子で引き戸に手を掛けた。すると、外は来た時とは打って変わってどんよりと暗い雨雲が空を覆い、地面を叩きつけるような激しい雨が降っていた。最初は小雨だったのに、いつの間にか土砂降りの雨が降っていたのだ。そして、雨雲で分かりづらいが日は沈んだようだ。

「ごめんなさい。私が長々と話したばかりに…」
「大丈夫です。これくらいなら、走れば帰れますから」
「ダメよ。風邪でも引いたらどうするの」
「いや、でも…」
「見て、酷い雨よ」
「大丈夫ですよ。曲がりなりにも俺は鬼殺隊ですから」

本当に、これくらいなら別に大したことない。ここから家までは、走ればそう遠くないから。それに、何かあれば藤の家紋の家に立ち寄らせてもらえればいい。なのに、ななしさんは暫く考えるような素振りを見せた後、「うん」と可愛らしく笑って、次に驚く言葉を口にした。



「炭治郎くん。今晩は、家に泊まっていって」





「ありがとう、炭治郎くん」
「いえ、これくらいどうってことないです」

押し入れに入った布団を二枚出し畳に広げると、6畳程の部屋はあっという間に隙間なく埋まってしまった。

「泊まってって言ったのは私なのに、結局準備までしてもらって…何だか申し訳ないわ」
「そんなことないです。食事まで頂いて、泊めてもらえるんです。これくらいさせて下さい」

あれから、ななしさんの申し入れを何度か断ったけど、ななしさんが折れることはなく、結局俺はここに泊めてもらうことにした。普段は物腰の柔らかいななしさんだけど、彼女は意外と頑固らしい。シーツの端を引っ張り、二人で黙々と布団を整えていく。ゆっくりと、ぎこちない左手を動かして、ピンッとシーツを張っていく。毎日こうして布団を敷いて、朝が来たらまた布団を仕舞って、厨房に立って仕事をして、ななしさんはそうして生活を送っているんだろうか。敷いた布団と布団の隙間は限りなく無いに等しいくらいで、妹たちと寝るのとはまた訳が違う。俺は今、少し…否、かなり緊張している。

「誰かとこうして布団を並べて眠るなんて、すごく久しぶり」
「前は誰かと一緒に寝ていたんですか?」
「え?」

ななしさんの動きがピタリと止まる。あ、俺、何かまずいことを聞いた気がする。そう焦る俺を他所に、ななしさんは思い出すように宙を見上げた後、またクスクスと笑い始めた。

「さっき話した子よ。一緒に鬼殺隊に入った子」

ああ、なるほど。義勇さんのことだろうか。

「その子ね、朝が弱くて非番の日、起こすのが本当大変だったの」

意外だな。義勇さんの私生活はあまり分からないけれど、寡黙で真面目な性格は、きちっとした生活を送ってそうに見えるから。

「髪の長い子だったんだけどね、私がちゃんと梳かしてあげないと、いつもぼさぼさでね」

本当に意外だなぁ。

「ご飯を食べれば顔中ご飯粒だらけにしてしまうし、本当何かと心配になる子だったの」

…………いや、本当に。どうやら俺の兄弟子は、俺の知らない一面をたくさんもっているらしい。

「そうだ。炭治郎くん、湯あみにどうぞ」
「先にいいんですか?」
「ええ、もちろんよ。それと、着替えなんだけど、これなんてどうかしら」

ななしさんは、茶箪笥の一番下の引き出しを開けて、一枚の着物を取り出した。白く、少し古びた着物は寝巻きだろうか。仄かに香る懐かしい匂いは、この箪笥からではなく着物からか、ななしさんからか。「合うといいんだけど」と着物を渡され、そのまま風呂場に行き、手拭いの場所や石鹸の種類など説明をするななしさんの顔が楽しそうだったから、まあ、どちらでもいいかと考えるのをやめた。



「おお、丁度いい…」

湯浴みを終え、着物に手を通すと、それは身体にぴったりと合うものだった。着ていた人は、俺と同じ背格好くらいの人、それは昔のななしさんだろうか、それとも義勇さんなんだろうか。分からないけど、きっとななしさんにとってこれは大切なものなんだろうな。

部屋に戻るとななしさんは数回パチパチと瞬きを繰り返した後、顔を綻ばせて「やっぱり」と言って俺を出迎えた。

「丁度いいわね」
「はい。あの…これはななしさんのですか?」
「ふふ、まさか。私のではないのよ」

やっぱり…これは義勇さんのものなんだ。きっと義勇さんが俺と同じくらいの齢のときの。
ななしさんと義勇さんがどういう関係だったかは分からないけれど、ななしさんの話だと、義勇さんと一緒に住んでいたようだし、義勇さんには何も言わずに出てきたみたいなのに、どうしてここに義勇さんの着物があるんだろう。

「お下がりで、ごめんね?」

ぎゅっと着物の合わせ目を握りしめる。ななしさんにとって義勇さんは、離れてしまった今でも、大切な人に変わりはないんだろうな。


それから、湯浴みを終えたななしさんは、「そろそろ寝ましょう」と床に就いた。暫くすると聞こえる小さな寝息。もう、寝たんだろうか。小さく名前を読んでも聞こえるのは規則正しい寝息だけで、緊張しているのが自分だけなのかと思うと少し恥ずかしい。規則正しい寝息に、不規則な雨音。緊張の和らいだ身体は途端に睡魔に片足を踏み入れ始める。ああ、寝そうだ。そう思ったとき、



「義勇…」



小さく、乾いた声が響いた。まるで全ての音を掻き消すかのようなその声に、息をのむ。再び聞こえる規則的な寝息と不規則な雨音。

「ななしさん…」

俺は、ぎこちなく着物を掴むその手を握って再び目を閉じた。





あれから一夜明け、昨日と打って変わって空には燦々と輝く太陽が昇り、それは昨夜の雨夜の名残を思わせる草木に付いた滴や水溜りに反射し、清々しい朝だった。
起きると既にななしさんの姿はなく、襖一枚を挟んだ店の方からトントンと優しい音と、いい匂いが漂っている。俺は長男だから兄弟の誰よりも早起きで、それは鬼殺隊に入ってからも変わらなくて、こうして誰かが自分より早く起きているのを見るのはいつぶりだろうか。

「おはようございます」
「あら、おはよう。炭治郎くん、早起きね」
「はい。昔からの癖で、朝はいつも早いんです」
「そう、もう少しゆっくりしててもよかったのに…。あと少しで朝ご飯出来るから待っててね」
「もう目は醒めたんで、大丈夫です!俺も手伝います!」
「でも、本当あと少しなの」
「いいやダメです!手伝わせてください!ななしさん、これは切ってもいいですか?」
「じゃあ、お願いしようかしら」

泊まらせてもらって、食事までご馳走になって、至れり尽せりの夜を過ごさせてもらったんだ。これくらいさせもらわないと。まな板の上にある茹でて水気を切ったほうれん草を指差すと、ななしさんはクスクスと笑いながら首を縦に振った。俺が折れないと分かったのか、すんなりと頷いてくれて助かった。俺も、ななしさんも頑固だから。それは昨日一日一緒に過ごして知った彼女の意外な一面だ。
綺麗に研がれた包丁を手に取り、ほうれん草を食べやすい大きさに切っていく。トントンと響く優しい音と、漂う出汁と味噌のいい匂いの中、二人並んで朝食の支度を黙々と進める。ああ、この感じ、懐かしい。兄弟の誰よりも早起きだった俺は、よく母さんの朝餉の支度を手伝っていた。みんながまだ寝静まり返っている、静かな時間に二人で。初めてななしさんに会ったときから、ずっと誰かに似ていると思っていたけれど、きっとそれは母さんだ。年齢も随分違うし失礼にあたるかもしれないが、ななしさんは、少し母さんに似ている。
包み込むような優しい匂いや、柔らかく笑うところ、苦労を見せない強さ。だから、俺はこんなにも、この人を助けたいと思うんだろう。


あれから朝食はななしさんの言う通りすぐに出来上がって、俺たちは出来上がった料理を手に、居間に向かった。店の料理より簡素なものだけど、それでもやっぱりどれも美味しくてあっという間に皿を空けていく俺に、「よく食べるね」とななしさんが笑いながら言うもんだから、少しだけ恥ずかしくなった。いや、だって本当に美味しんだ。伊之助や善逸にも食べさせてやりたい。そうだ、帰ったらまた皆でここに来ようと誘ってみるか。きっと二人とも、ななしさんに会いたがってるだろうから。
食後にお茶をもらって、何だかんだであと数時間で正午を迎えるくらいに時間は進んでいた。ななしさんといると、時間の進みがいつも早い気がする。




「忘れ物はない?」
「はい!いろいろとお世話になりました」
「そんな…お礼を言うのは私の方だわ」
「あの、またここに来てもいいですか?今度は善逸や伊之助も連れてきます!きっとあいつら、ななしさんに会いたがっていると思うから…」
「ええ、もちろんよ。私もまた皆に会いたいわ」

名残惜しさを振り切るように、「じゃあ、また」そう言って引き戸に手を掛けた途端、ななしさんが引き止めるように俺の名前を呼んだ。

「炭治郎くんに話を聞いてもらって、すごく心が軽くなったわ」
「ななしさん…」
「あの子は…彼は、強いからきっと今でも鬼殺隊に身を置いていると思う」

遠くを見つめるななしさんの、その視線の先に映る人物を俺は知っている。
ななしさん、義勇さんは、鬼殺隊にいることは勿論、今では隊を率いる柱なんですよ。すごいんです、強くて、かっこよくて。俺の憧れの人なんです。

「もしかしたら、炭治郎くんも知っているかもしれない」

ああ、もちろん知っています。俺は、あなたたちの弟弟子ですから。あなたたちが乗り越えたであろう訓練も、俺は狭霧山で受けてきました。鱗滝さんに。そう、出そうになる言葉を必死に飲み込む。

「だけど、敢えてその名は伏せるわ」
「どうしてですか?」
「運命に任せようと思うの。どこかで彼に会えたら、運命だって。反対に、生涯会えなかったら…、それもまた、運命だって」
「そんな…」
「私は、炭治郎くんに話すことでもしかしたら彼も許してくれるんじゃないかと思ってしまったの。だけど、やっぱり私がしたことは許しを請うことではないから。だから、私から会いたいなんて、言えないの。…いえ、言っては、いけない」

胸の前で手をぎゅっと握りしめたななしさんは目蓋を伏せ、言葉を続けた。

「それに、私は彼が今、幸せならそれでいい。その幸せを壊すくらいなら、このままでもいい」

何の導もなく、ここに義勇さんが来る確率は、限りなく少ない。鬼殺隊の本部から離れ、柱の管轄外のこの地に義勇さんが来ることなんて何百分の…否、何億分の一の確率かもしれない。言えたらいいのに、自分が知り合いだと。そうすれば、何億分の一の確率に願いを込めなくとも、二人は再会できるのに。ななしさんは、「でも」と続けた。

「もし、再び会うことが出来たなら、もう逃げずに彼にきちんと謝りたい。例え、許してもらえなくても」

ああ、その顔。やっぱり言えるわけなんかない。決意した強い瞳に射抜かれた俺は、「分かりました」と返すことしか出来なかった。











(いや、そうは思ったけど!やっぱり違う気がする!!)

店から目的地までザッと50km。全速力で山を駆け上がり、目的の場所へと走る。夕刻前には着かなければいけない。この山と、もう一つ、向こうに見える山を越えて。

(急げ、急げ!日が暮れる前に!!)

義勇さんから直接ななしさんの話を聞いたことはないけど、話を聞く限り義勇さんがななしさんのことを怒っているとは思えない。家族同然で過ごしてきた二人だ。ななしさんにとってもだけど、義勇さんにとっても彼女はかけがえのない人であるには違いないのに。こんなにも近くにいるのに、お互いの本当の気持ちを知らないまま生涯を終えるのは、あんまりだ。
床に入ったあとななしさんから出た義勇さんの名前、今日のななしさんの様子を見ると寝言だったんだろうけれど、俺は忘れない。弱々しく俺の着物を掴んだ彼女の手と、胸を締め付けるような悲しみと慈愛に満ちたあの匂いを。ななしさんには、義勇さんが必要なんだ。



「ハァッ、ハァ…ッ!つい…た…!」

間に合った。まだ太陽は高い位置から然程動いていない。その代償に喉と胸が焼けそうなくらい熱いがそんなことに構ってなんていられない。息絶え絶えのまま、俺は引き戸に手をかけ、振り絞るように声を張り上げた。

「義勇さん!!いますか!!俺です!竈門炭治郎ですッ!!!って、うわあッ!!!」

勢い良く開けた戸のすぐ向こう側に義勇さんがいて、予想外の状況に力の入らない足はたやすくもつれて、後ろに尻餅をついてしまった。いや、会えてよかった。これで義勇さんが不在だったらここまで走ってきた意味がなくなってしまうから。

「…何をしている」

相変わらず無表情の義勇さんの手には、小さな風呂敷に包まれた荷物が握られている。

「義勇さん!会いたかったです!!」
「俺は別にお前に用事はない」
「俺があるんです!!義勇さん!これからどこかに行く予定ですか!?」
「お前には関係のないこ……っ」
「教えてください!!変わりに俺が行きます!!!」

横を通り過ぎようとする義勇さんの肩をガシッと掴む。行かせない、貴方には行ってもらわなければ行けないところがあるんです。

「…っ、炭治郎、いい加減に…」
「二つ山を越えた東の街に今すぐ行ってください!!!街の門を潜って橋を渡って直ぐを右に曲がって、突き当たりにある小さな定食屋さんです!!そこに義勇さんに会って欲しい人がいるんです!」
「俺は用事がある」
「だから、その用事は俺が済ませてきます!頼みます、義勇さん!」

ダメだ、全然聞いてくれやしない。風呂敷片手にズンズンと足を進める義勇さんの腕にしがみつき、その足を止めようとするけど、引きづられるだけで。これが柱との差なのか。こうなったら…

「その店には義勇さんの好物の鮭大根があります」

ダメ押しで耳打ちするように言った言葉に義勇さんの肩がピクリと反応した。これは、もしや。

「それがまたすごく絶品で、看板メニューらしいですよ」

一度は止まった足だったが、「鮭大根ならここらへんでも食べれる」と再び俺を引きづりながら義勇さんは歩みを再開させた。ダメだ、このままじゃラチがあかない。俺じゃ、やっぱりどうにもできないのか。


――その子ね、朝が弱くて非番の日、起こすのが本当大変だったの

――私は彼が今、幸せならそれでいい。

違う、いいなんて嘘だ。彼女には必要なんだ。

――義勇…

着物を掴む手が、彼女のものと重なる。ゆっくりと前に進もうとしているななしさんの手を握るのは、義勇さん、きっと貴方しかいない。



「義勇さん、ずっと誰かのことを探していませんか」
「…………」
「その人も、ずっと義勇さんのことを探しています」
「炭治郎…何を…」
「義勇さんを待ってる人がいるんです」

足を止めた義勇さんの風呂敷に手をかけると、それはすんなりと自分の手元に渡った。風呂敷の隙間から見えたのは薬の調合に使われる薬草が入った瓶だった。

「蝶屋敷ですね。俺が行きます」
「…………何の真似だ。炭治郎」
「そうだ。その店は店仕舞いが早いので、夕刻前に行くことを進めます」


再び呼ばれる名前にも振り向かず、俺は蝶屋敷に向かった。
もう、悲しむ顔は見たくない。そう思いながら。







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