小説 | ナノ


▼ 02




足が重い、沼の中をひたすら前に進んでいるようだ。背中も重い、何かがのしかかって肺が圧迫されて息が苦しい。暗闇の中、その「何か」は確認できない。
何に向かって私は歩いてるのだろう。ただひたすら前に進んでている。進まなければならない、何かに導かれるように。痛い、苦しい、腕が、足が、千切れそうでいい知れようのない恐怖に苛まれる。そう思えば思うほど、足や背中の重みがじわじわと増していく。このままじゃ前に進めない…助けて、許して…

(…許して?誰、に?)

暗闇の中、ぼんやりと姿を表した三つの影。背丈からして子どもだろうか。皆、同じ狐の面を携え、体よりも幾分大きい刀を構えている。パシャッとその場に似つかわしくない水音が響いた途端、その刃の切っ先が流線を描くように目の前に突き立てられる。揺れたのは、目の前の漆黒の髪だった。

―――ごめんなさい、許して…


「…はあッ、……っ」

…夢、、直ぐに理解した。毛穴から吹き出すように滲む汗、肌にへばりついた髪や寝巻きが気持ち悪い。喉もカラカラで酸素が通るたびに焼けつくように痛い。水を飲もうと立ち上がったとき、左半身に鈍い痛みが走った。
あぁ、まただ。また痛み始めた。あの時負った傷跡は、未だに私を苦しめる。身体も、精神も、じわじわと削いでいくように、喰むように。そんな風に全部傷のせいにできればいいのに。本当は知っている。全部、自分の弱さが原因だってこと。だからずっと消えない。この痛みも苦しみも、ずっと。


「義勇…」


ぽつりと呟いた言葉は、静寂に溶けるように暗闇に消えた。






あれから暫くして、任務でななしの店の近くに行くことがあった炭治郎は、久し振りにその店を訪れることにした。最後に会った時からどれくらいの時が経過しただろうか。気がつけば二月は経っているかもしれない。本当はまたすぐにでも来たかったのだけれど、最近は鍛錬に任務と何かと忙しく足を運ばせられずにいた。
また、あの飯を食べたい。勿論藤の家で食べる食事は文句なく美味い。だけども炭治郎は時々思うのだ。また、ななしが作った食事を食べたいと。あの、温かくてほっこりする懐かしい食事を。

「こんにちはー」

カラカラカラ、戸を引くとそこには二人の客と、カウンターで作業をするななしの姿があった。時間は昼時を過ぎているためか店内は比較的落ち着いており、炭治郎は安堵した。客の気配に気づき、顔を上げたななしはそれが炭治郎だと分かると顔を綻ばせた。

「炭治郎くんじゃない!久しぶり」
「お久しぶりです!なかなか顔を出せずにすみません」
「仕方がないわ。忙しいもの。また会えてよかった。あ、何か食べる?」
「はい!」

元よりここで昼食を摂るつもりだったため腹は空いていて、何を注文しようかと店内に掛かるメニューを眺めていると、カウンターに座っていた男が立ち上がった。

「ななしちゃん、ごっそさん。ここに置いとくよ。ほら、退きな」

そう言ってその男はカウンターに無造作に金を置き、ズカズカとななしが立つ台所の方に入っていった。何事だと炭治郎が目で追っていると、男は慣れた手つきで自分が食べ終えた皿と、シンクに置かれていた鍋を洗い始めた。

「いつもありがとうございます。助かります」
「いいっての、気にすんな。俺らにはこんくらいしか出来ねえけど」
「そうそう、皿洗うくらいで礼言われるならなんでもやってやるよ」

更にもう一人、食事を終えた男性が台所に回り、 洗い終わった皿を拭き始めた。元々そんなに広くない台所に成人男性二人とななしが並べばそこは窮屈に見え、炭治郎は大きな目をまん丸にしてその様を見つめた。

「炭治郎くん、元気そうね」
「はい!ななしさんこそ元気そうで良かったです」
「なんだ坊主、見ない顔だな。ななしちゃんに惚れ込んで通ってんのか?」
「そ、そんな、俺は…!」

もちろんななしさんのことは好きだし、彼女は美人で優しい。だけどそういう好きじゃない、そう否定しようとしたら、もう一人の男が「カッカッ」と盛大に笑い声を上げた。

「ななしちゃんも罪な女だなねぇ。でもな、坊主。ななしちゃんは頑なに男をつくんねーんだ」

こんなに美人なのによぉ。そう少し呆れながら話す男に、ななしが「二人とも!」と顔を赤らめながら怒ったように口を挟んだ。そんなななしに「あーあ、怒らせちまったじゃねーか」「いやだってお前がよ」などと小競り合いが始まり、ななしはクスッと笑みを零し、炭治郎を見た。

「ごめんね?炭治郎くん。あの二人、いつもああなの。気にしないで。…でも本当久しぶりに会えて嬉しいわ。元気そうで何より。あれから怪我はしてない?あ、ご飯、何にする?」

コロコロと鈴が鳴るような声で話すななしは、あの時と同じで穏やかな笑顔で相変わらず綺麗で、元気そうに見えた。


「じゃあごちそうさん。布巾ここに置いとくよ」
「ななしちゃん、あんまり働きすぎんなよ」
「お二人とも、いつも本当にありがとうございます。なんてお礼をしたらいいやら…」
「礼なんていいっての。そんなものより俺らはななしちゃんの飯が食えればいいんだから」
「そ、せめてこんくらいさせてもらわねーと割に合わねえ」
「お二人とも…」

胸の前でその細い手をきゅっと握ったななしに、男二人は手を振って店を後にした。

「いつもああやって店を手伝ってくれるんですか?」

賑やかな客が帰り、二人だけになったその場には自分の声がやけに響いて、炭治郎は少し控えめに問いかけた。

「そうなの。私、手が悪いでしょう?いつも気にかけてくれていて…」

バレないようにしていたのにね、肩を竦めて笑う顔はどこかバツが悪そうで。きっと彼らがああやって店を手伝うのは手が悪いからという理由だけではないだろう。ななしさんの人柄もあるはずだ。優しくて、強くあろうとする彼女のために何かできたなら、そんなふうに思っているのかもしれない。 今の自分のように。炭治郎は既に気がついていた。

「ななしさん、何かあったんですか?」
「え?」

ななしはその瞳をさらに大きく見開いた。
だってきっといつも通り、料理を作ってお客さんと世間話をして笑っていたはず。ちゃんと仕事は出来ていたはず。もやっと頭の中に浮かぶのは深夜の出来事。違う、あれは夢。朝が来て、今日もまた日常が始まっていつも通りにできているはず。している、はず。なのに、どうしてそんなこと聞くの?早くなる心拍に深く細く息を吐き出し、「どうして?」と首を傾げた。
すると、炭治郎は何とも歯切れの悪い返事を返した。

「俺は人よりも鼻が効くようで、その…ななしさんからは、この前と違う匂いがするんです」

本当はななしと出会った時から知っていた。記憶を無くす直前、感じたんだその匂いを。特に今日は。


「今日は、あなたから悲しい匂いがするんです。泣きたくても泣けないような、そんな匂いが」


大切な何かを忘れようとする、悲しくて切ない匂いが。








二月ばかり前に出会った竈門炭治郎という少年は、不思議な少年だった。炭治郎から紡がれる言葉はなんの隔たりもなく心にストンと入ってくる。きっとそれは彼の嘘偽りのない言葉だからなのかもしれない。今だってそう、いきなり「悲しい匂いがする」と言われてそうですかと首を縦に振る人はいないだろうに、それがすんなりと納得できるのだ。その真っ直ぐな瞳に疑う余地なんてないから。
だけども、今の私にはその瞳は苦しいだけで。もう何年もこうやって一人で消化しようとしてきた。それでも消化しきれないでぐずぐずになった感情がまた心を喰み。結局私は前にも進めず振り返ることもできず、その場で下を向き、足踏みしてばかりで。家族のため妹のため、剣士となり鬼を滅するために命を懸けて突き進む彼の瞳は、何も持ち合わせていない私には眩しすぎて。誰かを守るために生きるその強さは羨ましいと思ってしまうほど。


「…炭治郎くんには、何も隠せそうにないわね」

もうどれだけ必死に蓋を押さえ込んでも、溢れ出してしまった黒くドロドロした感情は私一人ではどうにもできないから。彼に頼ってもいいだろうか。許されるなら、少しだけ。

「炭治郎くん、時間あるかしら?」
「は、はい!!」
「そんなに力まないで頂戴。…私の話、聞いてくれるかしら?」

大した話じゃないだけどね、そう付け加えるけれど、目の前の彼は表情を硬くしたまま頷くのだった。

「でもその前にご飯食べましょうね」
「は、はい…」


あれから軽いのでいいと蕎麦を注文した炭治郎は余程腹が減っていたのか、それともこれから話す内容を気にしてか慌てるように麺を啜り、何度か咽せながら食事を終えた。そして出された温かい茶を啜りながら、準備はできたと言わんばかりにその視線をななしに投げた。

さて、いざ話すとなるとどこから話せばいいのやら。ななしはうーんと手を顎に当て首を傾げた。何せこの類の話は未だかつて誰にも話したことがないのだから。

「…そうねぇ、あれはね、何年も前の話なんだけど…」

鮮明に思い出す、あの記憶。忘れる日なんてなかったけれど、ずっと思い出さないようにしていた。白黒に塗られたあの日々が今、芽吹くように色を取り戻していく。ああ、ついに誰かに話してしまうのか、震える唇をきゅっと結び、深く呼吸をした。




兄弟のいない私は両親と三人家族だった。少し頑固だが家族思いで強く逞しい父に、いつも優しく包み込んでくれる母。貧しくも家族三人、幸せな日々を過ごしていた。
あれは私が12になったとき。秋も終わる頃、虫の鳴き声も聞こえないほど静かな夜だった。目が覚めた私は厠に行くために外に出た。狭い家は三人が生活できる最低限の場所しかなく、厠は家から少し離れたところにあったのだ。夜風は冷たく、冷える手に息を吹きかけ急いで用を足し戻ろうとしたときだった。

「……ッ!?」

目の前に人、いや人ではないなにかがいた。
その口元に母の首を咥えて。
目の前の状況が理解できず、恐怖で身体は震え凍りついたようにその場に立ち竦んだ。暗闇に浮かぶ母の瞳は見開かれて瞬き一つせず、首から下は何も繋がっていないように見える。皮膚の色が分からないのは暗闇だからか、それとも滴る血によるものか。噎せ返るような生臭い臭いと恐怖に内臓を全て出してしまうような勢いでその場に嘔吐した。

どうして?これは何?どうして母さんの体がないの?どうして首、どうしてどうしてどうして


途端、ゴロンと目の前に転がる母の首。


「今日はいい日だな。こんな若い女を喰えるなんて。お前はあの二人の子供かあ。男は筋肉質で肉は硬かったが、女は柔らかくて美味かったなあ」

全身が粟だった。
これは本当に現実なのだろうか。ただ、ビリビリと全身に感じる恐怖と漂う臭いはやけに現実的で。刃のように長く尖った爪が私の喉元に向いた瞬間、ああ、殺されると反射的に目を瞑った。
だけどいつまで経ってもその衝撃はこなくて、うっすらと開いた視界の先には、刀を持つ少年がいた。宍色の髪を靡かせて、彼はこちらも見ずに言った。


「大丈夫か」


彼の向こう側で、頸を切られたその物体は灰のように消えていった。まるで最初から存在しなかったように。母の首だけを残して。

貧しくも幸せな日々を送っていた。だけどそれは長くは続かなかった。
世の中には鬼というものがいるらしい。人を食し、無慈悲に殺める者たちだと、その少年が教えてくれた。そして、失った人はどんなに泣いても悲しんでも戻らない。残された人間はその人たちの分も強く生きなければならないと。

ザッ、ザッ、と納屋にあったクワで少年と二人で穴を掘る。両親の遺体を埋めるためだ。納屋を開けるとそこは埃が舞ってカビ臭くて、小さいクワと大きいクワが二つ並んでいた。早く取って出ようとクワに手を伸ばすと、そこにいるはずのない父と母が振り返ったように見えた。畑仕事を手伝うとき、「ななしはまだ手が小さいからこのクワを使いなさい」と嗜めるように渡された小さいクワ。大きなクワは一回でたくさんの土を耕せて、それを使いこなせる大人にずっと憧れていた。いつか私も母さんや父さんのように立派な大人になるんだと。
まだ夜明け前、冷えた土は固く慣れないクワはやっぱり重たくて、太い肢は握るのも精一杯で。手は痛いはずなのに、それよりもずっと、胸が痛かった。こみ上げる痛みと苦しみを、ぶつけるように土を打つ。


「一緒にくるか」

少年は耕す手を止め、遠く見ながらぽつりと呟いた。

「え…?」
「お前の家はもう住める状態ではない。ここにいてもまた鬼が来るかもしれないし、衣食住もままならなければ野垂れ死ぬだけだろう。俺が住んでいる所には俺たちと年の近い奴も多くいる」

その方が安心だろう。そう笑った少年の顔があまりにも優しくて、温かくて、私は声を出して泣いた。





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