小説 | ナノ


▼ 水のように清らかに




全く、一体どうしてこんなことに。
気を抜くと膝は崩れ落ち、目の前も霞みそうになる。鬼との戦いで負傷した胸の傷がじくじくと痛み、疲労が蓄積した身体では息が続かない。横目で見る仲間も同様に、血相を変え必死に走っている。一人は被り物のせいで表情は読み取れないが、いつもの威勢のいい声は絶え絶えで、彼もまた限界が近いことが分かる。

「待ちなさい!!!そこの三人!止まるんだ!!!」

迫る怒号に焦りが滲む。

(踏ん張れ、踏ん張れ。頑張るんだ。こんなとこで立ち止まるな…!)

だけどこれ以上長く走り続けることは難しい。とにかくどこかに身を隠さないと…そう思ったとき、グワンッと視界が揺れた。「誰か」に思いきり引っ張られる右腕。視界に広がるのは空と自分の足。声を出そうと開いた口はヒュッと息を吸うのが精一杯で、無意識に目の前の二人に手を伸ばした。振り向いた仲間が何かを叫ぶのが見えたが、歪む視界の中で光と音は次第に閉ざされ、俺はそこで意識を失った。

覚えているのは、優しくて少し悲しい匂いだった。





水のように清らかに


「ん……っ」

ビリっと身体に電流のような痛みが走って、思わず顔を歪める。目を開くと視界いっぱいに広がったのは見知らぬ天井だった。

(どこだ…?ここは…)

確か任務の帰り、役所の者に帯刀しているのが見つかってしまい三人共々身を追われていた。あそこは人通りが少ないからと油断していたのが仇になったのだ。そのあとは確か……
見渡すと、6畳くらいの部屋に、背丈の低い(大凡自分の腰くらいの高さだろう)茶箪笥が一つと布団が一枚だけの殺風景な部屋に、警戒心で一瞬身体が強ばったが、すぐに安堵するかのようにふっと力が抜けた。襖の向こうから善逸と伊之助の笑い声が聞こえてきたからだ。二人の声に混じり、もう一人女の人の声がするがここの家主だろうか。そして漂う何やら美味しそうな匂いに、引き寄せられるようにズキズキと痛む身体を無理矢理起こすと、あることに気が付いた。

(これは…)

鬼との戦いで負傷した傷は、呼吸法を使ってある程度止血はしていたから、持っていた布で適当に縛るように巻いただけだった筈なのに、抑えた胸元には真っ新な包帯が綺麗に巻かれていた。

(これは、あの人がやってくれたんだろうか)

お礼を言わなくては、そう思い立ち上がろうとしたとき、目の前の襖が開いた。

「あら、目が覚めました?」


ひょっこりと顔を出したのは、綺麗な女の人だった。纏められた髪は深い漆黒で艶があり、陶器のような肌に大きな瞳を縁取る長い睫毛、孤を描くふっくらとした桃色の唇。まるで、妹たちに読んだことのある御伽話に出てくるようなその風貌に、思わずピシリと身体の動きが止まった。なんて綺麗な人なんだ。

「炭治郎起きたのか!?おま…っ、お前いきなり意識飛ばすからびっくりしたじゃんかよォーー!よかったよーー!」
「お前の分はもうないからな!!お前が気絶してる間に俺が全部食ってやったぜ!!お前の分はもう、ない!!」
「善逸!!伊之助!!お前ら、無事だったんだな…!」

身惚れたのも束の間、その後ろから身を乗り出すように出てきた仲間にふっと笑みが溢れる。べそべそと涙を流す善逸と、空の茶碗をブンブンと振り回す伊之助に、よかった、みんな無事だった。助かったんだ、俺たちは。そう確信し、目の前の女の人に向き直る。お礼をしなければ。

「あの、これはあなたが?」
「あぁ、それね。でもきちんと止血されていたからほとんど血は出ていなかったんだけど…傷が膿むと大変でしょう?だから軽く消毒だけさせてもらったの」
「あ、ありがとうございます!!追われていたのを助けてくれたのも貴女ですよね?本当に助かりました。あ、お前たちもちゃんとお礼を言ったのか?こんなに親切にしてもら……」
「馬鹿ですかお前は!お前がぐーすかぐーすか寝てる間に美人で可愛くて優しい菩薩様みたいなななしさんにお礼なんてデコが擦り切れるくらいやってんだよオォ!この大馬鹿ものが!!!もう俺、ななしさんと結婚するから!お前らみたいな馬鹿とはもうここでお別れだから!」
「うおおおお!お前!誰に口聞いてんだ!!!子分の分際で!!」
「うわっ!!痛い!痛い!!」

胸ぐらを捕まれぐらぐらと前後に揺すられ、頭はぼかすかと叩かれ。いや、俺これでもお前らより傷、深いんだぞ!?騒がしくなる二人に、ななしさんと呼ばれた女性は目を細めてくすくすと笑った。

「賑やかで愉快なお友達ね」
「いやぁ…」

その顔が余りにも綺麗だからか、未だ騒ぐ愉快と言われた仲間にか、頬が熱くなるのを感じた。

「すいませんななしさん!!こいつがいっつも足引っ張りやがって、その度に俺が助けてやって、ほんっと大変なんですよ!オイしっかりやれよな炭治郎!そういうとこだぞ、お前!!」
「ふごッ!!」
「がーーーーッ!!!ななし!!もう飯はないのか!!あのじゅわじゅわ染みてるやつ!!」

じゅわじゅわ?じゅわじゅわって一体なんのことだ。茶碗を振り回し催促する伊之助の言葉に、一瞬キョトンとした後思い出したようにななしさんはまたにこりと笑った。そして、その「じゅわじゅわ染みてるやつ」の名前を少し得意げに教えてくれた。

「あれはね、鮭大根っていうのよ」




ななしさんは誰かに似ている気がする。禰豆子、花子、胡蝶さん、甘露寺さん、自分の周りの女性を思い出してみるが、誰として当てはまらない。この暖かくて優しい匂い、誰だろう。

「炭治郎くん。お腹、空かないかしら?」

そう尋ねられてハッとする。そして、さっきからななしさんにばかり集中していたから忘れていたが、部屋の向こうからは美味しそうな匂いが漂っている。

ぐうー…

身体というのは正直で、ここ数日任務で十分な飯も食っていない身体は、いくら疲れていてもやはり腹は減るようだ。腹の虫の声にすみませんと頭を掻くと、ななしさんは笑顔で手を差し伸べてくれた。

「ご飯、食べようか。…君たちの話も聞かせてほしいの」


これが、俺とななしさんの出会いだった。









部屋から出ると、そこにはカウンターとテーブル席が4つ、控えめだけど一般家庭にあるものより少し広い台所、そしてその足元には大きな鍋や大量の野菜があった。聞くとななしさんはここで店をやっていると教えてくれた。小さいながらも常連さんが多く、お昼はそこそこ混むのだと。

「さ、召し上がれ」

目の前に出された料理に思わずごくりと唾を飲んだ。ほかほかの湯気が立ち、食欲をそそる匂い、綺麗に盛り付けられたそれらは、見ただけでも美味いことが分かる。

「い、いただきます…!」

堪らず箸を取り、ほかほかの米を口に入れる。米の炊き方、魚の火の入れ具合も完璧。そして何より伊之助が言っていたあのじゅわじゅわ染みてる「鮭大根」、それはそれは頬が零れ落ちるという言葉がぴったりなほど絶品だった。任務中は藤の家で食事を摂ることもあるが、いざ外に赴けば主に炊事は自分でやることが多い。
飯を作ることは嫌いではなかった。炭焼きを営んでいたこともあり、火の入れ具合にも詳しい。母が忙しいときは自分が家族に飯を作ることもあったから、今更苦には思わなかった。それに、誰かのために飯を作ることや、それを誰かに食べてもらうことは少しだけ、懐かしい気持ちになるから。
だけども、やっぱりこうして誰かが作る飯というのは一味違ってまたいい。何よりななしさんの飯がすごく美味いんだ。どれも一般家庭で出てきそうなものだったが、どこか懐かしい味がする。伊之助は「藤の家のババアのがうめえ!」と言いながらも一口食べる毎にほわほわしているし、善逸は「帰ってきてこんな奥さんが待っててくれたら最高なのに」と泣きながら目の前の料理を平らげていく。時々横取りしようとする伊之助と喧嘩しながらも箸を止めなかった。とにかく、本当に美味い。

「ごちそうさまでした!すっごく美味しかったです!!」

米一粒残さず平らげ、茶碗をことりとテーブルの上に置いた。

「ふふ、みんな本当よく食べるわね。もうお釜の中、空っぽになっちゃった」
「す、すみません」

業務用だろうか、大きな釜に半分程残っていた白米が、いつの間にか空っぽになっていて思わず肩を竦めた。果たして一人、茶碗に何杯食べたのだろうか。特に大食いというわけではないけれど、いつもの倍以上は食べた気がする。少しきつくなった腹回りが「食べ過ぎだ」と言っているようだ。
先に食べ終えた善逸と伊之助はおかずの取り合いの末、ななしさんに「騒ぐのは店の外でお願いね」と言われ、大人しく席に着こうとした善逸を伊之助が許すわけもなく。結局二人は今、店の外でその続きを繰り広げている。

「もうお昼の時間は終わりだから、お店も閉める予定だったし全部食べてくれて助かったわ。残ってしまうの勿体無いもの」

にこりと笑うななしさんが、「お茶、入れるね」と茶箱にそっと手を伸ばした時、あることに気がついた。どうやら俺は、目の前の飯を食べることに随分と集中していたようだ。だからといって、茶箱を持つ手を取ったのは無意識だった。

「ななしさん、手が悪いんですか」

一瞬目を見開いて驚いた表情をした後、ななしさんは困ったように笑って、どうして?と首を傾げた。

「左の指先や手首の動きが右に比べると硬い気がします。肘から下も動きがぎこちない。すみません…飯に夢中で気がつくのが遅れました。手が悪いのに、色々と無理をさせてしまってすみません!」
「…流石ね、炭治郎くん。その通りよ。実はね、昔少し手を病めてしまって。でも生活を送る分には支障ないの。だからこうしてお店も一人でやっているの。三人分のご飯作るのなんて、朝飯前よ」

俺たちを助けてくれたその腕は、見た目以上に細くて、少し力を入れただけで折れてしまいそうで。なのに目の前で笑うななしさんはそんな弱さすら感じさせなかった。伸びた背筋やその表情は、何故か逞しいと思えてしまうほど。
ほらほら、外の二人もお茶淹れたわよ。未だ外で騒いでいた善逸と伊之助は、その一声にすぐさま店の中に戻ってきた。

「おま…ッ!!炭治郎!!!なにななしさんの手、気安く触ってんだ!!俺だって触りたいんだぞ!この馬鹿!!」

善逸の言葉にハッとして、掴んだままだった手を慌てて離した。

「痛い!痛い善逸…っ!やめろ…!すみません、ななしさん…つい」
「つい、じゃねえだろがああ!俺だって触りたいって言ってんだよ!どんな感触だった!ねぇどんな感触だった?!キィィィーッ!!」
「おい、ななし!!早く茶を寄越せ!飲んでやる!!」
「あらあら、もう…」

口元を抑えてななしさんは楽しそうに笑いながら、そっと茶箱の蓋を開けた。ゆっくりと、そのぎこちない左手で。触れた感触を思い出して、熱くなった頬を隠すように慌てて茶を口に含んだら、思ったより熱くて咽せた。



「そういえば、ななしさんはどうして俺たちを助けてくれたんですか?」

ズズっと茶を啜りながらずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。番茶だろうか。香ばしい匂いが鼻を抜け、胃にゆっくり温かいものが沈んでいく。
善逸曰く、店の中に引っ張られた後、ななしさんは床下にある物置に手早く俺たちを押し込み、駆けつけた役所の人間に「ここには来ていない。向こうの角を曲がって逃げて行った」と上手く撒いたそうだ。役所の人たちから追われる人間を匿うなんて、下手したらななしさんだって同罪になるかもしれないのに。どうしてそんな危険を犯してまで俺たちを助けてくれたのか、純粋に気になったのだ。

「あなたたちのその服、鬼殺隊でしょう?」
「………ッ!!鬼殺隊を知っているんですか?」

どうしてその名前を?政府公認の組織ではない鬼殺隊を知っている人は少ないのに。

「ええ、知ってるもなにも…」

ななしさんはそう言いかけて、少し考えた後こう答えた。

「私の古い友人も鬼殺隊にいたの」

どこか遠くを見つめるように紡がれた言葉。その長いまつ毛が、頬に影を作る。その言葉の意味を物語るようにゆっくりと。「いた」、つまりそれは今は「いない」。「いない」……鬼殺隊だった友人、もう今はいない、そんな単語が頭の中にぼんやりと浮かんで、ぐっと唇を噛んだ。そうか、きっとななしさんにもいろいろ辛いことがあったんだ。だから俺たちを…

「鬼殺隊がいるから私たちが安心して生活を送れているのよ。命を懸けて闘うあなたたちには本当に感謝してもしきれない。だから、あなたたちが困っているときに助けるのは当然のことなの」
「ななしさん…」
「私にはもう、そんなことしか出来ないから…」

ななしさんはそう眉を下げて笑いながら、再び茶箱に手を伸ばした。もう?もう、とはどういうことなのか。手を怪我しているから、あまり力を使うようなことはできない、ということなのか。

「あの、もうって…」
「ななしさん!そんなことなんて言わないでください!あなたには命を助けてもらったんだ、この責任は俺がとりますから!この我妻善逸が!頼みます、もうあなたしかいないんです俺と結婚してください!!頼みます!好きなんです!!」
「ワハハハハ!!そうだ!俺様はすごいんだぞ!崇めろ!讃えろ!俺様がこの世界の王者だ!!」
「ちょっ、お前ら痛い、痛い…!善逸、お前はもうやめろ!ななしさんが困ってるだろう!」
「お前!炭治郎、また俺の邪魔するつもりか!?いつもいつもいいとこで邪魔しやがって、お前何なの!?これで俺が結婚できなかったらどうしてくれんの!?こんな素敵な人ともう二度と会えかもしれないんだぞ!?」
「いだだだだだだ!!悪い…、いや俺は悪くない!やめろ善逸…!!」

善逸にガクガクと頭を揺さぶられ、頭の中にあった疑問はいつの間にか消えていて、揺れる視界にクスクスと口元を抑えて笑うななしさんと、二杯目になる茶をほわほわしながら飲む伊之助を見るのが精一杯だった。

それからななしさんといろいろ話をした。自分たちのこと、ななしさんのこと。
ななしさんは元々料理をするのが好きだったらしく、数年前からここで店を営んでいるらしい。兄妹はおらず、両親は鬼に殺されたと教えてくれた。そして、大切な友人も殺されてしまったということも。その大切な友人というのは、さっき言っていた鬼殺隊にいた友人のことだろうか。ななしさんはその話についてそれ以上は話さなかったし、俺たちもそれ以上聞いてはいけない気がして、何も聞かなかった。
他にもたくさん話をした。最近あった面白いことや鬼殺隊で人気の茶屋がこの近くにあって、たまにそこにも来ていたこと、それらをななしさんはうんうんと楽しそうに聞いてくれた。
驚いたのはななしさんがあまり外に出ないということ。食材や必要なものは常連客に卸業者がいるらしく、荷物も多いからといつも届けてくれるらしい。他にはどこか遊びに行ったり散歩をしたりしないのかと聞くと、「あんまり行かないなぁ」と困ったように笑った。店が忙しいのかあまり外には出ないらしい。ななしさんの陶器のような肌を見れば、なんとなく納得できた。

楽しい時間というのはあっという間で、気づいた頃には日が傾き始めていた。最後に、助けてもらったお礼だと言って俺達は使った皿を洗ったり台所を綺麗にさせてもらった。(と言ってももともと丁寧に掃除がされており、ほとんど汚れなんてなかったのだけれど)

「ななしさん、決してこのお礼は決して忘れません」
「いいえ、大したことはしていないわ。私こそ、久しぶりにこんなにたくさん笑ったわ。楽しかった、ありがとう」
「…!また、来てもいいですか?」
「ええ勿論よ。善逸くんも伊之助くんもいつでもおいでね」
「うっ、うっ…ずびっ、ななしざん…っ」
「お前が来いって言うなら仕方がねえ!お、俺は別にまた来たいとか思ってないからな!別にまたあのじゅわじゅわのやつ食べたいとか、思ってないからな…!」

そうして俺たちは名残惜しくもななしさんの店を後にした。結婚したいと騒ぐ善逸を引っ剥がすのは本当に大変だったのを覚えている。伊之助はそれからなにも話さなかった。ただ少しだけ威勢のない声を聞く限り、何だかんだななしさんと離れがたかったのかもしれない。それは俺もだ。ななしさんはまた会いたくなる、そんな人だった。







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