小説 | ナノ


▼ これからの未来を考えれば、何ら問題なかった




窓から見える空は、まだ夕刻には早い時間だというのに、染料を溢したような茜色に染まっていた。下校する生徒たちの楽しそうな声や部活に励む生徒たちの伸びのある声が一人ぼっちの教室にやたらと鮮明に流れてきて、そんな外の景色をななしは窓際の自分の席に座りただぼんやりと眺めていた。
ふと、校舎から出てくる男女の姿が目に入った。女の子の方は確か2年生だったか、何度か委員会で話した記憶がある。真っ直ぐな黒髪に控えめな話し方は真面目そうないい子、そんな印象を与えた。男の子の方は見たことがないから、きっと彼女の同級生か1年生か。
二人の間を見ると繋がれた手が見えた。特別仲がいいわけじゃないから、あの子が誰が好きとか、彼氏がいるとか、そんなことは知らないけれど。頬を桃色に染めて笑うその子はいつもの控えめなイメージよりずっと可愛く見えて、ペンを握る指に力が篭った。

「いいなあ…」

思わず出てしまった本音は静寂にのみ込まれて、ここには自分しかいないからどうでもいいやとペンを放り投げ、大きな声で溜息を吐いて机に突っ伏した。
なんだっていい。ヨソはヨソ、ウチはウチとはよく言ったもんだ。分かっているのに黒い感情がモヤモヤと胸の中を渦巻いて、もう一度「あー…、もういいから」と嘆いた。

「何がいいんだ?」
「何ってだから……って、え!?」

突如聞こえてきた声にガバリと上半身を起こすと、そこには体育教師の錆兎先生がいた。
どれだけぼんやりしていたのか、彼が入ってきたことに全く気がつかなかった。
否、そんなことより…

「で、何がもういいって」

よりにもよって一番聞かれたくない人に聞かれてしまったなんて。

「…別に何もないよ」
「ほお、あんなにデカい溜息吐いといて?」
「…一体いつから盗み聞きしてたのよ」
「外眺めてたぐらいから」

それって最初っからじゃん。目の前の椅子に後ろ向きで腰を降ろして頬杖をつく先生になら声かけてよと視線を送るけど、意地の悪い顔を浮かべるだけで。そんな顔ですらかっこよくてドキドキしてしまうのが悔しくて、ふいっと窓の外に視線をずらした。

そう、この錆兎先生こそがこのモヤモヤの元凶なのだ。(まあ、先生がどうこうっていうわけではないんだけど)
錆兎先生は私が1年生のときからこの学校に体育教師として勤めている先生で、その容姿や男らしい性格で女子生徒に人気がある。そんな私も実は1年生のときから錆兎先生に想いを寄せていて、そしてそれはもう抑えることができずついに告げることを決心したのだ。
意を決して伝えた想いに真面目で堅気な先生が応えてくれることなんてなくて、それでも諦めきれなかった私は今年の夏に4度目となる告白をしたのだった。
きっとまた断れるだろうと玉崩し覚悟で告げた想いは「約束を守れるなら」と案外あっさりと受け入れてもらい、晴れて私たちは恋人という関係になった。その約束というのは「外では絶対に会わないこと」「付き合ってることを誰にも言わないこと」などいろいろ。そして、「卒業するまでキスもそれ以上もしないこと」だった。そんなこと、3年も想い続けていた私にとっては全然平気なことだったし、生徒と先生という立場上仕方がないことだと思って、なんら問題ないと二言返事で頷いた。
あれから4ヶ月。あの健気な私はいったいどこにいってしまったのか。下校口にはもうあの二人はいないのに、幸せそうに笑う女の子が頭の中にこびりついて離れなくて、モヤモヤし始めた胸の内を誤魔化すように本日二度目の溜息を吐いた。

「不死川がななしから貰うプリントが来ないって嘆いてたぞ」
「…げえ、忘れてた」

そうだった。今日は日直だから集めた数学のプリントを放課後になったら不死川先生に渡すことになっていたんだった。きっともう約束していた時間なんて当に過ぎている。黒板の上にある時計を見たいのに、未だに先生がじいっとこっちを見ているせいで振り向けないし、余計に心臓の音が大きくなっていく。今振り向いたら、この空の色のように染まっているだろう私の顔を見て、切れ長の目を少し細めていつものように笑ってくれるだろうか。
額に青筋を浮かべる不死川先生が脳裏に浮かんだけれど、もういいや。

「……そんなに見ないでよ」
「なんだ、悪いか?」
「ううん、先生」
「ん?」
「好き」
「……お前なあ」
「なんで、ダメだった?」
「いや、そういうことはここで言うな」
「先生だって頬っぺた触ってるじゃん」

ゆっくり振り向くと、やっぱり先生は少し目を細めて笑ってくれた。その頬が赤いのは、この空のせいなのか考える余裕なんて私にはなかった。
真面目な先生が首を縦に振ってくれるなんて思ってなかった私はもうそれだけで嬉しくて嬉しくて、それはもう私が世界で一番幸せ者なんじゃないかって思うほど。週末は予定が合えば先生の家に行って一緒にご飯を食べたり、ソファでのんびり過ごしたりもする。いつも真っ直ぐに伸ばされてる背中は少しだけ丸まって、Tシャツに浮かび上がる背骨はゴツゴツと男の人のそれで、寝顔は少し幼くて…、その姿を知っているのはここでは私だけなんだって思うと言いようのない感情に満たされるの。今頬を撫でるこの指は優しく私に触れて、私を見つめる瞳は胸の中をかき乱すくらい優しい。
知ってる、大切にされてるってこれでもかって程伝わってくるもん。これ以上ないくらいに満たされている筈なのに。

私たちは「生徒と先生」であって、それは世間一般的には許されない関係で。「もしものこと」があった場合どちらも立場が危うくなってしまう。その意味を私よりずっと大人な先生は、私以上に知っている。それでもこの気持ちに応えてくれたなんて、本当に幸せなことなのに。

「先生、私ね。分かってるんだけど、時々周りのみんなが羨ましいなって思っちゃうの」

頬を撫でる先生の指先と自分の指先を絡めると、そこから心臓の音が伝わってしまうんじゃないかってくらい、私の指先は脈打つように熱い。

「付き合う前に約束したのにさ。先生と一緒にいれるだけで幸せなのに、どうしてかな。もっといろんなことしたいって思うの。触れて欲しいって、触れたいって」

おかしいよね、そう呟いて指先に唇を寄せた。カサカサで自分の指よりずっと太い指先から僅かに香る先生の匂いに、恋しい気持ちは溢れてくるばかりで苦しくて仕方がない。ああだめだ、泣いたら困らせてしまう、そう思うのにやり場の無い気持ちは涙として溢れ出てきてしまった。このままじゃダメだ、

「ごめん、先生。不死川先生のところに…」

涙がバレないように慌てて立ち上がってその場から逃げようとしたのに。それは、一瞬だった。唇に温かい感触が触れたのは。驚いて目の前の人を見上げると、先生は吸い込まれそうなくらい真っ直ぐな瞳をしていた。
いつもより近い距離に、抱きしめられる腕に、心臓が耳の近くで鳴っているんじゃないかってくらい大きな音を立てる。
だって、今…

「いいか、ななし。俺はお前のこと以外考えられないくらいお前のことが好きだ」
「せ、んせい…」
「お互いの立場上、ななしには我慢させてしまって申し訳ないと思っている。だけど我慢しているのは自分だけと思うな」

ぎゅっと抱きしめられて、先生の心臓の音が身体に伝わってくる。ああ、自分だけじゃない。先生もこんなにドキドキしてるんだ。おずおずとその背中に腕を回すと、少しだけその身体がびくりと跳ねた。

「それに、好きな女を泣かせるのは男として許せない」
「先生…」
「が、俺も男だ。すまないが、これ以上は歯止めが効かなくなって、最初に言っていた決め事を自分から破ることになりかねない」

「もう、破ってしまったが…」そう呟くように先生は科白を吐いた。普段の先生からは想像できないほど弱々しい声に顔を上げると、そこには顔を真っ赤にして少し苦しそうに息を吐く先生がいて、初めて見るその顔に何だか恥ずかしくなってまた顔を埋めた。
だって、知らないよ。こんな先生の顔。

「えっと、いや…先生も、男の人なんだね」
「な…ッ!当たり前だろうが…ッ!」
「だって先生いっつも平気な顔してるから、そういうのあんまり興味ないのかと…」
「…ほお?聞き捨てならないな。今、なんて言った。ななし、もう一度言ってみろ」
「あ、いや、よく分かったから。もう大丈…」

大丈夫、そう言い切る前に再び唇が塞がれて、さっきよりも長く、確かに私たちはキスをした。
先生の伏せられた長い睫毛や整った顔が視界いっぱいに広がって、あ、ダメだ。「目くらいこういうときは閉じろ」って小言を言いながら拭ってくれる指先や困ったように眉を下げて笑うその顔があまりにも優しく愛しくて、ぼろぼろと涙は堰を切ったように流れ落ちた。

「あと4ヶ月だ。もう少しの辛抱だ」
「うん…先生、私頑張る」
「そしたらさっきの言葉は撤回させてやらないとな」
「………先生のえっち」
「な…ッ!え、えっちって…!」

顔を赤くして慌てふためく先生なんて初めて見る。何だか今日はいろんな先生の表情が見れたきがする。そしてきっとこれからも…
と、幸せに浸っていると、あることを思い出した。

「ああ!!!不死川先生…!」
「あ…っ、おい!」

やばい、すっかり忘れてた!早く行かないと命が危ない。慌てて先生の腕から抜け出し、鞄と教卓の上に置いていたプリントを掴んだ。
私はまだまだ死ぬわけにいかないから。だってこれからもっと先生のことを知って、もっといろんな表情を見て、もっともっと、

そのまま勢い良く扉を開けた後、先生を振り返った。

「ありがとう。大好きだよ、錆兎」


きっとこれからもまた不安に思ったり悩んだりすることもあるかもしれない。だけど簡単だった、だってこれから先のことを考えればいいだけのこと。これからのことを、きっとその横には彼、錆兎がそばにいてくれる。大丈夫。
胸の内にあったモヤモヤはすっかり姿を消していて、目に入るもの全てが眩しく感じる中、不死川先生のもとへと急いだ。





「………クソッ」

顔を赤らめその場に蹲った錆兎がななしを探しにきた不死川に発見されるのはもう少しあとの話。





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