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棚には巻かれた生地が積み重なっている。
道すがら生地屋の女主人がヂュデーア教徒と聞いて店を訪ねると、先程の事件で助けに入ったことが早速広まっているのか、奥に通されるなり丁重なもてなしが待っていた。
飲み食いするつもりはないことを伝えるとあからさまに肩を落としてしまったものの、ここは防護マスクを外して談笑できるほど安心できる地ではない。
「恩を感じてくれているってんなら、少し質問をさせてくれないか」
「喜んで! 私にわかることでしたら何でもお答えします」
「ありがとう。……早速だが、
D2という名に聞き覚えはあるか?」
「はい、合成ドラッグ……でしたっけ。幸せな気分になれると話しているのを聞いたことがあります」
女はこくりと頷いた。
信仰が盛んになる一方で信仰心を手放す者も決して少なくはない、衰退を辿る町……合成麻薬との相性は最悪だ。
NGLからと仮定するとして、そのおありがたいクスリはどうやって入ってきた?
この島は、最西にNGL自治国、そこからロカリオ共和国、ハス共和国、西ゴルトー共和国と続き、最東に東ゴルトー共和国となっている。
空路はNGLの
自然を愛するお国柄厳しそうだ。それなりの施設が必要になる上、普通に目立つしな。
陸路は島の広さだけ見れば問題なくいけるだろうが……東ゴルトーだけがミテネ連邦に属していないことや、西ゴルトーとの関係の悪化、そして品が品だけに国境を避けたがることを考えれば、それも選びたくない輸送手段のはずだ。
「……航路だな。――お前もそう思うか?」
考えているうちに脚の上に乗ってきていた縦縞模様の毛玉がミャウと呑気に返事をした。
長距離を運ぶわけでもないから、大きな船を用意する必要もない。
「……待て、猫だって?」
輸送手段の推測を立て終わったことで空室ができた脳に、流しかけていた目の前の光景が新たな疑問として入室する。
ヂュデーア教徒が猫を飼うなど、聞いたことがない。
「猫はヂュデーアの民にとって不浄な動物じゃないのか?」
「どうしてそう思うのです?」
「四つ足で、足の裏の膨らみで歩く生き物は汚れているとレビ記に書かれていたぞ」
「ええ、その通りです。ですから食べはしませんよ」
膝上で置物面する縦縞模様を両手で持ち上げ、床に放す。
体温が恋しいのか足首に身を寄せてきて、何かの拍子に踏んでしまわないか内心ひやりとしながら女の話を耳に入れた。
「ヂュデーア教徒は昔から猫を愛してきました。私たちの信仰を尊重し、寄り添ってくださった貴方ならタルムードをご存知のことでしょう」
「ヂュデーア教徒が口伝で後世に遺してきた律法や学者たちの議論を書き留めたものだろ? ヂュデーア教徒にとって旧約聖書に次ぐ聖典だと聞いている」
タルムードとはもともと教訓の意を持つ単語だ。
『最も大切な事は、学習ではなく実行である』、『すべて金で買うことができるが、知性は買うことができない』、『我が子に仕事を教えない者は、盗みを教える結果となる』――ヂュデーアの格言だと知らないうちに耳にしていた言葉を、誰しも一つは見つけられるだろう。
「ヂュデーアの精神とも言えるそのタルムードに、猫からは謙虚さを学ぶことができる、とあるのです。この町の多くのヂュデーア教徒は猫を飼っているのではないでしょうか」
「そうだったのか……」
――まさかお前が謙虚さを指導してくれていたとはなあ。
人の足を踏みつけ、ふてぶてしく眠る猫を見下ろして小さく笑う。
魔女狩りだなんだと言うくらいだから、ヂュデーア教徒でない者たちは猫など飼っていないだろう。
「教えてくれてありがとな、助かったぜ」
「もう行かれるのですか?」
謙虚さを教えてもらった気はまるでしていないものの、最後のピースをはめてくれた猫の腹の下からそうっと足先を抜いて立ち上がる。
「ああ。知りたいことは全部知れたからな。あとは約束した物資の供給をして……夜中にはここを発つさ」
「そうですか……。やはり二、三の教えたくらいではお礼が不十分ではないでしょうか。小さな生地屋を営んでいる以外に何もありませんが、ここにある物でしたら何でも差し上げます」
女はそう言うと、芯に巻かれて筒状になった生地が山積みされた壁の棚を指した。「そう言われてもな……」顎に手を当てて、どう答えるべきか考える。
仕立てたい服などないし、善意のところ申し訳ないとは思うがこの国で得た物を国外に持ち出すつもりはない。今着ている服だって、着替えたらすぐに消してしまう予定だ。
そこまで考えたところで、ふと一つの非人道的な案が浮かんだ。
「そういや、ここに来る前に訪ねた家の奴が言っていたよ。地上は悪魔の
巣窟で、神も
救世主も降りてこねぇってな」
「そうですか……」
「『
Hell is empty』なんて言葉を聞くのは、戯曲だけで十分だよなぁ……」
生まれてから今に至るまでずっと人を悲しませる側に立ってきたし、それを深く後悔できるような人間性もきっと母の腹の中に置いてきたのだろうと思う。
それでも、いざ目の前で嘆かれてしまうと衝撃のようなものを感じずにはいられなかったのが正直なところだ。
……情に訴えかけてくるようなものはどうにも苦手だな。
内心ではどうでもいいと感じても、実際にどうでもいいと薙ぎ払ってしまったら軽蔑されるのではないかというような怖さがある。必要以上に感情が揺さぶられるのは好むところではない。
戯曲だけで十分だと言いつつも、地上に悪魔を呼ぶような案を実行すべくジャケット一着を仕立てられるだけの布を要求すると、眼前の男がこれから何をしようとしているのか知らない女は手際よく布を裁ち始めた。
「神が地上に住んでいたなら、人間は神の家を壊しているでしょう」
「……ん?」
「ふふ、ヂュデーアに伝わっている言葉の一つです」
「そいつはまあ……なんというか」
随分な皮肉じゃねぇか。
聖典がなんだ信仰がなんだと話しつつも、信心など持っていない身としては宗教の話にはどうもピンと来たためしがない。
しかし女の言ったそれはほかの何より信心ありきの言葉にも
拘わらず信心からは酷くかけ離れているような気がして、まるで自分が信仰を持ったかのように不安定な気持ちにさせられた。
「あ、梱包はしなくていい。すぐに仕立て屋に持っていく予定だ」
「わかりました。ではこちらをどうぞ」
平折りされた布を直接受け取る。最後に礼を言って店を出れば、いつの間にかぽつぽつと雨が降っていた。
帽子を被ってこなかったせいで、髪が少しずつ水気を含んでいく。
小脇に抱えた布も同様に湿って色を一層濃くしていくが、ジャケットを仕立てるつもりなど全くないから問題はない。
雨のせいか人っ子一人いなくなった道は、真ん中に立ち止まるも自由だ。屋根を打つしずくと、電話のコールだけが町の音だった。
「至急、東ゴルトー共和国に医者と専門家を集めてくれ」
コール音がぷつりと切れ、繋がった電話の向こうに挨拶するでもなく指示を出す。
路地奥に目を向けると、そこにもやはりネズミの死体が転がっていた。
「国民を殺しているのは毒リンゴなんかじゃない。――感染症だ」
(P.50)