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――呪い。
その二文字が頭によぎる。
グリムヒルデの呪いと呼ばれたそれは、その実、本当に呪いによるものか、あるいは念能力によるものか、未知の生命体によるものか、毒や病によるものか、はたまた全く別の脅威かも、その危険さゆえに手が出せず特定できていなかった。
だから俺が調査のためにこの町に来た。
ある程度の推測は立っている。これは呪いではない。
その推測も、幸運なことに早くも根拠が集まってきている。覆ることはそうないことだろう……。
そう思っていた自身ですら、小さな木のベッドの上で苦しむ少女の異様な姿を見て、胸にあった推測とは遠い感想を抱いた。
墓場で見た死体よりも随分と酷い。
「お願いします、娘を助けてください、お願いします……!」
父親であろう
痩けた男の声で、はっと意識を戻す。
濁った歯で加減の知らない歯軋りを繰り返している男に向かって一度微笑むと、急いで防護マスクを具現化して装着させた。
ニトリルゴム製の手袋を着けた手で触れた少女の指先は酷く熱を持っており、それでいて炭のように真っ黒く変色していた。
毛布を
捲ると、服の上からでも同じような箇所がいくつか見られる。
多少黒ずみの色が薄いところを観察して、ようやくそれが皮下出血が悪化したものだとわかった。すっかり炭と化している手足の先は
壊疽によるものだ。
「……俺は調査に来たハンターだ。原因を特定し、治すための手掛かりを見つけるためにここにいる。医者じゃない。エクソシストでもない」
蝕まれたら数日のうちに死ぬと聞いている。
原因を特定したとしても、この子は治す方法を確立するまでにはまず間に合わない。
「そ、そんな……。お願いします、何でもしますからどうか――」
「助けられるならとっくにそうしてるさ!
壊疽した手足を切り落とすくらいはできるが、本当にそこまでだ。切り落としたって、それで治るわけでもない」
第一、この衛生環境ではむしろ死を早めかねない。
持ち込んだアブサンを開栓して、食器棚に並んでいたスキットルに一口分ほどの量を注ぐ。
「黒い手足の娘を埋めたいか、手足
と娘を埋めたいか……それを考えるんだな」
非道いことを言っている自覚はある。しかし、この状況でわずかでも無責任な優しさをちらつかせることのほうが
躊躇われた。
短い絶望の悲鳴を上げて崩れ落ちる音を聞きながら、右手からスキットルへとオーラを注ぐ。
緋の眼発現中は特質系に変わるというクルタ族の特性によって現在は特質系だが、能力からするに俺はきっと元々は具現化系か、具現化系寄りの特質系念能力者なのだと思う。
だが、念能力というのは自身の系統しか扱えないわけではない。
もちろん精度やエネルギー効率は落ちるし、
六性図で自身の系統から遠い位置に記された系統のオーラを制御することはまず勧められない。
例外はある。簡単に言うなれば“その他”――特質系だ。
後天的に特質系に変わった念能力者が具現化系と操作系が多い傾向にあったために
六性図では隣り合っており、実際特質系の念能力者は具現化系・操作系要素混じりの能力を持つことが多い印象だが、その“その他”な性質のためか具現化系と操作系の念能力者でも特質系のオーラを扱うことはできないとされている。
反対に、特質系の念能力者にとってはほか五系統をどれだけ扱えるかは個人差が激しい。
俺は具現化系と操作系のオーラはそこそこ使える部類で、変化系は可もなく不可もなく。しかし強化系と放出系は全く実用的ではなかった。
これは
六性図の関係から大きく外れてはいない。
しかし、正反対にある強化系のオーラを自系統のように上手く使うかと思いきや、それ以外の四系統はてんで駄目な特質系念能力者もいる。
閑話休題、この作業にはごく慎重になる必要があった。
「しんど……」
スキットルに込めているのは不得手な強化系のオーラだ。
液体にオーラを注ぐ行為で有名なのは水見式と呼ばれる念能力系統判別法だが、有名というよりもむしろそのくらいでしか液体にオーラを注ぐハンターはいなさそうだ。
しかし判別の際の現象は、ある意味“第二の念能力”とも言えるのではないかと俺は思う。
強化系のオーラによって
溢れるまでに増えたアブサン入りのスキットルを男に手渡すと、視線だけで疑問をぶつけてきた。
「七十パーのアブサンだ。消毒液として使うにはもってこいだろ。砂糖無しじゃ青苦さで好みも分かれるだろうが、飲みたきゃ飲んでもいい。上手くやりゃ嫌なことや痛みを忘れられるかもしれないぜ。今後は教会に大量に置いておくから、水もアブサンも防護マスクも惜しまず使え」
俺が言うなり、男は防護マスクを脱ぎ捨てるとスキットルの小さな飲み口を咥えて天井へと勢いよく顔を向けた。
「おい、馬鹿! そんな風に飲んだら……」
「〜〜〜〜ッ……!」
「七十パーっつっただろ……四十そこらのウイスキーとは違うんだぞ……」
今頃、男の喉は酷くひりついているに違いない。
胃から気化したアルコールのせいでまともに呼吸もできていない様子の男の背を
擦っていると、苦しげな呼吸は次第に水っぽい
啜り泣きへと変わっていった。
「ハンターさん……貴方がこの町、この国のために働き、呪いを終わらせようとしてくださっているのはわかっています……」
「…………」
「あなたの勇気ある調査によって、この先呪われていく者たちが呪いから解放されるようになるかもしれません。あるいは呪いそのものが無くなるかもしれません……」
「…………」
「ですが! 娘は……娘は、運悪く
今呪われているばっかりに! 助かる道があるかもしれない呪いによって……黒く……死んでゆくのです」
「…………」
「とうに地上は悪魔の
巣窟です。しかし神も
救世主も地上にはお降りになりません」
薄汚れた床に広がっていく男の涙に指先を置く。
特質系のオーラを少しばかり流し入れると、そこからごく小さな葉が発芽した。
「まだこの地は死んではいないぞ」
「…………!」
薄く笑い、男を立ち上がらせて椅子へと誘導する。
あまり酒には強くないのか、覚束ない足取りで腰掛けた男はテーブルに突っ伏すとすぐに寝息を立てた。
「……この地が死んでようが芽は出るんだがな」
善意の方便ということにしておいてもらおう。
男が飲んでしまった分のアブサンをオーラで補充し、自身が持ってきていたボトルを回収する。
静かになった部屋で一人、目についた戸棚を漁る。目当ての代物――錠剤型の合成麻薬
D2――はあっさりと見つかった。
男の、加減を知らない歯軋りを見てもしやとは考えていたが、間違っていなかったらしい。
バーでもそれらしきものを売り買いしているのを見た。近年やたらと流行っている。
ネオグリーンライフ自治国――通称NGLで国ぐるみで密造しているらしいと風の噂で聞いたことはあるが、摘発しようなどとは考えていない。そんな面倒なことに誰が首突っ込むか。
見つけたその合成麻薬はポケットにしまうわけでもなく、元の位置に戻した。今後はアブサンで満足してくれるといいんだがな。
「……ま、難しいか」
明るい未来など見えない親子を尻目に、ヂュデーア教徒を訪ねるべく家を去った。
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