十一時を過ぎた頃にセレスタは帰った。なにを話すでもなく、不意に鞄を持って立ち上がり、恐らく『おやすみ』をサイレントで言い残し、風のように去っていった。去り際に手を振ってくれた、それが少し嬉しかった。ドアを閉じる音が終わると、僕ひとり取り残されたこの家が急に静まり返るのを感じた。雨が降っている。それ以外、何もない。静寂以上の無音だった。でもほんの少し前までは、四年以上も無人の静寂だった筈だ。ここにははじめから誰もいない。
 何かをしようとソファを立って、波音のうるささに驚いた。聴いているうちに何をしようとしたのか忘れた。『水の生物』とスカシカシパンを書斎のもと居た場所に返した。本棚は密集し『水の生物』の隙間がなかった。適当な場所に無理に押し込んだ。彼女はどこから取り出したんだろう。訊いておけばよかった。

 シャワーを浴びようと思った。
 毎晩ネクタイをゆるめるこの瞬間に、一日の終わりを理解する。ため息を吐く。
 蛇口をひねると水があたたかい。心地よかった。入浴は好きだった。ただシャワーの音が静寂を満たした。
 僕はやはりセレスタを思い出していた。今夜のことと夕方の声と今までのことを考えていた。はじめて会った日より前を考えた。ずっと階下に住んでいたのに互いに何も認識し合わなかった。例えば、一度でも互いに互いを認めていたら現在の僕達は変わっただろうか。彼女はいつからそこに居たのだろう。そしていつまでここに居るのだろう。
 そのあとは塔子さんについてを考えた。井下田君の言う通り近況報告をするべきか、その文面を想像して見たが、きっと書き出しに沈黙してしまう。書きようが無い。書き出すことに耐え得る程の秩序と知識を持ち合わせていない。一切がなりゆきのままに流れ、僕も流れた。時間が流れた。出来事はいくつかあったのだろうけど日記を付けない僕には思い出せない。ただ、セレスタのノートの中にある。
 これらを伝えようとすることは夢を記録することに近いのかもしれない。必ずどこかに不整合が在る。順序を思い出すそばからディテールを忘れていく。全く知らない誰かにこれを伝えたとして、すべてが僕の立ち会った通りにきれいに伝わる筈が無い。伝えたところで、意味も無い。あるいは僕が誰かの不整合な夢なのかもしれないし、僕だって夢を見ているのかもしれない。しかしその空想も無意味だと思って、考えるのを止めた。

 無意味だ。
 この家に居ることも同じ服を着ることも視界のことも収集することも。

 僕が。

 ……。

 シャワーを止めた。水滴が落ちた。
 井下田君が思うよりもずっと前から既に“やつれて駄目に”なっている気がする。基礎からぐらついていたものが駄目にならない訳が無い。たまたま倒れていないだけだ。塔子さんは斜塔を支えるワイヤーだったのかもしれない。

 こうやって考えることにも意味は無い。

 吐く予兆を感じたが吐かなかった。

 身体が冷えてきたからタオルで拭いた。寝間用のシャツを着た。案の定くしゃみが出た。もう一度温まろうとお茶を淹れた。二度手間である。寝る前のカフェインは身体に悪いのだろうけど、お湯をお湯のまま飲む気にはなれないから仕方が無い。沸騰を待つ間にもう一度くしゃみした。もう一枚を上に羽織った。

 ドアベルが鳴った。

 こんな夜間に、と不審に思った。または、ザムザだろうと思った。覗きの向こうに居たのは見える人間だった。顔を伏せていたが茶髪で気が付いた。戸を開けて名前を呼んだ。

「セレスタさん」

 顔を上げた彼女の目は青色では無かった。にぶく平凡な褐色だった。そのせいか表情の印象が異なった。外に立たせてはいけないから家のなかへ招き入れた。彼女はとても簡素な服で髪もほどいていた。シャワーを浴びたのだろうと思った。さっきからポットがずっと沸騰を告げていた。適当な椅子に座らせた。彼女がとても小さく見えた。

「お茶を飲みますか」

 と尋ねて、はじめてセレスタは頷いた。いつものノートは開かなかった。

「紅茶でいいですか」

 頷いた。語らない人と会話するにはその人を見なければならない。僕は必ずセレスタを見て話す。セレスタは僕を見なかった。水色と藍色のカップでダージリンを分けあった。

「砂糖は」

 無反応。レモンとミルクは無い。何も入れずに机上に差し出した。手をつけようとしない彼女を向かいの席の僕はぼんやり見ていた。結びをほどいた頭髪が少し乾いて広がっていた。小ざっぱりとしたその姿のどこかに不足も感じた。目に青いレンズを入れていないからだと思った。

 彼女はうつむいて話さなかった。人が変わったかのようだった。本当に変わってしまったのかもしれない。今は学生服ではなく、髪を結ばず、目は青くない。けれどもこちらの方が彼女の素顔の筈である。
 そして目を伏せたまま、四つ折りにした紙を差し出した。コピー用紙に鉛筆の、筆跡は彼女の文字だった。

『家がさびしくて寝れそうになかったので
 もういちど行きたいなぁと思って来ました

 いっしょに寝てもいいですか

 わがままごめんなさい

 オムライスおいしかったです
 本たのしかったです
 ありがとうございます』


 盗み見た彼女は目を伏せたままだった。

「構いません」

 独りでいると『こわい夢』を見るのかもしれない。

「別に、許可なんて要らないんです。今更ですよ。うちは自由に使って下さい」

 僕が紅茶を飲むのを見て彼女もカップに口を付けた。冷めたらいけない。彼女は、寒そうだった。

「僕にとっても貴女は居た方がいいように思います」

 彼女は両手を揃えてカップを持つ。手に大き過ぎる気がする。飲み干したようだ。カップを置いて褐色の目を上げた。何か言った。けれども僕には分からなかった。そこで、隣に置いていたノートを開いた。
『ほんとに ほらいくんですか』
 僕を見た。
「僕ですか」
 頷かれた。
「僕ですよ」
 彼女は首をかしげた。僕もそうしたかった。視覚と聴覚と声音と思考は変わらないから僕は僕だと思うけど。
『おふろ入った』
「シャワーを浴びました」
 彼女はそれで少し笑った。
『かみがたちがう』
『服もちがう』
『だから別人みたい』
 そうなのか、と考えた。
「貴女も違うように見えました」
 同じように繰り返した。
「髪型も服も違います。目の色も違います」
『コンタクト』
 そう言ったセレスタはいつも通りに小さく笑った。変わらない。目が青くなくてもいいと思った。

 僕は寝室の扉を開けた。暗く冷えていた。布団を整えた。掃除もしているから状態は良い筈だ。好きなように寝ればいい、と、お休みなさいを告げて部屋を出た。僕を、セレスタが、引き留めた。腕をつかんだ。振り返ると何かを言っていた。

『・ ・ ・ ・』

 測りかねていると、分かってないなあと言わんばかりに手を差し出して
『・ ・ ・』
の三字を言う。
「てがみ、ですか」
 先程の四つ折りの紙を手渡すとセレスタは一行を指でなぞった。

  いっしょに寝てもいいですか

『いっしょに』
「……一緒に?」

 その意味の『いっしょ』だと言う。
 ノートに大きく書き足した。

『いっしょにねます
 いい って言いました』

 確かに言った。頷いて見せると彼女もまた大きく頷いた。

「でもその前に、歯を磨いていいですか」

 洗面台には歯ブラシが三本並んでいる。
 鏡に映る僕達の姿は確かにいつもと違っていた。鏡越しに互いを認めあった。彼女はうがいもサイレントだった。

次頁へつづく


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