しかし、もしも水母が好きだとしたら、

「この図鑑では足りませんね」

 彼女も頷いた。子供の為のこの図鑑では頁が足りなかった。もう少し深みの本を持っている。『かわいい』と彼女が喜ぶかもしれない本を。
 僕は立ち上がって本棚を見た、そこに目当てのものははく、自室に置いていたと思い出す。彼女を待たせて取りに行くと、彼女はカウチに移っていた。僕は彼女の隣に座る。彼女はカシパンの殻を手にしていた。

「要りますか」

 スカシカシパン。彼女は少し驚いたようだが、小さなNOを示した。所持していても仕方の無いものだから当然だった。

『でもすき』

 手の平に白い殻を乗せて笑う、彼女はきっと僕よりもこれを愛することが出来ると思う。『水の生物』を台座にして殻を乗せた。彼女は満足げにほほえんで、僕の新しい本に目を向ける。水母の写真集。それを僕と彼女をまたいで膝の上にのせる。彼女と一緒に頁をめくった。

 僕の本に彼女はじっと見入っていた。彼女の読みたいようにしようとゆっくりと頁をめくった。本当にこんなものが『かわいい』のか、再度疑念を抱く。巨大なキタユウレイクラゲなど不快だろうし致死毒を持つ種もある。
 しかし、多分、彼女は嘘で『かわいい』とは言わない筈だ。隣に座っている彼女は。しかし僕が何を知っている。所属も年齢も、名前すらも知らないというのに。
 それでも彼女は頁の写真を記憶せんばかりに見つめている。

 ずっと雨が聴こえていた。僕達は静かだった。水を撥ねて車が走る。雨は長い糸のように降り止まない。

 肩をたたかれる。『何がいちばん?』と彼女が訊く。序列を気にしたことはあまり無かった。だから一番水母らしい水母を指差した。

「ミズクラゲです」

 沿岸で普通に見られ、無色透明、特異な形でもなく毒も無い。
『シンプル』、そう彼女が書き記したのに僕も頷く。
「だから、一番好きです」
 飾りの無い丸いだけの傘で口腕も短い。確かにきっと『かわいい』
『持ってみたい』
「たまに浜に打ち上げられています」
 そう言うと彼女はぱっと明るくなった。
『ほんと?』
「一度だけ見ました」
『もった?』
 持ち上げたことはなかった。いくら人間に無毒とはいえ、直接触ることには少々後込みした。文字通りつかみ所が無かったのだ。

「でも、突つきました」

 言うと、彼女は吹き出した。吐息だけで笑っていた。腹を抱えて足をばたつかせながらも声だけは忍び笑いだった。
 あれは僕も仕方なかった。背もたれに深く身体をあずけて吐息した。
 ひとしきりサイレントで笑った彼女は僕を見上げ笑い掛ける。

『おかしいね』
「おかしいですね」

 おかしいと思いながらもつついたのだからそれは可笑しい。

『つつきたい』
「面白かったです。乾くと、少し縮んでしまいます」

 砂の上に座礁している様は何かどうしようもなくあわれだった。しかしただの円い寒天でもあった。僕の水を分け与えたかった。

 不意にセレスタは立ち上がり僕の顔を覗き込んだ。僕は驚いた。手を伸ばせばすぐの距離だった。それ故に僕は硬直した。彼女の青い瞳が僕をじっと見た。青すぎる目だった。人工の青だ。視線恐怖症の気は無い筈だが、ここまでただ視られると、それも分からない。僕は逃れたくなった。「どうか、しましたか」と問うが、彼女は首を振って答えない。ただじっと大きな目があった。

 そうして、どれくらい向き合っていたのか分からない――実際は五分も経っていないだろうが、彼女の目はようやく僕を離れた。僕にメッセージを渡した。拍子抜けした。そこにはただひとこと、

『目がきれいです』

「……普通ですよ」
 少し苦しい。
『ふつうにきれい』
 と、彼女は言う。比喩なのか皮肉なのか判別出来なかった。
「褒めているんですか」
『ほめてます』
 何故そんなことを言うのだろう。僕は。
 いや、褒められることに慣れていないだけだ。返し方を知らないし、今ここで釈明する理由もない。

 彼女は再び隣に座り、僕の肩にもたれかかる。そしてノートにことばを書く。いつもよりゆっくりとした小さな字だった。

『こわい夢をみました』

 夕のことだろうと思った。あの声は、うなされていたのだろうか。

「大丈夫ですか」

 彼女は頷いた。無理をしているのかもしれないけれど、頷きは嘘ではないと思った。僕はそのまま居続けた。

 彼女が抱えるものがあって、それが何でどれ程重たいものか、僕が測ることは出来ない。詮索する気も無い。けれども人の重みを受け入れることは可能かもしれない。重圧で時に窒息しそうになることだけは、僕はきっと知っているから。重力に耐えられなくなった時にはこうして寄りかかってくれて構わない。

 だからこのままの格好で僕は呟いた。けれども声にはならなかった。

(ありがとうございます)

 口をついて出たそれが何を対象にしているのか、僕自身にも分からなかった。ただ漠然と名状し難い好意があった。
 この家に不自由も不快も無い。一人の少女と見えない男を迎えても、僕の視界に変化は無い。変わったことは消耗品の量が三倍になったこと、風呂や洗濯の順番を考えるようになったこと、毎食が美味くなったこと、喋らない日が無くなったこと。

 本はとっくに閉じていた。セレスタを肩に感じている。ただ水を聴いている。凪いだ海に浮かぶような、とてもおだやかな心地だった。目を瞑った。


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