電気を消して、寝室にふたりきりだった。間にランプを挟んだベッドはひとつながりではない。けれども文字の読み書きに於いてはランプの存在は都合が良かった。うつ伏せに寝そべってペンを走らせた。彼女は夕と同じ毛布を使った。

『かみがたがちがうだけでとても見た目がちがいます』

 整髪剤はシャワーで流れた。僕も違う。彼女も違う。
 うつ伏せに頬杖をつく僕をセレスタが見た。そして書き足した。

『七三』
「前髪をまとめているだけですよ」

 彼女は大きく頷いた。それが七三だと言いたいらしい。別に構わないことなのだが、

『別のかみがたしてみれば』
「きっと、似合わないですよ」
『イメチェン』
「駄目だと思います」
『どうして?』
 彼女が瞳で問いかける。とても深いダークブラウンの虹彩で、貴女は僕を見透かすのかもしれない。その目はさっきも僕を刺した。目がきれいだと言って。自白作用のあるまなざしだ。
 後ろめたさを伴い呟く。

「似合わないと思ってしまったんです。
 何を着ても何をしても似合わなくなってしまったんです。鏡で見た自分がとても変でした。何をしても自分には不釣り合いに見えました。だったらいっそ、全然似合わないものを着てしまおうって」

 そうやって僕は擬態したかった。

『にあう』
「着続けたからでしょう」
『かっこいい』
『だから ちがうのも見てみたい』
 だめ?
 貴女はいたずらっぽくほほえむ。色々なほほえみがあることに僕は感心してしまう。目尻、口許、首のかしげ方、皆少しずつ違っている。

「……そうですね」
『えらぼう』『みんなで』
「そうですね」「いつか皆で選びましょう」

 似合うものを見付けてくれるかもしれない。

「貴女の服は」
『セーラー』『私服』
「他には」
『きます』『私はなんでもきます』『でも制服がかわいいからたくさんきます』『こんど ちがうのきてきます』

 笑い、語り、あくびをした。貴女は目をこする。

「寝ましょうよ」と僕が言うのに貴女は首を振って否定した。ことばを書いた。

『なにかお話して』
『きいています』

 子守歌だとかひどい要求を想定していたから安心した。でも、

「お話なんて、全然、分かりません」
『ほらいくんのはなし』
「僕の話なんて」
『おしゃべり』
『きいています きかせてください』

 そう書き記すとセレスタはノートを閉じて枕元に置いた。対岸の布団から僕に手を伸ばした。にぎりかえすと生ぬるい熱を感じた。

「……お話」

 僕の声は妙に響いた。

「喋っているだけで良いですか」

 ぼんやり呟くと握る力が強まった。これが相槌であると分かった。僕は声があるのにセレスタよりも口下手だと思う。
 即興なんて出来ないからたわいのない話をしようと思った。ぼんやり、ぼんやり、紡ぎだした。

「前はよくひとりで出掛けたりをしました」

 ……。

「電車に乗って海に出て、海岸線をぼんやり歩いていました。
 まっすぐな浜辺か岬が良いと思います。水平線が広いのが良いです。
 砂浜の方が漂着物は多いです。水は磯の方が澄んでいます。
 潮風とか湿気とか、そういうにおいがして、生き物の気配がして、太陽はさざ波に反射して眩しかった。そういうもののなかにいるのが好きでした。水辺にいると、安心しました。」

「最近はもうどこへも行っていません。忙しくなってしまったような気がして、でもどこだって、行こうと思えば行ける距離です」

「だから、そろそろ、またどこかへ行きたいと思っています」

 にぎられる力が加わった。
 まどろみに沈んでゆくにつれ雨音が明瞭に聴こえはじめる。不連続な秒針のようにばらばらに、時に強く時に弱く、気まぐれに窓ガラスに打ちつける。

「そのうち……
 どこかへ出掛けませんか」

 強まる力が嬉しかった。

「どこか希望がありましたら、今じゃなくていいから、思い付いた時にでも教えて下さい。
 なるべく叶えたいです。
 僕の連れて行けるところは少ないけれど」

 車が水を切って走る音。こんな夜にも遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
 今日みたいな雨の翌日は漂着物も多いのだろう。
 たくさん歩いた、あの真っ直ぐな砂浜を思い浮かべた。また水母が打ち上げられている。

「実は、水族館に行きたいです」
「生きている水母を見たくなりました」

 にぎられてばかりだから少しだけにぎり返した。

「いつか。いつでもいいので、行きましょう」

 つないだ手に脈拍を感じた。貴女と一緒に水槽の前に立つことを、ほんの少しだけ思い浮かべる。止みそうにない雨。布団の外の手が、少し肌寒い。

 消しますよ、と告げた時に返事は無かった。暗闇にはせず、一番暗いように調光した。赤みを帯びた部屋から目を閉じる。波がさざめく。明日はもっと穏やかであると思う。

 一日が終わる。次に目を開けたら明日になっている。それがいつも悲しい。今日は、今日をなんとか終えることができたから、これで終わりにしてはいけないのだろうか。明日は今日の延長ではない。明日も今日みたいに、上手くゆくとは限らないのに。
 だからこうやって幸せなままの夢の間に、電源をオフにするように、シャボンの膜がこわれるように、すべてがプツンと終わってしまえば……ハッピーエンドじゃないか。
 今こうやって思ったことも、明日には全部忘れてしまう。昨日のことは今日には無いし、今日のことは明日には無い。昨日の決心を今日実行できないし、今日の発見は明日にはもう無意味なものになっている。日付の間の結束なんて微々たるもので、それこそ、明日の朝には虫になっているかもしれない。
 けれども睡眠には抗えなくて、今日の僕は薄れていく。

 水びたしになっている公園を思い浮かべる。水が僕の傍で響いている。波が寄せる。僕を浸蝕する。今日の僕が崩壊し、水に流れて堆積し、砂州をつくるようなイメージ。

 いまさら、本当に話したいことを話していないと気が付いた。でも、気付いた今日の僕は、もう語ることが出来ない。明日の僕はたぶん語ろうとしない。もしも貴女が明日もその次も僕の傍に居てくれるのなら、僕は絶対に話さなければいけないのに。

 責任放棄。

 明日の僕に任せよう。今日はもう、とても疲れて、眠いんだ。
 おやすみなさい。
 僕はやっぱり駄目なんだ。

 眠りに落ちる気配がした。


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