夜明け前が一番暗い
初めてリヴァイ兵長に反発した。私は忠実な部下だったので、きっと兵長も驚いたと思う。
「お前は本部と巨大樹の森との取り次ぎ役にあたれ。連絡要員だ」
途方もない壁外調査、もといマーレから島に戻ってきて。リヴァイ兵長は私にそんな命令を出したから。
「ちょっと……なんでですか。私も森の警備にあたります。外される理由がわかりません」
「仲間内でもエレンの処遇を巡っては意見が一致してない。これからどう転ぶかわからねぇ状態で、重要な情報を運ぶ人間が信用ならねぇんじゃ、てんで話にもならねぇ。お前がそこに就けと言っている」
長い間、補佐官として彼の側にいる。一番に信用してくれる人間が私だということはとても嬉しかった。でもそうじゃないのだ。リヴァイ兵長は、なんだか少し、嘘をついているようだった。
私を引き離しておきたいような。
巨大樹の森。ジーク・イェーガーを捕える檻である拘留地。積年の恨みが募った相手を目の前に、リヴァイ兵長はただ森で過ごさなくてはならない。どれくらいなんて予想もつかない時間、私が兵長の側にいられないなんて。
どうして私はそこに入れないのだろう。
私とリヴァイ兵長の押し問答は三十分ばかり続いた。私はただ、納得できないと繰り返して。
「いい加減にしろ。これは命令だと言っている」
声のトーンが一層低く、暗くなった。長く一緒にいたからわかる。彼が、最大限怒った時の合図だ。
「だって」
子供みたいに下くちびるを噛みしめた。いっそ子供に戻って泣きわめいて駄々をこねたい。嫌だ、兵長の側にいたい。離れたくない。
「私、不安なんです」
「あ?」
エレンの暴走で調査兵団の仲間達もバラバラになっている。兵団の上層部もわからない。他国からの侵略の足音。そして私は兵長と離れ離れ。
不安にならないはずがない。
今までどんな戦況も切り抜けてきた。リヴァイ兵長の背中を追いかけて、ここまで生き延びてきた。けど。
「ナマエ」
優しいてのひらが、左の頬に触れる。二人きりの時の夜の触れ方だった。私は兵長の手に指を絡めて、目を閉じた。
「しばらく、お前を甘やかしてやれてなかったな」
「何言ってるんですか……」
「もう少し堪えろ。正念場だ」
余計に泣きそうになってしまった。一番堪えてるのは貴方です。リヴァイ兵長。
「わかりました。でも何かあったら、私は一番に兵長に従います。私が信じているのはリヴァイ兵長です」
ふんと鼻先で笑ってから、リヴァイ兵長が目を閉じた。私も反射的に目を閉じる。両手で頬を包まれて、時間が止まってしまったようなキスだった。
「ん……」
名残惜しくて、私を包む兵長の指を繋ぎ止める。今生の別れでもないのに。
ずうっと後になって。私はこの時の兵長の気持ちを聞く機会が得られた。兵長はこの時、本当にただ、連絡要員として私を警備から外す必要があったこと。信用のおける仲間は、ハンジさんの側にいてやって欲しいと思ってたこと。そんなことを聞いた。
そして同時に私は、死ぬほど後悔した。
どうしてこの時、兵長を怒らせてでも一緒に行かなかったんだろう。側にいればよかったのに。
はじまりの引き金は、ザックレー総統の殺害だった。
総統の部屋で爆発が起こり、居合わせた104期のミカサとアルミンは無事だったけれど、ザックレー総統は体がバラバラになって吹き飛ばされた。
首謀者はイェーガー派と呼ばれる、調査兵団の新兵たち。裏で手を引いてるのはエレンとジークだ。
兵団の上層部はこれにエレンの始祖を他者に移すことを計画した。すぐにリヴァイ兵長に知らせなければいけない。
「ナマエさん!」
厩で準備をしていると、背後から声がかかる。私と同じ、連絡要員に就いてる兵の一人だ。
「どうしたの」
「ハンジさんがナマエさんを探してて……気になることがあるから、兵長の所へ行く前に、自分の所へ寄ってくれないかと」
「ハンジさんが?どこにいるの」
「ええと。さっきまで兵団本部にいたようなんですが」
混乱してる。壁中の何もかもが、混沌としてる。
「わかった。じゃあ私はハンジさんを探してから、巨大樹の森に行きます。貴方たちは先に行って、兵長に伝えてくれる?ザックレー総統のこと、それから」
「エレンの始祖を……ってことですよね」
「ええ」
私も彼等も敬礼は構えなかった。
耳の奥で、ザックレー総統の遺体を前に市民らが叫ぶ「心臓を捧げよ」の声が、まだ残っている気がしたから。
この非常事態に、ハンジさんはどこへ行ってしまったんだろう。
最近はよくハンジさんの側にいる、ジャンやアルミンの姿も見えない。ミカサもアルミンも、コニーも。ひょっとしたら、みんな一緒にいるのかもしれない。
壁内の兵団側の場所にはいないような気がして、シガンシナ区の方角へと走り始めた。市街地に入ると馬は邪魔になるので、途中から自分の脚で走る。
レストランが立ち並ぶあたりにくると、見覚えのある人影に背筋がひやりとした。
「何してるの……?」
彼等は。イェーガー派のフロックを筆頭にした新兵は、エレンの情報を市民らに流したことによって、懲罰房に入れられていたはずなのに。
「何って。貴女こそ何してるんですか」
余裕たっぷりの、口の端だけを引き上げた笑顔。怖い。直感的に思った瞬間、引き金の音が響いた。周囲を見回すと、私は取り囲まれていた。
「冗談はよして」
「この状況を見てわかりませんか?おい、こいつも拘束しろ」
「何バカなこと言ってるの、下がりなさい」
私の周りを新兵が取り囲む。各々が手にライフル銃を持って、スライドさせる音が響く。すぐに発砲できるように。
「ナマエ!」
新兵の間から顔を出したのは、探していたハンジさんだった。ハンジさんも拘束されている。
「あんた達!団長にこんなことして、タダで済むと思ってるの?!」
私が怒鳴り上げた途端、足元に銃弾が飛んできた。音と弾痕は同時に聴覚と視覚に届き、一瞬、その場が静まり返る。
「これは冗談じゃない。あんた、確か兵長の恋人とかいってましたよね?人質にはもってこいだ。殺しはしませんよ」
フロックの言葉に、全神経が逆撫でされる気分だった。クソ野郎、ぶっ殺してやる。そう呟くと、ハンジさんが黙って首を横に振った。私、ハンジさんよりも取り乱してるみたいだ。
私とハンジさんには銃口がつきつけられたまま、フロックを筆頭に馬で走り始めた。フロック達はジークの拘留地を知らない。巨大樹の森まで、彼等を案内しないといけないらしい。
ハンジさんに話しかけようにも、視線を交わしただけで銃口で脅される。どうしよう、このままでは。
進むうちに、空が曇ってきた。
市街地を抜けると雨が降り始め、馬の脚が遅くなる。皆外套のフードをかぶり、それでも進み続ける。
視界が悪い。まつ毛の先に絶えず雨粒が落ちて、何度もまばたきをする。
あともう少しで巨大樹の森に着く頃、雷槍の音が響いた。私とハンジさんはすぐに気付く。目配せする。フロックも何か気付いたらしい。行く先は雷槍が放たれたであろう場所へと、手綱を引く。
「巨人が現れない限り、あれを使う必要はないだろうね」
馬脚が速くなったのに紛れて、ハンジさんが呟いた。私も同じことを思った。厚い、鋼のような巨人を突き破るための武器。それ以外の用途は私も思い当たらない。
キャンプ地が見える。何度か通った場所だ。荒れ果て、巨人の蒸気で溢れていた。
「何があったんだ?!」
フロックが叫んで、手綱を強く引いた。馬は駆け脚になる。
雨が強くなってきた。川の音がする。水音がうるさい。わかってる、嫌な予感がすることは。わかってるから──
「誰か倒れてる!」
ハンジさんの声で同時に私も気付いた。ハンジさんが駆け寄った時にはもう、私にはそれが誰か、わかっていた。
「リヴァイ……兵長……」
体が冷たいのは、雨に打たれたからだろうか。
私の温度は一瞬にして消えてしまった。心が凍えている。言葉も出ない。ただ目の前にいるのが、雷槍の破片を受けた兵長であるという事実を受け入れがたかった。
「死んでるよ。至近距離から雷槍の爆発を受けたんだろう。訓練時に同様の事故を見てきたが、外傷以上に内蔵がズタズタになって即死だ」
新兵が近付いてきて、ハンジさんは声に輪郭をもたせるように言った。この雨音の中でも、彼等の耳に届くように。
「俺も脈ぐらい計れるので、見せて下さい」
フロックが、私とハンジさんの背後に立つ。私は立体起動装置のトリガーに手をかけた。間に合うだろうか。彼が引き金を引くより早く、トリガーを抜いて、刃をかざすことができるだろうか。
緊張が走る。タイミグを間違えるな。今しくじるとここで。
その時だった。
進行方向に倒れていた巨人から、蒸気が溢れ出した。でもいつもとは違う。巨人に向かって、吸い込まれていくような蒸気。
一体、なんだというの
叫びだしたいくらいに動揺しているのに。
吸い込まれた蒸気の先からは、そこにいなかったはずの、ジーク・イェーガーが現れた。無傷で。裸で。生まれ直したみたいに。
つん、と外套が引っ張られる。ハンジさんだった。ハンジさんも驚いている。混乱している。でも瞳が、行くよ、と。私に、そう語りかけた。
兵長はハンジさんが抱えている。
ハンジさんが川に飛び込むのを見てから、私もあとを追った。背後から銃声が追ってくる。濁流で二人が見えない。それでも、せめて流れ弾が当たるなら、私に当たってと祈りながら水をかく。
二人はどれくらい息が持つだろうか。きっと限界まで泳いで顔を上げる。なるべく目立たないよう、背の高い野草が群生する岸辺に沿うように、泳ぎ続ける。
「ナマエ!」
顔を上げた瞬間、ハンジさんの声がした。
「ナマエ、こっちだ!」
「ハンジさん!」
草の間から、茶色の髪が見え隠れしている。すぐに泳いで近付く。三人とも、川から顔だけを出して。
「私は一旦あがって、上の様子を見てくるから。貴女はここで、リヴァイと一緒に待っていてくれ」
「兵長……兵長は、こんな、大丈夫なんですか」
もっと何か他に言うべきことがあるのに。いざ彼を目の前にしたら、まともな思考はどこかへ飛んでいく。
「きっと大丈夫だから。頼んだよ」
ハンジさんの腕から、私の腕へと彼が託される。
重い。冷たい。
「リヴァイ兵長」
そっと、彼の耳元で囁いてみる。体温の一切が感じられなかった。剥き出しになった肌の部分は雨で濡れていて、傷跡が浮き立って見えた。
川の流れは早い。岸辺に、兵長を押しつけるようにしてなんとか体を保っている。
ふいに水面に視線をやると、うっすらと血の筋が流れていった。
「ハンジさん、きっとすぐに戻ってきてくれますから」
聞こえてはいないだろうけど。自分にも言い聞かせたくて、口を開く。
遠くない場所で、銃声が響いた。合図のように聞こえた。ハンジさんかもしれない。ハンジさんなら、きっともうすぐ私達を迎えにきてくれるはず。
「ナマエ」
喉の奥で、舌だけを動かして、かすれた彼の声が聞こえた。涙が溢れる。今ならまだ、雨が降っているから。抱えきれない後悔と悲しさを今だけは隠さずに。声を上げて泣いた。降りすさぶ雨に許しを請うように、泣き続ける。泣けば泣くほど、体の体温が奪われてゆくようだった。
雨音が、痛い。
「ナマエ、もう大丈夫だ。リヴァイを引き上げよう」
しばらくして頭の上から声がかかる。きっとハンジさんは私の様子に気付いていたけれど、今はそれどころじゃない。私は息を荒くしながら、うなずく。
「そっち、ナマエが抱えておくれ。リヴァイ、見た目より随分重いからな」
「はい。さっきの……新兵たちは?」
「追ってきていた二人を撃った。フロックたちは、どこへ行ったのか」
二人で兵長を抱え上げ、一旦野営地の近くへと戻る。追手がこないのなら、きっと火もおこせるし、兵長の治療もできるはず。
ずぶれ濡れのまま、三人で移動する。重い。体中に圧しかかる重さが兵長の生きている重さみたいで、抱えるのにやっと。
森に着くと焚火を起こして、散らばった荷物の中から使えそうな布類を引っ張り出し、簡易の治療器具も拾ってきた。その頃には雨も止んだ。
私はお湯を沸かして、ハンジさんが治療にあたる。縫合は、ハンジさんの方が上手だ。兵長の顔の上に針を這わせながら、ハンジさんは彼が今生きているのは、彼がアッカーマン一族だからと一人ごちた。
「とりあえずは、これでいいかな」
ハンジさんは、わざと明るい声を取り繕っているようだった。
「ナマエ、私は少し周辺を見回ってくるよ。リヴァイを運ぶ荷台も作らなくちゃ」
普段なら「私が行きます」と言うところだ。でもどうしても、それが言えなかった。今、兵長の側を離れたくなかった。
ハンジさんは私の肩を叩くと、すぐに立ち上がった。
夜を切り取った炎が、パチパチと音をたてて燃えている。
「リヴァイ兵長」
かけていた布から兵長の右腕が飛び出していたので、布をかけ直した。包帯だらけの手が視界に入る。私の頬を撫でた指先は、もう、ない。
何度となく夢に見た。
巨人に喰われる所、誰かに撃たれる所、何らかの方法で、私の夢の中で、彼が死に絶える悪夢を。
戦いに向かう彼の背中を追いかけるのは、正常な神経をすり減らしていくような日々で。そんな毎日の中、魘される眠りの中で、私は覚悟をしているつもりだった。苦しさを受け入れるのは、彼を追いかけるためだと。
でも覚悟なんて呆気ない。全部、今まで見てきたどの悪夢より、今がつらい。
泣いている場合じゃない。でも泣きたい。やっぱり、子供みたいに泣きじゃくりたい。
離れるんじゃなかった。ずっと側にいればよかった。私が兵長の盾くらいにはなれたかもしれないのに。
私は私が傷つくより、貴方が傷つく方が悲しい。私の心臓は、リヴァイ兵長が持っていってしまったのだから。
「ナマエ……か?」
「兵長」
横たわっていた兵長が身じろぎをした。起き上がってはいけないと思って、私は兵長の肩をおさえる。
「どこだ、ここは」
「ハンジさんもいます。雷槍の暴発があった場所から、少し南下した森の中です」
包帯の隙間から見える瞳が、薄くなっている。まだ、眠そう。
「休んでください。ひどい怪我です」
「ああ」
抱きしめることも、手を握ることも、キスをすることも、今はできない。
悪夢の続きが、きっと今なんだ。
彼は私の手が届かない所へ行こうとしている。限りなく死に近い、戦いの場所。きっと起き上がるようになったら、彼はまた、刃を握るのだろう。
──兵長と体を重ねるようになったのは、私が初めての壁外調査から帰ってきたその夜だった。
宿舎のベッドには空白が目立って、初めて見た巨人の姿が頭から離れなくて。体はクタクタに疲れているのに、眠れない頭を守るために、人のいない兵舎の中をあてもなく歩いていた。
燭台を持った兵長と廊下で鉢合わせたのは、もう日付も変わった頃。
「眠れないのか?」と聞かれて、私はうなずくだけで返事をした。上官に対する態度としては最低だ。でも兵長は怒らずに、すぐに歩き始めた。茫然として立っていると「ついてこい」とだけ言って。
ひんやりとした食堂に着いて、兵長は紅茶をいれてくれた。ちょうど自分も飲みにきた所だったと。
「お前は生きて帰ってきた。死んだ仲間の意思を背負い、生きて戦え」
蝋燭一本の灯りの中、兵長の言葉を繋ぎ合わせると、そんなことを言っていた。
やがて紅茶も冷めて、体も冷え切って。私が兵長の分のカップも下げようとした時、テーブルの上で彼の手とぶつかった。視線が絡んだ。指先が私を捕まえる。空っぽになった体を埋めるような、キスをした。
息が弾んで苦しくて。もっと苦しくなりたくて、兵長の部屋までついていった。
好きとか、恋とか、愛とか。
兵長との夜は、そんな言葉よりもずっと、生き死にに近い場所にあった。私は彼を追いかけることで、彼に触れることで、前を向くことができた。
「だから、ねぇ、兵長。私は貴方のこと、ずっと追いかけますよ。もう離れませんから」
口に出してから、ちょっと嫌味っぽかっただろうかと思った。私の声に反応した兵長は、ぴくりと耳をそばだてて、目は閉じたまま、呟いた。
「何言ってやがる」
「慌てて追いかけるのは大変なんです。私をおいて行かないで。兵長が先に死ぬのも、私が先に死ぬのも嫌です。ずっと一緒です。一緒に、戦います」
「あたり前だろ」
少し、嬉しかった。振り返らない彼の視界に、私が隣にいるということが。
私はやっと、兵長の手に触れた。手の甲を、撫でるように。
落としてきてしまった指が悲しい。柔らかな笑顔が見れなくなるのも悲しい。でもたった今、ずっと一緒だと誓ったから。
私は貴方から離れないから。
しん、と夜が深くなる。足元から掬われてしまいそうなほど、暗い森の中。しばらくすると、木材を抱えたハンジさんが帰ってきた。
「リヴァイ、目を覚ました?」
「少しだけ」
「ナマエが落ち着いてるからさ」
照れ臭くなって、笑って誤魔化す。あんなに取り乱したのは、初めてだったかもしれない。
「手伝います」
ハンジさんは頷く。
背後には焚火があるというのに、手元は覚束ない。震えてるし、暗いし、寒い。
でも陽が昇ったらきっと出発することになる。リヴァイ兵長は立ち上がる。朝がくることがわかっている。
だから、戦う準備をしなくては。