▼ 5.Unconditional fate(無条件の運命)
薄く瞼を開けると見知った天井があった。何度も見た天井だ。特にリヴァイとセックスしていて、ナマエが下になっている時。ふいに視界に入るのがこの天井。もともと物置きだった所をリヴァイの個室にと作られた部屋なので、部屋にしては狭い。シングルベットでいっぱいいっぱいの小さな2人の部屋。
(……あ)
上手く声が出ない。掠れているし痛みもある。
「ドクターとハンジさんを呼んで来ます」
音が先にナマエの耳に届いた。今の声はグンタだ。
「ナマエ、わかるか?」
「リ……ヴァイ……」
「グンタ、一緒に水も持って来てくれ」
彼が去って行った方角に向かってリヴァイが叫ぶ。遠くから「了解」と返事があった。
ナマエが病院でアンデッドに噛まれ、発電所に帰還してきてから3日が経過していた。その間、ナマエには矢張りアンデッド化の兆候は見られず、噛まれた際の傷が重症で、彼女の目が覚めるのを待っていた。見張りは常に2人。リヴァイと、リヴァイ班の誰かと。
もしナマエが急にアンデッド化しても、リヴァイなら素早く対応出来る。しかしそれだけでない事は、誰しもがわかっていた。祈るように、縋るように、リヴァイはずっとナマエの手を握っていたのだ。
ナマエの目が覚めたということで、部屋にはドクターとハンジ、そしてエルヴィンも顔を出した。もちろん全員が入りきれないので、エルヴィンとハンジはドアの所で立ったままドクターの診察を見守る。背丈の低いドアに、エルヴィンは腕を掛けていた。
「少し不整脈が見られるが……現状これ以上のことは出来無い。安静にして回復を待つ他無いな。抗生剤はもう少し続けてくれ」
「そうか。ありがとう」
リヴァイが礼を述べると、ドクターは部屋を後にする。ナマエはグンタが持ってきた水を飲み、今一度リヴァイに手を伸ばした。
「リヴァイ……私、アンデッドになった人に噛まれて……」
「ああ。ラッキーだかアンラッキーだか、わからん状況だが」
リヴァイは振り返り、ドアの所に引っ掛かったようなエルヴィンに振り返る。折角ナマエの目が覚めたので、リヴァイとしては2人きりにして欲しい……という視線でもあったが、そうも言ってはいられない。
「とりあえず、無事でよかった」
ハンジがそう切り出すと、隣のエルヴィンも頷いた。
「抗体を持った人間が一定数いる……という仮説は正しいのかもしれない。しかしナマエだけでは決定的なサンプルとして結果は得られないだろう」
「オイ……エルヴィン、お前、人の女を実験体扱いするんじゃねぇよ」
「すまない。他意は無い」
エルヴィンはおどけたように笑って見せる。
「他にも私みたいに、噛まれて平気だった人がいるの?」
「そうだな。どうやら出口が見えなかった我々の現状を、打破する道が見えてきたようだ」
ここ1カ月の壁外調査で──
他の州、例えば隣のシガンシナ州は、もともとエルヴィンが管轄していた軍の基地があった場所であるが、優秀な上官を失ったばかりの軍は軍としての力を喪失し、壊滅的被害を受けていた。
この状況を鑑みて、パラディ軍本部はエルヴィンに救援要請を申し出た。
シガンシナ州に取り残された民間人並びに士官学校生を助ける手助けをしてほしい。成功すれば、エルヴィンの要望を軍が後押しする──という内容である。
「今更虫のいい話しだな」
リヴァイは小さく舌打ちを零して言う。
「……そんなに、軍はアンデッドに勝てないの?」
「ああ。奴らの脅威は数と、項を抉らない限り回復し続ける再生能力だ。下手な狙撃手がいたら、戦車であろうとそこからやられてしまう。そして問題がこの士官学校だ」
士官学校。その単語で、ナマエの目が見開いた。
「お前の、弟がいる所だろう」
リヴァイが言えば、ナマエは表情だけで頷いてみせる。
「士官学校の学生達は無事なの?」
「校内に立てこもり、先日君達が助け出したドクター達のように籠城状態になっているらしい。周辺にアンデッドの数が多く、軍も迂闊に近付けないと言っていた。そこの学生を優先して助けてほしいとのことだ」
ナマエの頭に疑問符が浮かぶ。個人的な感情としては今すぐ弟を助けてもらいたい所だけれど、彼等はリヴァイ達と同じ訓練を受けている人間だ。最優先されるべきは、民間人なのでは?と。不思議そうなナマエに気付いたエルヴィンは、静かに続けた。
「その学生の中に、ナマエと同じように抗体を持つ人間がいたらしい。噛まれても、発症しなかったとの連絡があったそうだ」
胸が高鳴った。予感が、した。
「……そいつの名前は」
きっとナマエは聞かないだろうと、そう思ったリヴァイがエルヴィンに尋ねる。
「エレン・イェーガー」
嘘、と口に出したつもりだったが、音にはならなかった。ナマエの弟である、エレン。ぽかんとしたままのナマエを見て、リヴァイは「弟か」と呟く。ハンジとエルヴィンは目を見合わせ、息を飲んだ。
「しばらく……会ってないの。士官学校は全寮制で……この間のクリスマス休暇も、エレンは帰って来なくて……」
「失礼だがご両親は?」
「2人とも……えっと」
ナマエが口ごもっていると、隣でリヴァイが補足した。母が5年前に他界し、直後に父が行方不明になったことは聞いていたからだ。
「偶然だとは考えにくい。国が壊滅的になっているパンデミックで、抗体を持ったと報告されるのが同じ家の姉と弟だけなんてね。血筋という線もある。悪いけど、貴女のお父さんのことを調べてもいいかい?」
ハンジが事務的な口調で述べると、ナマエはどうにか「ええ」と返事をした。
「……そろそろ、いいだろう。目が覚めたばかりだ」
「そうだな。すまなかった」
エルヴィンはそう言ってすぐに部屋を出て、ハンジは「また来るよ」と横になったままのナマエの頬に軽くキスをしてから出て行った。
「リヴァイ」
人の気配が無くなったのを確かめて、ナマエは両手を上に挙げてリヴァイを手招いた。リヴァイは返事をすることも無く、てのひらに、手首に、頬に、そしてようやく唇にキスをする。
「んっ……ふあ、リヴァイ」
「愛している、ナマエ。お前がどうなろうと、俺はお前を愛しているからな」
不器用に払拭しているのだ。ナマエの不安を。
アンデッドに噛まれたのに無事で、それが生き別れ状態の弟も同じで。不明瞭な現状を、リヴァイなりの優しさで。
息苦しくなるほどの熱いキスの合間に、リヴァイはナマエの首にチェーンを回した。小さな金属音に「何?」とナマエは呟く。
「チェーンしかなかったからな。間に合わせだ」
包帯だらけのナマエの胸に下がったそれはドックタグ──認識表だった。兵士が首から下げる、シルバーの薄い2枚のプレート。まだ噛まれた左半身が上手く動かなかったので、ナマエはかろうじて動く右手を使ってそれを持ち上げる。
そのドックタグはリヴァイのものだったらしく。リヴァイ・アッカーマンのリヴァイの部分が赤い(油性ペンか何かだ)斜線で消され、ナマエの名が書かれていた。裏返せば、同じ赤ペンで「Blood type」とナマエの血液型が書かれている。
「これって、1人で2枚下げておくものじゃないの?」
「もともとはな。でも最近じゃ無意味だ」
「俺が持ってても仕方ねぇ。だがお前は持ってろ」
「噛まれても平気だから?」
「それもある……が」
ぴん、と指先で、リヴァイはドックタグを弾いた。ナマエの視界には「ナマエ」と「アッカーマン」とだけがやけにくっきり浮かび上がって見える。
(あ……そういう、こと?)
俺の女だって?
「私も愛してる、リヴァイ。病院で噛まれた瞬間、死ぬほど後悔したのが貴方に気持ちを口で伝えて無かった事だよ。死には……しなかったけど」
「言う必要も無いと思っていたのは俺も同じだ」
へへ、と声に出してナマエが笑うと、リヴァイはまたナマエの唇を啄む。
「弟には俺が会せてやる。安心しろ」
「ありがとう。リヴァイ、最初に会った頃も、エレンのことを気に掛けてくれてたよね」
「そのうち俺の弟にもなる」
あの非常事態に結婚までを考えていてくれたのだろうか。リヴァイの「責任を取る」のは本当に本当の、そういう意味だったのだ。
噛まれた傷はまだ痛むし、エレンのことは心配であるし、そもそも自分の体が何故という不安も拭えない。しかし今、リヴァイと出会った上での過程にあるのがこの運命ならば、私はそれを全て受け入れよう。荒廃していく世界。それでもここには、愛がある。
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