夜目遠目傘の内

「……難しいなぁ」
持っていた本をパタンと閉じて、背中からゆっくり床へ寝転んで大きなため息を吐いた。
土方さんがお気に入りの本、"雨月物語"を貸してもらって一巻を読み始めたのだけど、古文や歴史が苦手教科だった私にとって読破するのはかなり難易度が高そうだ。
漢字が難しくて読めないのはもちろん、単語ひとつひとつの意味がまるでわからない。
とはいえ土方さんのお気に入りだという本を途中放棄するのは何だか嫌だし、好きな人のものをちゃんと理解したいという気持ちの方が強い。
「よし、片付けを終わらせてから続きをまた読もう」
お妙さんの亡くなった旦那さんの遺品整理をしていた途中に休憩がてら読んだ雨月物語を部屋のすみに置き、気合いを入れ直して再び立ち上がった。
二階の部屋を片付けたらそこを私の部屋にして良いとお妙さんが言ってくれたから、休みの今日をまる一日使って片付けをしている。
朝一で始めたおかげで晩ご飯が出来上がる頃には終了し、読もうと思っていた雨月物語には手をつけられずその日は死んだように眠りについた。
この時代に来てから初めて一人で眠る夜。
今の私にはもう、不安や寂しさはほとんど残っていなかった。







どれくらい振りだろう。
ノーメイクの顔に慣れてしまっていたから、おしろいを叩いて眉を整えただけでも雰囲気がガラリと変わったように感じる。
「紅もしっかり塗らなきゃね」
おりょうちゃんは可愛らしいピンク色の風呂敷から化粧品を手に取り、私の唇に筆を滑らせながらニッコリ微笑んだ。
二階を片付けてそこを私の部屋にしたとおりょうちゃんに話したら、お休みの日に"お登勢さんが譲ってくれた化粧品"を持って遊びに来てくれた。
私が今日このあと土方さんと会うのを知っている上で、こうして化粧を施してくれている。
「派手じゃないかなぁ……」
「何言ってんの。今日は彼に会うんだから、これぐらい気合い入れないとあかんよ」
おりょうちゃんは鏡を眺める私の肩に手を乗せて、鏡越しにニッコリと笑顔を見せた。
口紅が崩れない程度にぐっと力を込めて鼻で息を吸い、ふーっと深呼吸をする。
「そう、だよね……」
鏡に映る自分が自分じゃないような、魔法にかかったような気分。
土方さん、私が化粧をしている事に気が付いてくれるかな。
変って思われないかな……
そんな事を考えてドキドキしながら、土方さんと待ち合わせの場所へと向かった。



ずっと雲行きが怪しいとは思っていた。
荷物だけど傘を持っていかなきゃなぁ、なんて考えていたのも束の間、家を出る直前に雨が降り出してしまった。
この時代へ来てから何度も雨は降ったけど、土方さんとお休みの日に会う時はいつも晴れていたから、今日みたいに傘をさして並んで歩くのは何気に初めてだったりする。
私は自分で作った蛇の目傘をさし、土方さんは以前お妙さんから購入した黒色の番傘をさしていて、そのせいで二人の距離はいつもより遠いし、雨の音でたまに声が聞き取れない。
そんなむず痒い距離感は、今の私にとってちょうど良いものだった。
「先にどうぞ」
雨で客足が遠のいている歌舞伎座の前で立ち止まり、入り口前の屋根の下に先に入らせてもらった。
濡れてしまった着物の裾をぱたぱたと叩いて一歩中へ入ると、土方さんも傘を閉じてから同じようにぱたぱたと裾を叩く。
待ち合わせをしてからここへ来るまでの間、傘があったからまだちゃんと顔を見せていない。
照れてしまったのもあって、土方さんの方へ若干傘を傾けながら歩いてしまったのもあるけど。
少しドキドキしながら土方さんに「行きましょうか」と顔を見て声をかけてみたけど、私の顔を直視した土方さんの表情に変化は見られなかった。
「いつもの半分くらいしかお客さんいませんね」
「ええ。このくらいの方が落ち着いて観られるから良いかもしれません」
いつもはガヤガヤと賑わっている歌舞伎座内は、なんだか別の場所のようにも感じられる。
雨の日にまた来よう、なんて話しながら隣に並んで開演を待っている間も、なかなか土方さんの方を見ることができず。
今日の公演は私の好きな歌舞伎俳優が出るから楽しみにしていたのに、となりの土方さんが何を考えているのか思うと歌舞伎に集中できなかった。
そして歌舞伎が終わり、「止んだかな」と話しながら外へ出るも生憎雨はまだ止んでいない。
足が濡れてしまうからとの理由で食事は近くのご飯やさんに行き、ここに来てやっと私たちは向かい合って互いの顔をちゃんと見る事となった。

「美味しかったぁ」
ご馳走さま、と手を合わせると、空になった食器をお店の人が持って行ってくれた。
「この店は以前から気になっていたので今日こうして来られて良かったです」
「私も気になってたんです。すごく美味しかったし、また来たいなぁ」
土方さんはニコリと微笑み、「また来ましょう」と言ってくれた。
相変わらず土方さんの様子に変化はないし、私の目をちゃんと見て話をしてくる。
やっぱり気付いていないんだなぁとガッカリしながらも、最後に何か言ってくれるんじゃないかと淡い期待を消せずにいた。
「なまえさん」
改まって名前を呼んだあと、私の顔を見てクスリと笑みを浮かべた土方さんに胸がどきんと高鳴った。
しかも私の方へ土方さんの綺麗な手が伸びてきて、唇の横を指がかすめるものだから体が硬直してしまう。
「ついていましたよ」
人差し指に乗った一粒の白米を見て、ドキドキ鳴っていた心臓がまた違った音で鳴り始めた。
「やだ、ごめんなさい」
あまりの恥ずかしさに顔を塞ぎながら俯く。
お茶碗の中の白米は一粒残さず食べたというのに、まさか口元に残っていたなんて。
「子どもみたいで可愛いですよ」
さすがに漫画のような展開にはならず、土方さんは指についた白米をそっとふきんの上に置いた。
土方さんはきっと、慰めるために"可愛い"というワードを使ってそう言ってくれたんだろう。
だけど今の私には、"子どもみたいで"の方が胸に深く突き刺さってしまった。
「あはは……恥ずかしい」
土方さんの隣に並んでも恥ずかしくないように、今日は精いっぱい背伸びをしてここへ来た。
化粧をして、つげ櫛でしっかりと髪をとかしてまとめて、ドキドキしながら土方さんに会いに来た。
だけどそれは何も伝わっていなかったし、終いには子どもみたいと言われてしまう。
期待していた分ガッカリ具合が酷く、食事が終わって店を出る頃の私はだいぶ口数が少なくなってしまっていた。
まただ、と土方さんは思っていたかもしれない。
大人気ないと分かっていても、この落ち込んだ気持ちをどうやったって元通りにするなんてできなかった。
「家まで送ります」
まだ振り続ける雨。
水たまりを避けるようにして歩いても、足元はすでに雨で濡れているから冷たい。
日衣屋の看板が見え、もう五分後にはお別れしているんだろうと考えながら歩いていると、隣から土方さんの影が消えたのにハッと気が付いて後ろを振り向いた。
「土方さん……?」
どうやら私はボーっとしていたらしい。
二歩後ろで立ち止まっている土方さんは少し気まずそうな顔をしていて、私は慌てて彼の元へ駆け寄った。
「すみません、聞こえていませんでしたか。もし良ければ少しそこで休みませんか?」
人差し指の先は日衣屋がある道の、一本手前の道をさしている。
家はもうすぐそこだけど……なんでこんな目の前で休むんだろう。
そう疑問に思いながらも土方さんの後をついて行き、人気のない屋根のある場所で傘をたたんで雨宿りをした。
「少し狭いですが、座りますか?」
「そうですね」
二人で座るには少し狭い、木でできたベンチにゆっくり腰を下ろし、ザーザーと音を立てて降る雨を眺めながら湿気でうねってしまった前髪を直した。
土方さんに会ってから鏡を見られていないから、きっと化粧も前髪も崩れて変になっているに違いない。
土方さんと別れるのは惜しいけど、早く帰って鏡を確認したいという気持ちもあってなんだが複雑な気持ちになってしまう。
それに狭いベンチのせいで二人の肩は少しだけ触れているから、話しかけようにも至近距離すぎて土方さんの顔をうまく見る事ができない。
だからと言って足元に視線を向けてみれば、汚れた足先は私の気持ちをズンと暗くするだけだった。
「早く帰りたいでしょうに、呼び止めてすみません」
土方さんは申し訳なさそうにそう言い、私は「そんな事ないです」と膝の上に置いてある自分の手を見ながら否定した。
その時、となりで同じように膝の上に置いてある土方さんの手が、ぎゅっと握りこぶしを作ったのが見えた。
横目でそれを見たまま、続いて出てきた言葉に耳を傾ける。
「凄く綺麗だ」
「え……」
何が?と思った私は、近距離だということを一瞬で忘れてとなりにいる土方さんを見上げ、こちらを見ていた土方さんとバッチリ目が合ってしまった。
「今日のなまえさんは……いや、いつも以上に今日のなまえさんは綺麗だ」
冗談で言っているとは思えない真剣な表情。
口元にぐっと力が入っているし、僅かに頬が赤らんでいるように見えるのは気のせいじゃないと確信して良いのだろうか。
「そっ、そんなお世辞……無理して言わないでいいですから」
「お世辞じゃない」
すぐにそう言われ、嬉しさと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうな私は再び膝元に視線を戻して黙り込んでしまう。
土方さんから"美しい"とか"綺麗"だとか言われるのは初めてじゃないとはいえ、今回ばかりは真に受けてしまうのも仕方がないと思う。
「会った時からずっと思っていたんですがね……なかなか口に出すのは勇気がいるもので、ここまで来てしまいましたよ」
「……へぇ……」
何が"へぇ"だと、自分のまぬけな返事に後悔した。
今言ってくれた言葉と、その照れた表情は、本当にこの私に向けられたものだと信じていいのだろうか?
私にとってはあまりにも贅沢すぎるし、心臓のドキドキが激しくて、頭の中がうまく整理できなくなってきた。
つげ櫛の時もそうだけど、土方さんってもしかしたら凄い女たらしなのかもしれない。
今まで私の前ではクールな一面しか見せなかったし、そういう人なのだと思っていたけれど、私が土方さんを意識していると本人に伝わってしまっただろうあの日から彼の態度が変わったように感じるし、その見当はあながち間違っていないように思える。
「……なまえさん」
「は、はいっ!」
考え事をしていた中、急に改めて名前を呼ばれたため声が裏返ってしまった。
恥ずかしいけど勇気を振り絞ってとなりを見上げたら、土方さんはニコリと口角を上げていつも通りの落ち着いた顔つきで私を見ていた。
「行きましょうか」
傘を片手に持つ姿を見て、私はこくりと小さく頷いた。
目の前にはまだ、変わらず雨が降り続いている。
嬉しいとはいえ恥ずかしくて今すぐにこの場を逃げ出したいと思っていたにもかかわらず、いざ帰るとなると嫌でたまらなかった。
土方さんの言葉、信じていいの?
舞い上がっちゃって、本当にいいの?
誰かに話したくて仕方がない私は、雨だというのに土方さんとお別れしたあと伏見の寺田屋まで走り、おりょうちゃんに今日の出来事をもの凄い勢いで話すのだった。





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