甘い時間と、期待

その夜は、外から聞こえてくる足音に酷く敏感だった。
今は顔を見たくない、なんて思いながらも、土方さんが訪ねて来たんじゃないかとウサギの耳のように体が反応してしまう。
吉乃さんとは何もない、と言ってほしいわけでは決してないのだけど、だからと言って関係を肯定されたら立ち直れそうにない。
ソワソワした落ち着かない時間をしばらく過ごした後。
「やっぱり渡そうかな……」
せっかくおりょうちゃんが教えてくれたのに渡さないなんて失礼だし、時間が経ったら混乱していた気持ちが正常に戻ってきた。
吉乃さんが土方さんに渡した羊羹は既製品であって手作りじゃないし、私の作った羊羹は日頃の感謝の気持ちを表しただけでそういう……特別な感情ではない。
ただ、ありがとうを伝えたかっただけなんだ。
とはいえ辺りを見渡しても、羊羹を包んだ紺色の風呂敷は見当たらない。
「お妙さん、羊羹って食べちゃいました……?」
座布団の上で正座をしながら裁縫をしているお妙さんは、私の質問にすごく驚いた顔をして口に手を当てた。
「やだ、ごめんなさい。あまりにも美味しかったから近所のみんなと食べちゃったわ」
「あ、いいんです。私も食べよっかな?って思っただけなので……」
申し訳なそうに言うお妙さんに慌てて嘘を吐き、動揺する心にムチを打った。
自暴自棄になって「食べていい」と言ったのは私なんだから、自業自得だ。
もう羊羹がお妙さんと近所のみんなの胃袋なら諦めるしかない。
感謝の気持ちを伝えるのはまた別の機会にして、明日は土方さんの所へ行って今日の事をちゃんと謝ろう。
モヤモヤする心をなんとか心の奥にしまって、その日は眠りについた。









夜道は危険だから、日が沈む前に壬生へ行かないと。
新撰組屯所まで行くのは少し怖いし勇気がいるけれど、昨日土方さんに無礼な事をしてしまったのは私なのだからこっちから出向かないと失礼だ。
昨日吉乃さんに羊羹を貰っていたから同じものをあげても仕方ないなと思った私は、壬生に向かう途中にあるお店で果物を買ってから新撰組屯所へ足を運んだ。

門番の人に「新撰組副長の土方さんにお会いしたい」と伝えたら難しい顔をされたけど、名前を聞かれて答えたら「ここで待っていて下さい」と態度とは裏腹に丁寧な言葉遣いで言われた。
怪しい者に見えるだろうけど、もし本当に副長のお客さんだとしたらのちのち問題になるからだと思う。
しばらくすると門番の人が帰ってきて、「こちらへどうぞ」と私を門の中へ誘導した。
広場の所々にいる隊士達が、ジロジロと私を見ている。
ドキドキしながら門番の人についていくと、この世界に来た初日に通った道を再び歩く事となる。
土方さんの部屋へと続く、薄暗い廊下。
先に見える角の部屋が、私と土方さんが初めて出会った場所だ。
あの日は夜だったから暗くてよくわからなかったけど、新撰組屯所内は思ったよりも賑わっている。
一体何人くらいの隊士がこの建物内にいるのだろう。
ぼんやりそんな事を考えていると、汚れひとつない真っ白な障子の前で門番の人が足を止めた。
「副長、なまえ様をご案内致しました」
障子の前でハキハキと伝えた瞬間、勢いよく障子が半分ほど開いた。
「ご苦労。下がって良い」
「はい!」
元気よく返事をした門番の人は来た道を引き返し、スタスタと軽快に歩いていった。
半分開いた障子の先には浅葱色の隊服を羽織った土方さんが姿勢良く立っていて、緊張から萎縮している私を見下ろしている。
「どうぞ中へ」
「……はい」
中には既に座布団が用意されていたから、そこに腰を下ろして持っていた風呂敷を横に置いた。
土方さんは私の向かいに腰を下ろし、正座をしながら腕を前で組んだ。
「驚きましたよ。一人でここまで来るのは勇気が要ったのでは?」
怒っているかと不安だったけど、驚いたと言いながら微笑む土方さんを見て安堵の息を吐いた。
「ちょっと勇気が要りましたけど、私からちゃんと謝りたくて……。あの、これ、昨日のお詫びと日頃の感謝の気持ちです」
果物の入った風呂敷を土方さんの前に置くと、少し驚いた顔をしたあとクスッと笑みを浮かべた。
「何を言っているんですか。謝るのは私の方ですよ」
「え……?」
差し出した風呂敷はそのままで座布団から立ち上がり、土方さんは以前羊羹を取り出した戸棚と同じ引き出しへ手をかけた。
そこから取り出した風呂敷は見覚えがあり、座布団の上に戻って来た土方さんの手の中にある竹筒を見て目を丸くした。
「美味しかったですよ。私のために作ってくれたんでしょう?」
おととい、寺田屋でおりょうちゃんと一緒に作った羊羹の入っていた竹筒が、綺麗さっぱり空っぽになって目の前に現れた。
これは一体……そう考えた瞬間、昨晩のお妙さんが頭をよぎる。
「もしかしてこれ……お妙さんが?」
「ええ。あなたが作った羊羹だから食べて欲しいと、昨日の夕方私の元へお妙さんが来たんですよ」
近所の人と食べてしまったというのは嘘だったらしい。
まさかお妙さんがあんな自然な演技と嘘がつけるとは意外だ。
だけどそれは、優しい嘘な訳で。
ますますお妙さんの優しさに胸がギュッとした。
「あんなの、吉乃さんから頂いた羊羹に比べたら……」
お妙さんの優しさは素直に嬉しいけど、土方さんの言う「美味しい」はイマイチ信用できない。
あの羊羹と食べ比べたら味の差は一目瞭然だろう。
俯いていたら前方に小さな影が見えたから目を向けると、それは白い和紙に包まれた、何やら小さくて薄い物。
「これは?」
「私からなまえさんへの贈り物です」
にこりと微笑む土方さんに少し安堵して、ゆっくりと和紙を開いていく。
すると和紙の中には、持ち手の部分に繊細な梅の花の彫り物が施されているつげ櫛が入っていた。
「つげ櫛……何でこれを……」
「欲しいと漏らしていたでしょう?」
当たり前だけどこの時代にはトリートメントやコンディショナーがない。
髪の手入れだけはしっかりしてきた私にとって、日々髪がパサついていくのは辛いものがあった。
そんな時おりょうちゃんから『椿油に漬け込んだつげ櫛で髪をとかすと綺麗になる』というのを聞いて、土方さんと伏見へ買い物に行った時にチラリとつげ櫛を見たのだけど、私の僅かなお小遣いでは買えるような値段ではなく断念した。
それを近くで見ていた土方さんは、しっかりとその事を覚えていてくれてたみたい。
「嬉しい! 早速使ってみても良いですか?」
興奮から大きな声が出そうになるのを抑え、丁寧に包まれたつげ櫛を手に取る。
「ええ」と落ち着いた声で返事をしたあと、土方さんはその場を立ち上がって私の隣へ腰を下ろしてから手を伸ばしてきた。
「私にやらせてくれませんか」
「え? 土方さんが……?」
予想しなかった土方さんの行動にぽかんとしていたら、手に持っていたつげ櫛を取られてしまった。
「あっちを向いてください」
私の肩を掴んで背中を向けるよう指示し、一つにまとめていた髪をほどいて触り始めた。
――土方さんの手が、私に触れている。
たとえそれが髪の毛だとしても、触られている感触が頭皮へと伝わり、心臓のドキドキへ変換された。
毛先がパサついた髪を触られるのは恥ずかしいけど、この幸せな瞬間をちゃんと噛み締めたいと思った。
「やはりなまえさんの髪はとても美しい。ずっと触りたいと思っていたんですよ」
後方から聞こえる土方さんの色っぽい低い声に心臓が止まりそうになってしまう。
「う、美しいなんてそんな……」
元の世界で"美しい"なんて言われたこと、一度もない。
恥ずかしがり屋の日本人がそんなワード言うはずもないから言われたいと思う事すらないけど、いざ言われるとこんなに嬉しいものなんだ。
土方さんのような綺麗な容姿をした人に言われると尚更。
それにずっと触りたいと思っていたなんて……嬉しくて飛び上がってしまいそう。
土方さんは髪をとかす手を止めず、心臓のドキドキで体が固まっている私の背中へ声をかけた。
「男性から女性へ櫛を贈るのが、どんな意味を持っているか知っていますか?」
「意味……?」
そんなもの全く耳にした事がない私の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
すると背後から土方さんのクスッと笑った声が聞こえた。
「結婚してほしい、だそうですよ」
「けっ、結婚?!」
"健康でいてね"とかそんな感じの意味合いかと予想していたから、突然出てきた"結婚"というワードに激しく動揺してしまった。
顔を真っ赤にしてあたふたしているのが後ろ姿でも伝わってしまったのか、今度はクスクスと笑う声が背後から聞こえてきた。
「なまえさんはからかい甲斐のある人ですね」
「えっ、もしかして嘘なんですか?」
熱くなった頬を手で包みながら、髪をとかし終わった土方さんの方へ振り返る。
私の手を掴んで手のひらを開かせると、持っていたつげ櫛をそっと乗せてきた。
「嘘ではありませんよ」
口角を上げてそう言う土方さんに何も返す事ができず、どこか真剣な瞳に吸い込まれそうになってしまう。
土方さんは何でこんな事を口にしたのだろう。
そう考えると更に心拍数が上昇し、ドクンドクンと心臓の音が大きく体内に響き始めた。
土方さんは私から目をそらすと、いつもの様に腕を組んで小さく咳払いをした。
「こんな風に弁明するのは情けない話ですがね、吉乃さんとはそういう……男女の関係ではないんですよ。昨日会ったのも、隊士達と店で飲んだ以来でしたから」
「……そう、ですか……」
吉乃さんの名前を聞いて昨日の出来事が蘇り、泣きそうになってあの場をいきなり去った自分の行動に恥ずかしさを覚えた。
だけどこうして土方さんから"何もない"と改めて聞かされて、心の奥では大きく安堵の息を吐いていた。
ほんの少し沈黙が続き、ぎこちない空気に息をするのさえ緊張してしまう。
すると土方さんは私の方を見て、イタズラな笑みを浮かべた。
「機嫌、直してくれましたか?」
「べっ、別に……それで落ち込んでた訳じゃありません!」
慌てて否定するも、余裕ある表情の土方さんは更に追い討ちをかけた。
「やはり落ち込んでいたのですね」
バレた。そう思いながらも、必死に否定する。
「違います!」
「……そうですか」
クスクス笑い、全然信じていないような顔で私を見る土方さんは、今までで一番いじわるな顔をしている。
というより、土方さんがこんな風に私をからかったのは初めてだ。
彼は今、どういうつもりで私に"結婚"だとか"吉乃さんとは何もない"とか言っているんだろう。
私が恋心を抱いてしまっているのがバレてしまっていて、それを面白がっているだけなのだろうか。
それとも、土方さんも私に対して少し……少しだけ思いを寄せてくれているのかな。
「土方さんのばか」
聞こえないよう、背中を向けてそっと呟いた。
甘い時間と、期待。
こんなのもう、気持ちを抑えるなんて無理に決まってる。






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