第九話 うつせみ

-drogar-

不意に、凄まじい痛みに襲われた。
思わずぎゃあと叫び、痛みの走った左腕をぎゅっと押さえ込む。あまりに突然、しかも凄まじい悲鳴を上げたので、傍らの薬師の男に声をかけられた。

「何か──どうかしましたか」
そんなことはどうでも良かった。私は元来た道を振り返り、立ち昇る煙に称賛を贈る。本来ならば起こるはずのない落雷、受けるはずのない痛みであった。
「あいつ…やりおったな──」

天候さえ歪ませるあいつの力の凄まじさを垣間見た。わかっていた筈だった。
痛みに顔を歪め苦く笑いながら、押さえていた手を見れば、火ぶくれができていた。そしてそれはじわじわと指先へ広がっていく。

──あいつは選んだのだ。私も問わねばなるまい。

「あんた。今すぐここから消え去るか、うちに喰われるか。選べ」
は、と呟いた薬師はことを理解できぬ様子で狼狽えた。この期に及んで理解できぬとは、と、揺らぐ人影を嘲笑う。
「あんた、よううちの山を荒らしまわってくれたなぁ。自分が死んどるんも気付かんと、そこいらじゅうふらふらしおってからに」


薬師──柾はあの日、雪山で息絶えていた。
それに気付かぬまま怨霊となり、自らの死も忘れ彷徨っていた亡霊である。詳しいことは解りようがないが、或いは山で絶えた者達の怨念が、彼をかたちづくったのであろうか。

銀翅はその事を知っていた。寧ろ知らぬはずはない。しかし、自らの衰えもあってか、男を見逃し続けたのだった。
──滅多にないことだけれども、どういう訳だか皆にも姿がみえているのだね。余程怨みが強いのだろう…。
銀翅はそう言って、実に哀しげに柾と名乗った男のことを憐れんでいた。

──そう事を荒立てずとも、春には勝手に出ていくだろう。彼は自分を薬師だと思い込んでいるようだから。…ごめんよ、病さえなければすぐにでも祓ってやれたのに…。
かつての銀翅であれば、そもそも這入(はい)らせすらしなかっただろう。そこまであいつは弱り切っていた。

生憎、冬だったので私にも大した力は出せそうもなかった。
万一なにか這入り込んでも、私が喰らって仕舞えばそれで終いだった。しかし今は冬であるが故に、人の姿を保つので精一杯である。

──これも因果だろうね。
何かを諦めたような呟きが、寒空に小さく響いた。


何のことだか解らぬと薬師は言った。そんなことは心底どうでも良かった。
春の兆しと共にようやく戻り始めた力を振り絞り、ひとときの間正体を晒せば、哀れな骸は腰を抜かしてへたり込んだ。

──私が守るべきは山。男ひとりとは比ぶべきもない。
私は身に受けた火ぶくれをいたみながら、感傷すら笑い捨ててがぶりと喰らった。

***

いつの間にか霧のように降り始めた細かな雨粒が、木々に移った小さな焔を消してゆく。
何かあってはいけないからと、葵には護符を持たせていた。この程度、どうということはあるまい。肝心の兄はといえば──どういう訳か無傷であった。

しかし幾分か、頸を掴まれていた腕の力が緩んでいる。
この程度なら、どうにか話くらいはできそうだった。

──そうこなくてはな。
あの家を統べる者が、この程度で死なれては困る。こちらが説くまでもなく、村は滅ぶであろう。しかし、やはり…。

「私が死ぬとき村も滅ぶ。貴方にもお分かりでしょう」
「貴様ごとき、居らずとも私が──」
兄というひとは、態度ばかりが尊大で力が伴っていない。村の者達とてそこまで馬鹿でもない。兄の不遜さはひたひたと彼らに伝わり、村人達からの要らぬ不信を招いている。

そう思いはしたが、既に死を待つばかりの私にとって、村の有様など二の次だった。
「ならばどうか見逃してください。私などもはや役に立たぬ、居らずともよいと仰るなら、せめてこの命が尽きる前に、私は」

「黙れ」
怒号と共に頬に痛みが走り、いつの間にか地に伏していた。…どうやら殴られたらしい。

──術を放つ事すら出来ぬとは、兄の底が見えたな。
そう胸の内で嘲笑ったが、そんな自分にももはや起き上がる力さえ残っていない。

「銀翅様…」
消え入りそうな声が届いた。何だろうと目を向ければ、葵がこちらをひどく痛ましい目で見つめている。

葵には手出し無用と伝えていた。それではあんまりだとかなり渋られたので、最初の一撃だけは許しを与えた。だから彼は、この有様を見ている事しかできない。
彼は悔いているのであろう。──ああ、自分にもっと力があれば、と。

──無闇に手出しをして、君が兄に目をつけられてはいけない。君は私の術で、兄には私の式神のうちのひとつと思われている。そう思われるよう振舞いなさい。私の命なしに動くことは許さない。
そう命じた事に後悔はない。私など、放っておいてもどうせ病で死ぬ命だ。ならばせめて、先に繋げることで()しとしようではないか。

「……兄上。じきに村は、物怪達で溢れかえります。既に何人か、成り代わられているやもしれません」
「そんなことは有り得ない」
──兄は、私の言葉にまるで耳を貸そうとしない。
「もはや村の結界など紙より薄い。私の力も日に日に弱まり、貴方はそれを補う力も持たない。いい加減に目を覚ましてください」

「あなた方にはもはや滅びしかないのです。ここで私を殺せば、さらに山を穢すことになる。そうなれば神の加護すらも失い、村は狐に食い尽くされる。──どうぞ選んでください。穏やかに滅ぶか、それとも苛烈な死かを」
「おのれ……」
どうせ言っても無駄ならばと、言葉尻に小さく呪いを織り込んだ。流石にそれは解ったのだろう。兄が奥歯を噛む気配がした。

解っていたはずの事実を突きつけられ、己の愚かさに動揺しているのか。
私など居らずとも良いと言いながら、兄は私に縋っている。病に削られて、こんなにも細く弱くなった私にさえ。
果てには、侮っていたはずの弟に呪われた。…思えば当然のことかもしれない。

ひどく目が霞む。瞼を開けているのも億劫になった。
──ああ、もうこの山を出るちからは残っていない。兄も倒せなかった。とうとう外へは出られなかったが、もう一度山の向こうを見ることはできた。多くを喪ったが、全力を出しきって、どうにか得られたものがあった。それで十分だ。あとは村と共に滅ぶだけだ。

私はただ、山の向こうだけを夢見ていた。

あの道をくだって、村をこえ里をこえ、なだらかな野を走り、やがては砂地へ。その先には広い広い海が広がっている……。

ああ、なんと美しい──

***

その様を、玄鋼は黙って見ていた。
不意に重々しく息をひとつだけ吐き、まるで何か妙案を思いつきでもしたかのように、一目散に元来た道へと足早に去ってゆく。
地に伏し、ぴくりともしなくなった銀翅を顧みようともしない。がさがさと耳障りな音だけを残し、それでも尚おれは、その場に留まっていた。

やがて、静寂が満ちた。

「…銀翅様」
言葉が漏れた。
「銀翅様。しっかりなさって下さい」


銀翅は言った。最期に試したい事があると。
村を荒らしたものの力を借りてでも、この村を出たいと。

問題は自分の体力が残っているか、それがすべてである。
もしも山の頂へ至り、それだけで己の身が限界だと思い知ったならば潔く諦めよう。薬師には兄の式神が憑いているから、何をしようと筒抜けのはず。兄との戦いは免れない。
そうなれば私は、山を傷つけることも辞さないだろう。死力を尽くして戦い、兄を凌ぎ、村を出る。それだけが望みだと。

それを聞いた瑠璃と共に、一様に息を呑んだ。
彼の決意は固かった。無茶だと言いたかったが、彼にもそれは解っていたはずだ。

最後に少しばかり弱々しく、彼は言い添えた。
──けれどももし、私が志半ばで(たお)れることがあったなら…


手に持つ弓を放り出した。軽すぎる音を立てて弓が落ちる。
倒れ込んだ銀翅に近寄る。口許に手をやると、まだ息があった。ならば、する事は決まっている。大きな荷を放り出し、代わりに銀翅を背負うのだ。

「銀翅様、諦めるにはまだ早いです。この先の里で養生すれば、貴方は自由です。…ほら、薬ならまだありますから」
腰につけていた袋を探り、中から薬草を取り出した。銀翅の口に薬草を喰ませ、えいやっと彼を背負う。

──柾という男は、薬の腕だけは確かだった。
柾を呼びに行く前の日の晩、銀翅から柾が故人であると聞いて、おれは到底信じられなかった。どこからどう見ても、彼は普通の人間だったからだ。

しかしこの道行きで、柾に肩を借りた銀翅がみるみる生気を失っていく様を見れば、銀翅の言った事は本当だったのだと信じざるを得なかった。
しかし、おれが何かしら無理を言って銀翅に肩を貸していれば、もっと早くにばてて、山の頂上にすら至ることなく全員が追手に捕まっていただろう。

──柾さん…。どうか、安らかに。
そう祈りながら、おれは前をしっかと見据えた。

銀翅は眠っているようだった。脈打つ心臓の熱が、おれの背から全身に伝わる。…まだ、終わっていない。
「おれは諦めてませんよ。貴方を里に…いえ、海に連れて行きます。…うまい魚でも食べて精をつけましょう。きっと、病なんか吹っ飛びますよ」

──答えはなかった。
降り続く雨が、おれの頬を伝って地面に落ちた。

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