-nostalgia-

賑やかな街を歩いている。
勤めを終え足早に帰路に就く男性。何かに気づいて立ち止まり、手元の小さな端末に目を向ける少女。
そのいずれもが、どことなく不安そうな面立ちであった。

何となく考えに耽っていると、不意に左手をぐいと引っ張られた。
「…おとーさん、あれ」
「うん? ――おや」

娘の指差す先には、ひとつの小さな(ヤシロ)が在った。
鳥居は目にも鮮やかな朱に彩られ、辺りの寒々しい色味からすれば明らかに異質であったが、誰ひとりとして見向きもしないのであった。――私自身、娘に教えられるまで特段気に留めていなかったくらいだから、不思議なことである。

「瑠璃は、あれが気になるのかい」
「うん」

買い物を終えた手前、本当なら一刻も早く帰りたいところではあったが、妙にその社が気になった。
「そうかい。…これも何かの御縁かもしれないし、少しお邪魔させてもらおうか」
そう頷いて、娘に促されるままに社へ参ってみることにした。

鳥居の前に立つと、小さくはあるが立派な社だと解った。
外から見ても判るほどに、よく手入れが行き届いているし、装飾も華やかさを保っている。

――成程、どうやら周りの者達からよほど敬われた神であるらしい。
そう感心を寄せつつ、一礼をしてから(アカ)い鳥居をくぐった。


その瞬間、水面へ墜ちるような感覚が走った。
ぞっとして顔を上げると、社の傍らに鎮座していた稲荷の像と目が合った。

――違う。此の社は稲荷ではない。

不意に確信を得た。…本来ならば水神のはずだ。しかし何故そう思ったのであろう?

――彼女は消されたのだから。…憶えていないのは無理もない話だけれどね。

内心に在る確信が、確かな声となって己を貫く。
…しかし当然のことながら、辺りを見回しても娘以外は誰も居はしない。

娘の小さな手が拍手(カシワデ)を打った。
――刹那、ざっ、と心の靄が晴れたようになって、何もかもを思い出した。

傍らで祈る幼子を見遣り、祈りが向けられた先を見遣った。――其処は、なにもいない、虚ろな社だった。

(かつ)て祈りを向けられていたのは、とても大きな力を持った蛇神であった。
(やが)て人々は其の祈りを稲荷へと向け、その稲荷すらも、畏れのあまり葬った。
――私はそれを知っていた。知りすぎていた。当事者といっても良かった。
その神に仕える身であったが故に人々に翻弄され、死してなお伝承となり人々に翻弄され続けている。――其れは紛れもなく私自身であった。

傍らに居る幼子は、知ってか知らずか懸命に何かを祈っていた。
思えば何という皮肉であろう。…嘗て神そのものであった彼女がこうして人の身に生まれ、嘗て自らの在った主なき社に祈る事となろうとは。

(むな)しいか? ――ほんの刹那の別れであろうに』
消された筈の声が届いた。咄嗟に(かしず)き、頭を垂れる。――嘗ての私にとっては当たり前の事であった。
「――貴女こそ。ほんの刹那の御別れを、仰りに来て下さったのでしょう」

『…、』――ふ、と笑んだような吐息が聞こえた。

(おもて)を上げよ。…相も変わらず殊勝であるな、そなたは』
「嘗て、己が成していた事をするだけです」

小さく笑い、白くちいさな神を見上げた。
もはや薄ぼんやりと浮かび上がるだけとなっている蛇神は、それでも変わらぬ威厳を保ち、此方に畏れを思い起こさせる。実に天晴(あっぱ)れであった。

『――そなたこそ天晴れであるぞ。並の人間であれば事を受け入れきれず、多かれ少なかれ取り乱すところよ。――それを、眉一つ動かさぬとは』
「おや、そう見えましたか。…これでも(いささ)か驚きましたけれど」

相変わらず心根は筒抜けらしい。…こう言っては何だが、とても消えかけの神とは思えぬ様である。
『…では、銀翅。――また、いずれ』
「はい。…有難う存じます。御懇情は生涯忘れません」

『…永劫、であろう?』
「――さて、如何でございましょう」

ぷっ、と声が弾け、広がった笑い声が遠くへ離れていった。
「…また、いずれ」
小さく微笑み返し、最期に深く頭を垂れた。

***

「…おとーさん、なあ」
「うん? ――おや」

娘がぐいとひっぱる先は、我が家である。
いつの頃からかすら分からないが、いつの間にか家の前でぼんやりと立ち尽くしていた。

「おとーさん、またぼーっとしとったやろ」
「ああ…いや…、」――違う、と言いかけて口ごもる。一体何を考えて、家の前に立ち尽くしていたのだろう?

「…そうみたいだね。ごめんよ」
いくら考えても何も思い浮かばないので、素直に謝った。幼い娘は呆れたような溜息をこぼし、玄関の戸に手を伸ばした。

「やーっぱりおとーさんには、うちがおらんとあかんのや」
「うん。いつもありがとう、瑠璃」

手荷物をよいしょと持ち直し、玄関の戸をぐいと開ける。
――ただいま、おかーさん。
そう言った娘の言葉にどことなく懐かしさを覚えながら、共に上がり框を踏んだ。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -