第六話 明けを待ちかね夜は深く

-drogar-

『…ああ、もう随分と夜が更けてしまいましたね』
白雨はそう呟いた。見れば、月が西の空に傾き始めている。

「そろそろ眠りましょうか」
『ええ。…お疲れでしょうに、長話をしてしまい申し訳ありません』

「あなたこそ。…安静にするよう言ったのは私なのに、無理をさせて済まない」
『なんの。聞いてくださって、幾らか気が休まりました』

「それなら良かった。おやすみなさい」
『おやすみなさい。……良い夢を』

白雨はその生い立ちからか、そばに誰かが控えていることを嫌っているようだった。
しかし、何か異変があったときに気付けなければ薬師である俺の立つ瀬がないと言うと、──衝立(ついたて)を挟むなら──と、渋々ながら折れてくれた。

俺はひとまず横になったものの、とんと眠れる気がしなかった。…いつもなら、どんな夜にでもいつの間にか眠っていて気づけば朝になっているというのに、今宵はいったいどうしたことだろう。
珍しいことに、どうやら気が昂っているらしい。──どうせ眠れぬのだから、白雨と名乗った男の身になって、身の上話を反芻することにした。

やがて、衝立を挟んだ向こう側から穏やかな寝息が聞こえてきた。どうやら彼は眠れたようである。
少しは気が楽になったと言っていたが、それはどうやら嘘ではなかったらしい。

一方で俺は、尚も悶々と考えに耽っていた。
──もしも自分が不治の病にも関わらず、強いられたつとめをこなさねばならなかったら。
ひとの病を癒せなければ、うらみを買うこともある。自分は流れ者だから、下手にうらみを買ったとしてもその場から離れればことが済む。しかし彼の場合は、逃れることさえできない。
逃れられないなら、人々の想いは増すばかりとなろう。うらみを買い、或いはひどく畏れられ、祭をするごとに崇められる。それはもはや人の生ではない。
神だ。ときに人々に恵みを(もたら)し、ときに(わざわい)をなす、神そのものだ。
人の身でありながら神として振舞う。なんと過酷な生業(なりわい)であろう? たとえ健やかな身を以てしても、決してひとりで負いきれることではないはずだ。
このままでは、人々の想いに窒息させられてしまう。そう予見したからこそ、村に一切のしがらみがない俺にならと、彼は助けを求めたのだろう。

──祈祷師、いや陰陽師か。……哀れなものだ……。

そう考えるうち、知らず知らずのうちに眠ってしまっていたようだった。気づけば夜は白み、夜明けを控えた頃合いになっていた。

俺はなるべく音を立てぬように気を付けながら、衝立の向こうを覗き込んだ。
白雨はどうやら眠っているようである。安静にしろと言ったにもかかわらず、ずいぶんと話し込んでしまった。その疲れもあるのかもしれない。

そっと男の傍らに座ると、白雨はしずかに目を開けた。

『…おや、これは柾殿』
「すまない、起こしてしまったか」

『……いえ。…私も随分と鈍くなってしまいましたね』
「…? どういうことだ」

『何でもありません』
彼はおそらく自分自身に向けたのであろう嘲笑を、なおも歪に残している。その向上心で自身を高めてきたのであろう笑みは、今やただの焦りとなって彼を傷つけるだけの凶器に転じていることに、当人は果たして気づいているのかどうか。

「…。具合はどうだ」
『さぁ。…悪くはありませんから、良いのでしょう』

その上この無関心ぶりだ。もはや自暴自棄とも言えるそれに、俺は思わず渋面を浮かべてしまう。
「…顔色が悪いな。少し診せてもらっても?」
『お願いします』
変わらぬ笑みを浮かべたまま、白雨は細腕で着物の前を開く。俺は嘲笑を受け流し、蝋のように白い彼の胸に触れた。

「…お変わりありませんね」
『それは残念』
無念さを拭えぬまま俺がそう告げると、白雨は心にもないことを易々と言い放ち、襟を正す。一応は俺を頼っているようすだが、或いはそれもただの見せかけだけなのかもしれず、実際のところは解らない。

「…あなたは一体、何がそこまで可笑しいのですか」
──他人(ひと)の心を知るには、本人に尋ねるに限る。
『…これですか』
俺が問うと、白雨は自らの口許に手を伸ばした。

『可笑しくもないのに笑うなと、よく言われます。…癖のようなものです。村の者達の畏れを、少しでも祓いたくて』
「つまり…より親しみやすく、ということですか?」

『そのようなものです』
俺の問いに頷いた白雨の笑みは、先程のそれよりも些か好意的に見えた。
「…楽しくもないのに笑うなど、却って気味悪がられますよ」

『成程』
──刹那、そう思っているのはお前だろう。と見透かされたような気がしたが、尚も微笑みかけられてはかける言葉も見つからない。
『ご忠告、痛み入ります』

そうは言いつつも本心をさらさぬ白雨に、俺は重ねて伝えた。
「無理をしたところで、案外、相対者(あいて)にはわかってしまうものですよ」

『そのようですね』
白雨にはどうにか通じたらしい。あとは、彼の変化に任せるしかないだろう。そう考えていると、彼は続けて言った。
『…さて、そろそろ皆を起こしましょうか』

『あなたも、そう長居していられないでしょう。…山を出るのです』
「えぇ、まぁ、それはそうですが…」

『私がここでこうしていても、決して快方に向かうことはない。寧ろ日に日に悪くなるばかりでしょう。それくらいは判っています』
「……。…………」
『今日は日も悪くない。向かう先も、方違(かたたが)えが必要な方角でもない。…出るならば今日は逃せません』
「…そうなのですか」

『ええ』
白雨は少し寂しさがまじった目をこちらに向けた。──どうせ信じてはもらえぬのだろう、とでも言いたいのかもしれない。

「…では、そのようにしましょう。支度を手伝います」
方違えも吉日もいかがなものか、と一瞬思いはしたが、要するに本人が行きたがっているのだと考えて折れることにした。葵に声を掛けようと立ち上がり、居室を後にする。

『世話になります』
俺の背に、小さく弱々しい声が届く。隙間風が通り抜け、居室の灯りを揺らめかせた。

──頼む、まだ消えてくれるな。
心に浮かんだ小さな祈りは、何に宛てたものだったのだろう。

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