第五話 白狂

-drogar-

「これは私の手に余ります。薬は出してみますが…生憎今は手持ちがほとんどありません。なるべく安静にしているように、としか申せません」
──俺がそう言うと、襟を正した男は言った。
『ありがとうございました』

葵が、なにか言いたそうに男とこちらを交互に見ている。男はそれを黙殺し、こう続けた。
『あなたの旅に幸多からんことを』

「…お大事になさってください」
それだけを言い残し、まるで彼の言葉に背中を押されたように、俺は男に背を向けた。
すると、凛とした葵の声が俺の背にかかった。

『…どうかこの方を、山の頂へ連れていってくださいませんか』
俺ははたと歩みを止める。──このまま山を下るのならどうせ通る道だが、しかし男を安静にさせろと言った手前、易々と応じられるわけではなかった。

「……命に関わります」
誰の、かは敢えて言わなかった。俺自身、彼らにこれ以上関わればただでは済まないだろうと薄々察していたからだ。

『先程の非礼、重ねてお詫びします。ですからどうか、あなたの力を貸してください』
それもわかった上でのことだろう。尚も、葵は俺に頼み込んできた。

ふと、男の怪訝そうな声が届いた。
『…葵、君は彼に何を伝えたんだい?』

『え。えぇと…、ある人を村の外へ連れ出してほしいというお願いをしました』
『それから?』

『……もしも話を聞けば、あなたは命を懸けることになる、と……』
『成程。道理で妙に、怯えておいでだと思った』

男は不意にからからと笑った。その声音の明るさに驚いた俺が振り向くと、男は口許に手をやって必死に笑いをかみ殺していた。
やがてその笑いに苦しそうな咳が混じると、傍らの女が男の背に手をやって、尚も心配そうに覗きこんだ。

男は咳を噛み殺し、大事ない、とだけ言うと、まっすぐな目で俺を見た。
『……失礼いたしました。この子に重ねて私からも、お詫び申し上げます』

空気が冴えた。まるで木々や風さえも彼の言葉に聞き入っているかのように、しんと静まり返っている。
『突然命を懸けろと言われて、さぞご不快に思われたことでしょう』

「…あなた方は何の話をしているのですか」
風さえ守る静けさを破ることが何となく後ろめたく感じて、重々しく口を開いた。──いや、単に彼らの真意を聞いてしまうことが、恐ろしかっただけかもしれないが。

『何、たいしたことではありません。ただここを出て、遊山に行こうというだけの話ですよ』
「とてもそれだけには思えない」

俺は尚も食い下がったが、男はそれを飄々とかわした。
『いえ、それだけのことです。…しかし、私のこの身の有様では山を越えることさえ難儀なこと。それ故、あなたの手を貸してほしいと願い出たのです』

「……。…………、それで?」
それだけで済む話ではないだろう。そう勘づいた俺が先を促すと、案の定男は目を細めた。
『ただ、私のことをこの山に留めたい者がおりまして。私が山を出ようとすれば、それこそ死物狂いで行く手を遮ろうとするでしょう。この子は、こちらのいざこざにあなたを巻き込むことが、心苦しかったのです』

「…そうですか」
一応は頷いたが、腑には落ちていない。
「……、あなたは一体、何者ですか?」
なかなか腹の内を見せない男に、少しずつ苛立ちが募っていく。

『私が物怪に見えますか?』
こちらは真剣に聞いているのに男はそう言って、茶化すようにおどけた。男をキッと睨みつけ、俺は尚も続ける。

「…。なぜあなたは、私のことを──私があの件を話していないということまでもを、ご存知なのですか」
『あなたが生きて、此処へお出でになったからです。あなたがもしも誰かに話せば、命はなかったはずです。此処へ来られるはずがない』

「あの脅しは、生半なものではなかったのですね」
『ええ。あれは間違いなく、あなたの命を奪うでしょう。闇に潜む猫と同じ。音もなく、速やかに。──それは、例えあなたがこの村を出ても変わりありません』

「……、私が死ぬまで、ですか?」
『そうです。気付いておられないかもしれないが、それほどの強い呪いを、あなたは受けておいでだ』


そこまでを聞いて、俺は堪えきれなくなった。
「……馬鹿馬鹿しい。あなたは余程、あの祈祷師に心酔しているとみえる」

『…ほう?』
男の眼が鈍く光った。

「呪いなど信じない。病は薬で治るのです。物怪の障りだとか、呪いだとか。そんなものはあるわけがない」
『私の病ごときさえ治せないあなたが、何を言うかと思えば。──あなたはたかが病と軽んじているようですが、もし薬を飲んでも治せない病があれば、物怪の障りと呼んでも差し支えないのでは?』

男の言葉が頭に来たが、冷静に振舞うことに努めた。──いけない、相手は病人だ。そう自分に言い聞かせつつ。
「あなたが信じるものを否定するつもりはない。だが、私が信じるかどうかは私が決める。あなたのように、目を濁らせたりはしない」

そこまでを強く言い切ると、男はひどく冷えた眼差しを俺に向けた。
『……あぁ、そうですね。実に馬鹿げている。あなたのような神も仏も信じない盲目な者のために、私がどれ程骨を折ってきたか』

「何…?」
『危ないものを危ないと教えても、それを信じないが為に神の怒りに触れ、困ったことになった、助けてくれ、何故こんなことになったのか、お前たちがつとめを果たさぬからだと、どれほど罵られたか。──そうですか、そんな馬鹿げたものの為に私は身を削ったのだと、あなたはそう仰るのですね』

俺はそこでようやく気づいた。なにかとんでもないことを言ってしまったのだと。
──ああ、これぞまさしく後の祭り…。

男は堰を切ったように語っている。…歯止めが効かなくなったのだろう。男の立場からすれば、それも当然のことだった。
『……私を狂信者かなにかだと思っておいでのようですが、…違いますよ。──家の為に、病の身でありながら長年それを隠し続けた。村人共が視ることさえ敵わない物怪を退治して気味悪がられ、家を継げぬ故に、家督を持つ者に手柄を奪われ続けた。村の者共の幼稚な願いに耳を傾け、叶えなければ悪評を背負い、叶えれば神が如く崇め奉られる。
私はあなたが愚かだと嗤った、陰陽師です。──あなたは祈祷師と呼んでいましたね』

ついさっきまであれほどあった静寂が、俺自身の中を巡る血の鼓動で埋め尽くされている。恐ろしさに息を飲み、喉は震えるばかりで声すらも出せない。
ああ、辺りに満ちたこの気配はもしや──……

殺気に竦み、言葉を失っていると、男は瞳の光をそのままに、穏やかに微笑んだ。
俺は戦慄している。──あの村で力を持っているのは祈祷師たちだ。その中でも、こんな山の中で隠れ住むように密かに棲んでいるこの男こそ実は、最も権力を持つ者なのではないか。…あり得ない話ではない。
そしてその男に俺は、最もやってはならない事をしてしまったのではないか、と。

「…言葉を選ばなかった。申し訳ない」
俺は、言動を努めて慎重にすることにした。…生唾を飲み込み、震えた声を絞り出す。

『結構です。それは此方も同じですから』
男は思いの外淡白に告げた。あれほど満ちていた殺気も消えていた。…実に掴み所のない男だ。──村の一番の権力者かもしれないというのは、些か考えすぎなのかもしれなかった。

「……あなたは、…物怪が見えるのか?」
思えばそれは愚問だったかもしれない。しかし男は刺々しくも簡潔に答えた。
『視えますとも。でなければ、つとめに出られませんから。──信じていただかなくとも構いませんが』

物怪や呪いの類いを信じたわけではなかったが、自身の軽率な発言でこれまでの男の総てを否定してしまった俺は、弱みを握られたも同然だった。
「……あなたを手助けする代わりに、その呪いとやらを解いてくれるのなら、話に乗ろう」

『お安い御用です。──些か対価に不足がありますね。…この山を下るまでの間、私の全力を以てあなたの身をお守りしましょう。これならば、過不足もありますまい』

──そんなぼろぼろの身で、一体何を守ろうというのか。
そう思った俺の眼差しを受け、彼の笑みに苦々しさが広がった。

『あなたは道を指し示してくださるだけで良い。もしも我々があなたの足を引くようなことがあれば、遠慮なく捨て置いてくださいね』
男の言葉に、女と葵も頷いた。どうやら彼らはまさしく命を賭けるようだ。ほかの誰にも知られていないその企みに、俺だけが何も賭けずにのこのこと加わろうとしている。

「……命懸けとはよく言ったものだ」
『あなたの道行きに、我々もついてゆこうというだけですから』
それで良いのだと白雨も笑った。実に奇妙な男だ。

──この家を出てからは、一言も声を漏らさぬように。さすれば、私の術があなたの守りとなるでしょう。
つい先程、殺意さえ向けた相手にぬけぬけとそう言えるのだから、もはや彼の中を渦巻く感情は狂気に近かっただろう。

──私はこの望みを叶える為なら何だってする。それだけのことです。
淡々と紡がれた白雨の言葉には、もはや何の感情も宿っていなかった。

薬師という稼業についていながら、捨て身の人間というものを、俺は初めて間近で見たのだった。──だから、興味が湧いた。
「あなたがつらくなければだが。…ここを出るまでの間に、あなたの身の上を詳しく聞かせてほしい。もちろん、あなたが話せる範囲で構わない」

『おや。()れ言を(のたま)う愚か者の話に興味が出ましたか? ──まぁ良いでしょう。…あなたが飽きるまで、聞かせて差し上げましょう』
白雨は皮肉を口にしつつも、俺に乞われるがまま、訥々と身の上を話し始めた。…そうしている間は、不思議と彼の病も治まっているのだった。

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