翌日、父さんは無事に退院することができた。担当医師の説明によると、やはり軽い熱中症だったらしい。安堵の息を吐いたオレを隣で見ていた父さんが「な、言っただろ?」とあどけなく笑う。オレは何も言わずに退院手続きを済ませ、荷物を持つと父さんよりも一足先に病院を出た。
停留所でバスを待つ間、少し遅れてやってきた父さんはオレの隣に並んだ。暫しの沈黙が流れる。油蝉の暑苦しい鳴き声と目の前を走る車のエンジン音だけがこの空間に響き渡った。

「なぁカカシ」

先に沈黙を破ったのは父さんだった。自分と同じくバスを待ち、隣で佇む父さんの顔を見る。父さんの顔は相変わらず優しく微笑んでいて、目元には以前よりもくっきりと皺が刻まれていた。

「なに?」

ぶっきらぼうな言い方をしてしまったのは、いつの間にか年を取った父親の現実を受け入れたくなかったから。自分の知らないところで、目に触れぬ内に親が変わってしまうのは、何故かとてつもなく怖かった。

「元気でやってるのか?」

父さんの声はカラッとした乾いた声だった。自分の湿った心とは真逆の、まるで夏の太陽みたいだった。

「元気でやってるよ」
「そうか」

父さんに優しい瞳を向けられると、全て見透かされそうな気持ちになる。これは昔から思っていたことで、少し苦手だった。オレは心の内を悟られぬよう、父さんの視線から逃げるようにスマホに目を向けた。
スマホは電源ボタンを押しても画面が真っ暗だった。恐らく、充電が切れたのだろう。
オレはふと彼女の顔を思い出した。同時に薄暗い店内で交わしたキスのことも。あの子はオレのことをどう思っているのだろう。もしかしたら嫌われたかもしれない。今度会ったらちゃんと謝りたい。いや、それよりも、好きな気持ちを伝えなくちゃ。謝罪の言葉と告白の言葉。炎天下の中、悶々と考えに耽ていると、頭が茹だってしまいそうだった。

しばらくすると、バスが到着した。父さんを支えながら車内に乗り込む。ようやく涼しい場所へと移動でき、ホッと安堵の息を吐くと隣に座る父さんも同じことを思ったのか「涼しいな」と笑みを零しながら車窓から見える景色を眺めていた。

家に着いて早々、父さんは庭の畑を見るなり「水やりをやらなくては」と慌てた様子で言った。シャワーホースを引っ張り出し蛇口を捻ろうとする父さんを「いいから」と制する。

「オレがやっとくから父さんは着替えて横になってて」

父さんは「すまないな」と謝ると、家の中へ入った。それを見届けたあと、蛇口を捻り、シャワーヘッドを畑に向ける。ザーッと雨のような音を立てて散水すると、野菜に水が当たった。
真っ赤に熟れたトマト。生き生きとした胡瓜の緑。艶があり美しい茄子の紫。父さんが手塩にかけて育てた色とりどりの野菜達。どれも立派な夏野菜だった。知らなかった。父さんがこんなにも丁寧に大切に育てていたものがあったなんて。

水撒きをし終え、家に上がると寝室で寝ているはずの父さんがリビングで書き物をしていた。横になっててって言ったのに。軽く苛立ちを覚えつつ、何をしてるの?と訊ねると、父さんは顔をゆっくり上げ、「暑中見舞い」と一言だけ答えた。

「暑中見舞い?」
「ああ。お世話になった人達に毎年ハガキを送っているんだよ」

目を細めながら懐かしげに話す父さんは、きっとハガキを送る人物を思い出しているのだろう。知らなかった。こんなに楽しそうにしている父さんの姿を。そういえば、オレにも父さんから毎年暑中見舞が送られてきたっけ。こんな風に楽しげに書いているのなら、ちゃんと返信すれば良かったな。

「すまない、カカシ。そこの引き出しからハガキを取ってくれ」
「分かった」

父さんに指示された通り、リビングの端に置かれたタンスの引き出しを開ける。確か、便箋やハガキ類は2段目の引き出しに仕舞われていたはず。奥まで手を伸ばし、しばらく探してみたが、それらしきものは見当たらない。

「ないけど?」
「そんなはずはない。この前買っておいたばかりだ」

そんなこと言われたって、ないものはない。小言を心の中で呟きながら引き出しの奥を覗き込み、再度ハガキを探す。もしかして、これか?見つけたのは白い紙。手に取ってみると、それはハガキではなく、封筒だった。

「これって…」

色褪せて、少し黄ばんだ封筒に宛名は書かれていない。だが、オレにはすぐに分かった。これはオレが学生の頃に渡したくても渡せなかった手紙。彼女、柳井ナツミに宛てた手紙だ。大切な夏の淡く切ない思い出が一瞬にして蘇る。綴じられていない封を開けてみると、二つ折りにされた便箋が入っていた。

『君が好きです』

読み終えるのは一瞬だった。たった一言だけど、その言葉は重たく、胸を貫いた。そして同時に笑いが込み上げてきた。そっか、今も昔もオレは変わらない気持ちを抱いていたんだ。10代の頃からこの恋を燻っていて何も進めず、立ち止まったままだ。体だけ大きくなって、心はあの頃のまま。自分は大人になれた気がしたのに、実際には大人のふりをしていたんだ。言葉なんてどうでもいい。好きな気持ちをぶつけないと進めない。

「見つかったか?」

背後から父さんの声が聞こえてハッとする。振り向くと、父さんは何故か微笑んでいた。ごめん。見つからなかった。謝ると、父さんは「いいんだ」とまた笑みを零した。

「じゃあ、オレは少し休むとするかな」
「ハガキは?」
「また買うとするさ」

父さんは筆記用具を片付けると椅子から腰を上げた。「お前はゆっくりしていきなさい」オレの肩を叩き、リビングを後にすると寝室へと消えた。

バタン、ドアが閉まる音が耳に入る。しばらく一人でいると、再びどうしようもない気持ちが訪れた。無意識にギュッと手紙を握りしめる力が強くなる。

じっとなんてしていられない。懐かしいあの場所へもう一度行きたい。あの場所へ行けばもしかしたら、何か変わるかもしれない。皺ができてしまった手紙を無造作にポケットに突っ込むと、靴を履き、玄関の扉を開けた。

逆回りのピリオド


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