金曜日の夕方。無事に仕事を終わらせ、定時で帰ろうと椅子から腰を上げた時、不意にスマホが鳴った。画面に表示されている名前は「ガイ」の二文字で、珍しいなと思わず呟いた。 ガイは実家のすぐ近くに住む幼馴染だ。生まれ育った土地から離れたくないからと上京せず、今では飲食店を営んでいる。 地元にいた頃は常にオレと張り合い、何かしら理由をつけては勝負をしろと挑まれていたが、上京してからはその数もめっきり減った。もしかするとこの電話は久しぶりの挑戦状かもしれない。面倒だなぁと思いつつ、画面をタップし、スマホを耳に宛てた。 「はい」 「カカシか?」 てっきり「勝負しろ!」と耳元で叫ばれると思い身構えていたが、聞こえた声が意外にも冷静で肩透かしを食らう。 「そうだけど。何?」 オレの番号に電話を掛けているんだからオレ以外出ないでしょ。心の内で突っ込みを入れながら答えると、ガイは一呼吸置いてから「いいか、落ち着いて聞けよ」と前置きした。 「サクモさんが倒れた」 「え?」 頭の中が真っ白になった。父さんが、倒れた?そんな、まさか。オフィス内はクーラーが効きすぎて寒いくらいなのにジトッとした不愉快な汗が背中に流れた。 「庭で倒れているのを見つけたんだ。今は救急車で病院へと向かっている」 言葉が耳に入って来ない。黙り込むオレにガイが「カカシ」と、強くオレの名を呼ぶ。 「今はとにかくオレがサクモさんを見ているから、お前も急いで帰って来い」 ガイは一方的に言い放つと、電話を切ってしまった。ツーツーと無機質な機械音が頭に鳴り響く。まるで頭を鈍器で殴られたように痛い。ぐらぐらと、目眩がする。 父さんが倒れるなんて、そんな、 思い出すのは昨年実家に帰った時に目にした父さんの背中。それはいつもと変わらずに広く、大きな背中だった。オレのために働いてここまで育ててくれた父さんは一度だって体を壊したことがなかった。だからオレは勝手に思い込んでいた。父さんが元気で生きていることは、当たり前なのだと。親だって、自分と同じ人間なのに。 「先輩、大丈夫ですか?顔色悪いですけど」 突っ立ったままのオレを怪訝に思ったのか、隣にいたテンゾウが声を掛けた。ハッとし、我に返る。 「父さんが倒れた」 「え、大丈夫なんですか?」 「分からない」 分からない。何も。だから今すぐ父さんのところへ行って、確認しなくてはならない。 「…テンゾウ、悪いが一つ頼みがある」 テンゾウは不思議そうに目を丸くすると「なんですか?」と訊ねた。オレはデスクに置いてあるポストイットにペンを走らせた。書いたのは『柳井さん、今日はごめんね』の一言。 他にも伝えたいことはあったが、言葉を増やすほど軽薄に思えてそれ以上は書けなかった。書き終えた紙を一枚だけ捲り二つ折りにして、テンゾウに渡す。 「これをある女性に届けて欲しいんだ」 「もしかしてこの前駅前でアンケート調査していた女性ですか?」 「…お前の察しの良さにはつくづく驚かされるね。ホント」 嫌味のつもりで言ったのにテンゾウは気にも止めない顔で「ありがとうございます」と言った。 「場所は会社の二次会でよく行く居酒屋。時間は8時ね」 「それならちょうど良かった。実はボク、店の近くにある本屋に寄ってから帰ろうとしていたので」 毎月購入している建築雑誌が今日発売日なんです。嬉しそうに話すテンゾウに「ちょっと、絶対に忘れないでよ」と釘を刺す。 テンゾウは「分かってますよ」といつもの調子で笑い、メモ紙をシャツの胸ポケットに仕舞った。 「じゃあ、お礼はまた今度するから。頼んだからね。あと、くれぐれも父さんが倒れた事は彼女に言わないでね。心配かけるから」 「はい、お任せください」 最後までテンゾウに念を押す。テンゾウは「はいはい」と軽く返事をした。 会社を出てから急いで駅まで向かう。今の時刻は夕方6時。今から新幹線に乗っても現地に着くのは夜になってしまうだろう。 父さんの容体が気になってガイに電話を掛けてみたが、繋がらない。父さんは無事だろうか。考えれば考えるほど、悪いことばかり想像してしまい、怖くて足が竦む。額に滲んだ汗を手の甲で拭うと、止まったままの足を動かした。 新幹線に乗り、車窓から見える景色に目を向ける。都会から田舎へと移ろぐ景色を見ている内に心が穏やかになってゆく気がした。父さんはきっと大丈夫。大丈夫。大丈夫。何度も呪文のように頭のなかで唱え、目を閉じた。 駅に着き、終バスの時刻ギリギリに乗り込む。乗客はオレの他に三人いた。一人掛けの席に座り、視線は外の景色に向ける。夕刻はとっくに過ぎたので、辺りは薄暗く、飲み屋のネオン看板が目立っていた。バスが発車し、車内が静かに動き出す。 しばらく目的地まで向かっていくと、学生の頃によく遊んでいたボーリング場が視界に入った。懐かしいなと横目で見ていたが、入り口に『閉店』と大きく書かれた貼り紙を見つけて少しだけ落胆した。青春の場所が一つ消えてしまった。 病院に着き、受付で父さんの病室を聞いてから、足早に廊下を歩く。あった。ここだ。部屋の入り口に『はたけサクモ』と書かれた名札を確認し、立ち止まる。そのまま戸を引けばいいのだが、怖くてなかなかできない。大丈夫、大丈夫、大丈夫。先程と同じ言葉で何度誤魔化そうとしても、うまくいかない。だが、逃げては駄目だ。得体の知れない不安を必死に振り払うと、グッと手に力を入れ、戸を引いた。 病室は相部屋だった。4つほどベッドが置いてあり、左側の奥が父さんが寝ているベッドだった。カーテンが引かれているベッドへと静かに歩み寄る。近付くに連れて話し声が聞こえた。ガイの声だ。 ガイがいることに少しだけ安堵し、ゆっくりとカーテンを開く。 「え?」 二人の様子を見て愕然とした。そこには笑いながらアイスを食べている父さんとガイの姿があったからだ。 「おう、カカシか。待ってたぞ」 先に声を掛けてきたのはガイだった。黒髪おかっぱ頭は昔も今も変わらない。 「意外と早かったな。お前も食べるか?」 ガイは誰かからの見舞いの品であろうカップアイスをオレに差し出した。 「いい。いらない。それよりも大丈夫なの?」 上半身だけ起き上がりながらアイスを食べる父さんに訊ねると、「ああ、大丈夫。大丈夫」と目尻に皺を寄せながら笑んだ。 「いやー、定年したあと畑でもやろうかと思ってね。慣れない環境で作業していたら軽い熱中症になって倒れちゃったよ」 まるで他人事のように軽い口調で言ってからスプーンでアイスを掬い、口へと運ぶ。 軽い熱中症?今にも危ない状態だと思って駆けつけてきたのに。オレはガイへ視線を向けた。ガイはオレを見るなり白い歯を見せて笑う。満面の笑みだ。 「良かったなカカシ。サクモさん何事もなくて」 「お前ねぇ…いちいち大袈裟なんだよ。何度電話しても繋がらないし。なに、オレを困らせたいの?」 「ムッ…大袈裟ではないぞ。電話も気付かなかっただけだ。それにオレは本当のことを伝えたまでだ」 ガイの言葉に思わず溜め息が漏れる。オレがどれだけ心配してここまで来たと思ってるのよ。文句を言ってやろうと口を開くが、オレとガイのやり取りを見ていた父さんが「まぁそう言うな」と制した。 「ガイが見つけてくれなかったらもっと大変なことになってたんだぞ。まずは礼を言いなさい」 久しぶりに聞いた威厳のある低い声。昔から父さんに怒られるのは苦手だった。しかし、今となっては元気な父さんの姿を見れて心の底からホッとする。ガイに謝ることは未だに納得できないが、父さんに言われたなら仕方ない。オレはガイに顔を向けると、 「悪かった。父さんを助けてくれてありがとう」 と、詫びの言葉を口にした。ガイは「なぁに礼はいらん!」と手を腰に当てて笑う。誇らしげな顔を見て、思わず笑みが溢れた。視線を父さんに向けると、父さんも朗らかに笑っている。父さんの懐かしい笑みは不思議とあの頃を思い出させる。あの頃とは、学生の頃だ。 彼女はどうしているだろう。 カーテンの隙間からは夜の空が見えた。外はすっかり暗い。テンゾウはあの紙を渡してくれただろうか。彼女は読んでくれただろうか。 行けなくて、ごめんね。 彼女への後ろめたい気持ち。父さんが無事でいてくれた嬉しい気持ち。二つの複雑な気持ちを抱きながら、都会では決して見ることができない澄んだ夜空を見つめた。 夜はまだ二人のものじゃない |