乱れた呼吸を整えてから校舎を見つめる。今は夏休み中だろうか、校庭には誰もいなかった。部外者である私はフェンス越しにある校舎を見ることしかできない。 昇降口には真っ赤に咲くサルビアの植えられたプランター。夏の陽光が眩しく反射する窓。埃っぽい砂の匂い。どれもこれもあの頃の思い出を蘇らせるには充分な景色だった。 私は校舎に背を向けて、フェンスに寄り掛かった。炎天下の中、帽子も被らずに走ってきたものだから暑い。あと少ししたら帰ろう。こめかみに流れる汗を感じながらギュッと目を閉じた。 「柳井さん?」 どれくらいこの場にいたのだろう。何度も帰ろうと思った。だけど足が動かなかったのは、この声を待ち望んでいたからかもしれない。 目をそっと開いてみた。熱い日差しがとても眩しい。だけど、それ以上に眩しかったのは、目の前で輝きを放つ白銀の髪の持ち主だった。 「はたけくん」 彼の名が唇からこぼれ落ちたと同時に彼の額から汗が流れた。彼はいつも涼しい顔をしているから夏の暑さなど無縁だと思っていた。だけど、汗を掻く姿を見て、自分と同じ人間なのだと当たり前なことを思った。 「「どうしてここに?」」 二人同時に声が重なり合った。見つめ合い、ふっと笑い合うタイミングも一緒で、照れ臭く感じた私は落ち着かせるために息を吐いた。 「ここに来れば柳井さんに会えるかと思って」 先に答えたのは、はたけくんだった。私は嬉しい気持ちを隠しながら「そっか」と相槌を打つ。自身の声はようやく彼に会えた喜びと緊張で少しだけ震えている。 「私も一緒。ここに来ればはたけくんに会えると思って。…お父さんは大丈夫?」 私の問いにはたけくんは驚いたように目を見開くと「どうして知ってるの?」と聞き返した。 「テンゾウさんから聞いたの」 「テンゾウが?」 「そう。メモを渡しに来てくれた時に話してくれて」 「アイツ…言うなって言ったのに」 はたけくんは溜め息を吐くと、今度は眉を八の字に下げて私の目を見た。 「父さんは無事だよ。心配かけてごめんね」 きっと彼もお父さんの容体が心配で仕方なかったのだろう。私も「良かったね」とホッと安堵の息を吐くと、はたけくんと同様、自然に笑みが溢れた。 「もしかして、それでここまで来てくれたの?」 「ごめんね。いても経ってもいられなくて」 彼女でもないのにここまで来るなんて流石に引くよね。誤魔化すように笑いながら言い放つとはたけくんは「そんなわけない」と否定した。 「そんなわけないよ。…むしろ嬉しい」 照れ臭そうに微笑むはたけくんの頬はうっすら赤い。その表情、言葉を受けた私の頬も必然的に熱くなる。今なら言えるだろうか。好きと書かれた手紙はショルダーバッグの中にある。意を決して「あのね」と言うと、バッグの留め具に触れた。 「私、はたけくんにどうしても伝えなくちゃいけないことがあって」 声と手が震えている。水色の手紙を取り出し、はたけくんにそれを渡した。 はたけくんは一緒だけ不思議そうな表情を浮かべると、私の手から手紙を受け取った。 「…読んでもいい?」 緊張で声が出ず、代わりにこくこくと頷く。私の了承を得たはたけくんは長い指先を使って、金色のシールを剥がす。長年の封印が今、静かに解かれる。中学時代から今まで燻り続けていた思いが今ようやく浄化される。手紙の内容は「君が好きです」のたった一言。読み終えるのは一瞬だろう。 『怖い』『嬉しい』複雑な気持ちが交互に私を襲った。 読み終えて、手紙の内容を把握したはたけくんは顔を上げた。必然的に私と目が合う。 「この手紙に書いてある気持ちは今も同じ?」 彼からの質問に私は深く頷き、口を開く。 「今も昔も同じ気持ち。…私、はたけくんのことがずっと好きでした」 なんとか振り絞って吐き出した声は情けないほど頼りなくて、ちゃんと伝わったか不安になった。下を向き俯いた私の視線の先にははたけくんの足元。彼が今日履いている靴は革製ではなく、中学の頃によく履いていたメーカーのスニーカー。大人になった彼とあの頃の彼。私の記憶のはたけくんと重なり合った。 「実はね、オレも中学の頃に柳井さんに手紙を書いたんだ」 彼はポケットに手を入れると、手紙を差し出した。しわくちゃになってしまった白い手紙は少しだけ黄ばんでいる。私はそれを受け取ると、手紙を読んだ。 『君が好きです』 読み終えるのは一瞬だった。私は息を呑んで、彼を見た。 「オレね、」 優しく語りかけるように静かに彼は言葉を紡ぐ。私は必死に泣き喚く蝉の声を掻き分けながら彼の声を一つずつ拾ってゆく。 「柳井さんがずっと好きだった。あの頃から。ずっと」 本当に?驚きで声にならず、代わりに彼の顔を見て確認すればはたけくんは微笑みながら大きく頷いた。 「これが柳井さんにずっと言えなかったオレの秘密」 手紙に書かれていた言葉、『君が好きです』これがはたけくんの秘密。くしゃりと笑ったはたけくんの視線の先には私がいる。昔と変わらない深海のように暗い瞳。風で揺れる白銀の髪。はたけくんの目にもあの頃の私と変わらないままで映っていればいいのに。 しばらく私達は暑い日差しの下で話をした。あの頃、どんな気持ちではたけくんを待っていたのか。どんな気持ちで私を見ていたのか。まるで、止まっていた時間を取り戻すかのようにお互いの気持ちを夢中で話した。私はフェンス越しにある校舎を懐かしみながら話す彼の横顔をこっそり見つめては、夢のような時間を過ごした。 「そうだ。ちょっと待ってて」 はたけくんは何かを思い出したかのように言うと、学生の頃にはまだなかったコンビニへと走って行った。どうしたのだろう。疑問に思いながらフェンスに寄り掛かり、ぼんやりと彼を待つ。空を仰げば先程よりは日差しが柔らかくなっていて、もうじき夕刻なのだと気付く。遠くでひぐらしの鳴く声が微かに聞こえる。哀愁漂う夏のこの時間帯は私をいつも少しだけ切なくさせた。 「お待たせ。これどーぞ」 「あ…」 はたけくんがコンビニで買ってきたもの、それは学生時代に私がよく食べていたバニラアイスだった。 「オレを待っていたときにいつも食べてたよね?」 「知ってたんだ」 「柳井さんがオレを見ていたのと同じく、オレも柳井さんのことを見てたからね。それに、暑いでしょ?」 わざとらしくいたずらに笑って、はたけくんはアイスを渡した。だけど、はたけくんの手にあるアイスは私の分しかない。 「はたけくんは食べないの?」 「オレは甘いもの苦手だから」 さ、食べなよ。そう言って、アイスを勧める彼に私は頷くしかなかった。正直にいうと、私は夏に食べるアイスが苦手だった。それは、苦い恋を思い出すから。指の方まで溶けて流れたアイスの感覚を私はまだ忘れていない。 「ほら、早く。溶けちゃうよ?」 でも、今はもう違う。私の好きな人はちゃんと目の前にいる。私は頷くと、優しく微笑む彼の手からアイスを受け取った。封を開けて中身を取り出す。あの頃、はたけくんを待ちながら食べたアイス。懐かしくて、美味しそうなアイス。 一口かじると冷たいアイスがジワっと溶けて口内に広がった。喉が乾くほどの甘い味はやっぱりあの頃のままで涙が溢れそうになる。私ははたけくんに気付かれないよう顔を背けた。視界に入った校舎は相変わらず誰もいない。もしもあの頃の自分が今の私を知ったらどんな風に思うのだろう。きっと嬉しくて泣き出すに違いない。 「ほら、溶けちゃうよ」 考えに耽ているとアイスを持つ手を引っ張られて体が傾いた。 「あ、」 彼の赤い舌が溶け出したアイスを舐める。誘惑的なその仕草にドキリと心臓が波打った。はたけくんは狼狽える私を無視してそのまま顔を近付ける。そしてやさしく唇を重ねるとチュっと軽くリップ音を立ててから、ゆっくり顔を離した。 「…やっぱり甘い」 眉を寄せて苦悶の表情を浮かべるはたけくんが思いのほか面白くてつい笑ってしまった。声を上げて笑う私に彼は不思議そうな顔で見つめる。手に持っているアイスははたけくんのおかげで流れ落ちていない。私は嬉しくなって、未だ呆然としているはたけくんに礼を言った。 「ありがとう」 もう一口アイスをかじると幸せな気持ちが胸に広がった。もう、大丈夫。大好きな彼の隣であの夏の日を懐かしみながら目を閉じた。 物語のうらがわに記す |