あれから、はたけさんとは会っていなかった。

恐らく生活リズムが違うせいか、隣の生活音も聞こえて来なかった。あんなにも好きだった生活音も今では聞こえなくて良かったと心底思う。

日が経つにつれ、はたけさんに対する私の罪悪感は少しずつ薄れていった。よく考えれば赤の他人なのだから別に気にする事でもないとさえ思うようになっていた。

「おはよう」

同僚ともあれから体の関係はなかった。あの出来事があった次の日、同僚に何を言われるかひやひやしていたが意外にも普通だった。
はたけさんに何を言われたのだろう?それだけが気掛かりだったが、わざわざ同僚に聞くこともなかったので私も同僚と普通に接する事にした。

以前の日常に戻りつつある事に私は本当に嬉しくて仕方がなかった。

それだけ同僚との関係は自分の中で大きなストレスだったし、ただ口に入れていただけの食事も最近では美味しく感じるようになってきた。この日常を取り戻せたのもはたけさんのお陰だと思う。やはり赤の他人とはいえども礼ぐらいはした方がいいのかな。そうは思うが、なかなか出来ないでいた。


***


「すみません、お客様。ただいま満席で相席をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

会社の昼休憩に行きつけの定食屋に行った時の事だった。混んでいる時間帯よりも先に席に着いていたのだが、やはり美味い安いを売り文句にした店の昼時の混み具合はピークだった。
私は相席を求められる事に内心嫌だったが断れる雰囲気でもなさそうだったので「どうぞ」と受け入れた。
店員は礼を口にすると客を私のテーブル席に誘導する。

「ごめんなさいね」

向かいの席に座った女性は軽い会釈をして椅子に座った。いいえ、そう答えようと女性の顔を見ると、思わず女性の美しさに息を呑んだ。
漆黒の長い髪に真っ赤な瞳と唇。赤がとても似合う人だと思った。
木の葉のマークの額当てをしていたので恐らく忍だろう。忍という言葉を聞くとなんとなくはたけさんが思い浮かんだ。

「それ美味しそうね。どのメニューかしら?」

私が注文した鱈の甘酢あんかけを見て女性はそう言うとメニュー表に目を落とす。どうやら、私の注文したものを探しているようだった。私が食べているのは日替わり定食なのでメニューには載っていなく、日替わりの品書きは壁の黒板に書かれている。私がそう教えると女性はありがとうと笑った。その拍子に漆黒の髪が揺れて上品な花のような香りがする。
こんなに美人の笑顔を見たのは初めてだったので恥ずかしくてつい俯いてしまった。

「昼休憩?」
「え、あ、そうです」

女性は日替わり定食を店員に注文した後、私に話しかけた。まさか話しかけられるとは思っていなかったので、急いで飲み込んだ拍子に魚の骨が喉に引っかかりそうになった。女性は大丈夫?と心配そうに手付かずの水が入ったコップを差し出した。私は礼を言いながらそれを受け取り一気に水を飲み干す。

「そちらも昼休憩ですか?」
「私はさっき任務が終わった所なの」

任務、女性の口からその言葉を聞いて忍だと確信した。私とさほど歳が変わらなそうなのに彼女も命懸けで里を守っているんだ。そう思うとやはり忍という職業は大変だと心から思った。

「ここ、前から来たかった店なの。今日は時間が空いたから行けると思って来たのよ」

嬉しそうに話す女性は本当にこの店に訪れたかったらしく、料理が運ばれて来るのを首を長くして待っていた。昼しか営業していないこの店は忍の様に不規則な生活の人にはなかなか足を向けることが出来ないのだろう。

「ここ、美味い安いが謳い文句ですもんね。私もよくお世話になってるんですよ」
「そうなのね。忍の間じゃ、ここの店ちょっと話題になってるのよ。ただ、なかなか行けない時間帯だから行った人は少ないけど」

今度みんなに自慢しなくちゃ、と彼女は楽しそうに笑った。
他愛もない話をしている内に彼女の料理が運ばれてくる。彼女はわぁ、美味しそう。と歓喜の声を上げてメインの鱈の甘酢あんかけに箸を伸ばして口に運んだ。その所作が余りにも品があって美しいので女の私でさえもドキリと心臓が跳ね上がる。

「美味しいわ」
「良かったですね」

美味しそうに食べる彼女を見て私もつい口元が緩んだ。同年代の女性とは話が合わない事が多かったが、彼女の人柄のおかげなのか気さくに話しかけてくれるのでこちらも身構えることなく話す事が出来る。なんだろう。すごく嬉しい。言葉に出来ないようなこそばゆい気持ちになりながら私も中途半端になっていたおかずに箸を伸ばした。

「やっぱり、一人で食べるよりもみんなで食べた方が美味しいわよね」

女性はただなんとなく発した言葉だったと思う。だけど、私はその言葉がすっと心に温かく溶けた気がした。
そういえば人と一緒に食事をしたのは久しぶりだったかも。同僚と食事をした事はあったが、どんなに美味しい物を食しても味がなかった。どうしてだろう?幾ら考えても答えは分からないが、本当に美味しくて気持ちが温かくなるのは事実だった。

「そうですね。美味しいですよね」

言葉にするとツンと鼻の奥が痛くなった。初めて自分が泣きそうになっているのだと気付くと、慌てて笑ってごまかした。
彼女はきっと私が泣きそうになっているのに気付いているだろう。だけど、彼女の優しさなのか、気付かないフリをしてくれている。

「私、夕日紅っていうの。良かったらまたご飯食べに行きましょう?」

綺麗な赤を引いた唇からその名を聞いて、やはり彼女はこの世で一番赤の似合う人だと思った。私は紅さんのその言葉にゆっくり頷いて、久しぶりに笑った。


友の始まり





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