後日、チフユと交わした約束を果たすために訪れた場所は、商店街の片隅にある、古い喫茶店だった。

様々な色のガラスで散りばめられたランプが薄暗い店内を照らしている。確かこの装飾ガラスはステンドグラスと言ったか。他国から伝わったであろう、馴染みのない美しいガラス板は雰囲気のあるこの店内にとても相応しかった。

カラン、グラスの中の氷が溶けて音を鳴らした。ふと隣に座るチフユを見ると、チフユは硬い表情を浮かべながらグラスの縁に口をつけて水を飲んでいた。

「で、誰なの?会いたい人って」

何気なくチフユに訊ねれば、彼女はビクリと肩を揺らした。そんなに驚かなくてもいいのに。チフユはオレを見ずに腕時計を確認すると、はぁ、と長く細い息を吐く。
どうやら待ち人は、約束の時間になっても来ないらしい。チフユと同じように息を吐いて店内を見渡すと、出入り口から少し離れたところにチフユとよく似た背格好の中年女性が視界に入った。女性もチフユと同じく、緊張した面持ちで辺りを見渡している。

「もしかして、あの人じゃないの?」

チフユはパッと顔を上げると、オレの視線の先を辿った。

「お母さんだよね?」

確認すると、チフユは目を丸く見開く。その表情は図星と言ったところか。チフユは小さく頷くと苦笑した。

「そうだよ。よく分かったね」
「分かったも何もチフユにそっくりだから」

淡々と答えればチフユは納得した表情を浮かべて「そうか、なるほどね」と呟いた。恐らく今までにも母親に似てると言われたことがあるのだろう。否定しないチフユを見てそう察した。
チフユの母親はオレ達に気付いたのか、ぱっと笑みを零すと手を振りながらこちらの席まで小走りで向かってくる。カツカツと、低いヒールの乾いた音を立てる母親の容貌は、いかにも『自立し、仕事ができる女性』だった。

「ごめんなさいチフユ。仕事が長引いちゃったの」

向かいの席に座りながら謝る母親は、見れば見るほどチフユと似ていて驚いた。きっとチフユの顔に皺が刻まれたら母親と瓜二つだろう。感慨深く思いながら母親の顔をまじまじと見ていると、オレの視線に気付いたのか、カチリと目が合った。

「あら、この方は?」

母親は怪訝な表情でチフユに訊ねた。しかし隣にいるチフユは母親の質問を聞くなり表情を曇らせて黙り込んでしまう。何してんの。早く言いなさいよ。視線を送れば、チフユは明らかに「無理」と目で訴え掛けた。
無理じゃないでしょーよ…。母親に恋人を紹介するのってそんなに緊張するもの?そんな疑問を抱いたが、自分には物心つく前には母親がいなかったので、何が正解か分からなかった。

「あの、チフユさんとお付き合いさせて頂いてます。はたけカカシと申します」

思い切って名乗ると、母親は「そうなの?」と、目を見開きながらオレとチフユの顔を交互に見た。母親の問いに小さく頷くチフユの顔は、熟れた林檎のように真っ赤だ。

「チフユに彼氏を紹介されるなんて、あなたが初めてよ」

興奮気味に話す母親の言葉を聞いて、オレは嬉しくなった。なんだかチフユに認められたような。チフユの好きを再確認出来たような。そんなこそばゆい感覚が心を擽った。

「カカシさん、あなたはどんな職業を?」

単刀直入に訊ねたチフユの母親は先程と打って変わり、厳しい表情だった。射抜くようなその目に、張り詰めた空気を感じる。隣に座るチフユは慌てたように「いきなり何?」と母親を咎めた。

「大事なことよ」

はっきりと答える母親の視線は未だオレの目に注がれている。木ノ葉のマークがついた額当てを見ればオレが忍と分かるのは一目瞭然だ。チフユの母親はオレが忍だと知った上で、質問を投げている。意図ははっきりとは分からないが、きっとオレの口から直接聞きたいのだろう。

「忍をやっております」

強く言い放つと、母親は「そう」と一言だけ答えた。

「…じゃあ、カカシさん。あなたはいつ命を落としてもおかしくないってことよね」「ちょっとお母さん、いい加減にしてよ」

母親を制するチフユの声が大きくなる。だが、母親は言葉を続けることを辞めない。その表情は娘を大切に思う、母の顔だった。

「私の友達にいたの。忍で殉職してしまった旦那さんの奥さん。彼女、毎日泣いてたわ。とてもじゃないけど可哀想で見てられなかった……だから、娘にも同じ気持ちにさせたくない」

母親の瞳には大粒の涙が溜まっている。微かに震える声は気のせいではない。母親は、娘の恋人が危険な職業に就いているのが心配でならないのだ。
母親の言う通り、忍である限り恋人や夫婦のどちらかが命を落とすことは珍しくない。つい最近でも忍同士の夫婦、夫の方が殉職して妻が未亡人になった。彼女は亡き夫を思いながら悲嘆に暮れる毎日を送っていた。やがて憔悴仕切った彼女は、忍を辞めて、今は一般人として暮らしていると聞いた。酷い話だと思う。けど、これがオレ達、忍の『当たり前』だった。
チフユの母親はその『当たり前』を違うと言いたいのだ。忍にはいつ命を落としても良い覚悟ができている。だからこそ命を尊く感じろと、守るべき者が出来たのだから生き延びろと伝えたいのだろう。

チフユは怒りに満ちた表情で母親を睨み付けている。チフユの家庭事情は詳しくは聞かされていないが、二人の様子を見て、関係性は良好ではないと察した。

「お母さん「仰る通り、忍はいつ命を落とすか分かりません」

チフユの声を遮り、母親の顔を見る。オレは母親の不安を拭うために一つ一つゆっくりと言葉を紡いでいく。

「でも、チフユさんが生きている限り、オレは彼女の隣で生き続けます」

宣言すると、母親は小さく頷いた。涙を堪えている顔はチフユとそっくりだ。決して泣き顔を見せようとしない母親は性格までもチフユと似ていて、仲が悪いとはいえど、やはり親子だ。
母親の目から溢れた涙が頬を伝わり、止めどなく流れてゆく。何か涙を拭ってやれるものはないかとポケットに手を入れて探ってみるが、あいにく部屋の鍵ぐらいしか見つからなかった。

「…私が言う資格ないけれど、カカシさん。チフユをよろしくね」

お願いします。

懇願するように頭を下げる母親を見て喉の奥に言葉が詰まる。オレこそチフユと共に生きる資格なんてないのかもしれない。こんな、臆病者で弱いオレがチフユの隣に並ぶなんてもってのほかだ。だが、それでもオレはチフユを手放したくなかった。誰かに何を言われようとも、後ろ指を差されようとも、オレは、チフユとしっかり生きてゆくと決めた。

「チフユさんを幸せにすると約束します」

どうしてそんなこと言うの?こちらを睨み訴え掛けるチフユに目を細めて微笑む。チフユの目は母親と同様、赤く充血していた。似た者同士はオレとチフユだけではない。母親も一緒だ。
母親はオレの返事を聞くと、安心したようにふっと笑みを浮かべた。その拍子にまた一つ、涙が零れ落ちる。

「ありがとう」

母親は刺が抜けて、穏やかな雰囲気を纏っていた。さらに深々と頭を下げる母親を見て、チフユは心の底から愛されているのだと思った。二人の間に何があったのかは分からない。だが、すれ違いとは、小さな勘違いが積み重なり深い溝が出来て生じるものだと思う。一度、穴が空いてしまったものは、なかなか完全には埋まらない。しかし、時間と共にゆっくりと掛け違えたボタンを掛け直していけば、やがて溝は埋まるとオレは思う。それが絆の強い親子なら、特に。

「これ、チフユに返すね。また使っちゃうといけないから」

母親はバッグの中から綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出すと、チフユに渡した。「使ってもいいのに」冷たく言い放つ割には照れた表情のチフユに、素直じゃないなと心の中で呟く。

「今度はちゃんと自分のを持っているから」

凛と発したその言葉の意味は、『これからは強く生きていく』覚悟を決めた母親の意思表示だった。自分の力で立ち上がり、自分の足で歩いてゆく。チフユの母親は凛として強かった。
隣にいるチフユは未だ不安な顔をしてオレを見る。恐らく自分も母親と同じように強くなれるか心配なのだろう。胸中を察したオレは「大丈夫」と強く頷き、笑みを向けた。

大丈夫。チフユもお母さんのように強く生きられるよ。

口にはせず、瞳で語り掛ければ、チフユはほっと安堵したように息を吐いた。

「お母さんね、転職したの。お父さんとの一件以来、自分自身を見直したら一回全てリセットしようかなと思って」

母親は胸のつかえが取れたような、すっきりとした表情で嬉しそうに話していた。

全てをリセット、か。

時には何かを切り離さなくてはいけないものがあると思う。生涯を連れ添うと誓った大切な者でも、共に過ごす内に苦しく感じるようになったのだとしたらそれは捨てるべきタイミングなのだと、オレは思う。
きっと母親は気が付いたのだ。縛られていたものから逃げ出して、自由になる喜びを。
「良かったね」と笑うチフユの言葉に母親は嬉しそうに頷いた。良かったね。チフユはただなんとなく口にした言葉だと思うが、母親にとってはこれ以上のない喜びの言葉だったと思う。報われなかった努力が今ようやく開花したような。褒められることのなかった者にとってそれは心が綻ぶ瞬間だと思った。現に母親は涙を浮かべて微笑んでいる。この涙は悲しみの涙ではない。喜びの涙だ。

「ありがとう、チフユもこれからカカシさんと幸せになってね。間違っても私達のようにはならないでね」

冗談とも本気ともつかない母親の言葉にオレは苦笑いを浮かべる。オレ達のやり取りを見ていたチフユもようやく笑みを零し、口を開く。

「ありがとう。お母さん」

この瞬間、二人の間にある蟠りが溶けた気がした。長い年月を経て、今ようやく、二人の間にそびえ立っていた高い壁が打ち砕かれたのだ。

オレは二人の姿を見て、遠い過去の記憶を思い出した。それは、オビトと些細なことで喧嘩をした時だった。互いに意地を張り合うオレ達を見兼ねたミナト先生が、仲直りの握手をしなさいと無理矢理にオビトの手を握らされた。
「仕方ねぇな」と悪態を吐くオビトに更に怒りが込み上げながらもオレは我慢して仲直りの握手を交わした。
あの時、オレは素直に謝れなかったんだ。子供過ぎた自分に今でも腹が立っている。喧嘩した相手が死んでしまったら元も子もない。許すことも謝ることさえ出来ない。
だから、仲直りの出来た二人を見ると、少しだけ羨ましく感じた。

しばらく談笑していると、店員に注文していたものが運ばれてきた。コトンと木目調のテーブルに置かれたのは、ブラックコーヒー二つと、カフェラテ一つ。それと、彩りの良いサンドイッチだった。

「チフユ、昔から好きだったものね、それ」

白い皿の上に乗られたサンドイッチを見て笑む母親の顔はとても懐かしげだ。母親の言葉を聞いたチフユが「え」と小さく感嘆の声を上げる。

「お母さん、覚えてくれてたの?」
「当たり前じゃない。」

そっか。覚えてくれてたんだ。ポツリと嬉しそうに呟くチフユの顔は耳まで赤い。ひっそりと喜ぶチフユの顔を見て、無意識にオレも頬が緩んだ。きっと、チフユにとってのこのサンドイッチは、かけがえのない、大切な想い出なのだろう。良かったね。チフユ。心の中で言いながらチフユに笑い掛けた。

「私もカカシとお父さんとの思い出、聞いてみたい」

嫌じゃなければいいけれど。控えめに話すチフユの顔を見てオレは暫し逡巡したあと「いいよ」と答え、遠い過去の記憶を呼び起こした。父さんとの思い出。それはかなり昔の話だ。忘れてしまったことも、思い出したくないことも、もちろんたくさんある。だけど最初に頭に浮かぶのは、苦しい記憶よりも、温かい優しい記憶だった。

「…オレにとって、父さんとの思い出は日常かな」

常に任務に忙しかった父さんは家を空けることも多かった。「行ってくる」そう言って、玄関を出る父さんの背中。その背中に憧れもあったが、寂しい気持ちの方が大きい時もあった。我慢しながら長い夜を一人で越えて、ようやく父さんは帰ってきた。「ただいま」と、任務から帰ってきた父さんは、いつもオレの頭を撫でてくれた。その大きな手のひらの温もりは、今でもはっきりと覚えている。

おはよう。いただきます。いってらっしゃい。ただいま。おかえりなさい。おやすみなさい。

そんな当たり前の挨拶で交わした日常が、オレと父さんの大切な思い出だった。

「素敵な思い出ね」

チフユの母親は頷き、表情を緩めた。恐らく自分にも思い当たる記憶があるのだろう。離れ離れになる前の、楽しかった家族との思い出が。

「カカシの大切な思い出を聞かせてくれてありがとう。カカシはお父さんから小さな喜びを教わって、ここまで生きてきたんだね。お父さんもきっと楽しかったと思うよ。カカシと一緒にいられた、何気ない日々が」

だから、そんな顔しないで。チフユは隣にいるオレの顔を覗き込むと、笑みを向けた。いつの間にオレは俯いていたのだろうか。慌てて前を向くと、そこには優しく笑い掛ける、二人の顔があった。

「ほら、カカシさんもこれ食べて」

母親はサンドイッチを食べるよう勧めた。「いただきます」そう言って、サンドイッチの一つを手に取り、口に運んだ。素朴でシンプルなサンドイッチの味は、どこか懐かしい優しい味がした。

「ね、美味しいでしょ」

嬉々とした声で問い掛けるチフユに頷く。そっか。これがチフユの家族との思い出の味か。穏やかで、温かくて、まるでチフユの歌声のようだ。

「ありがとう」

ツン、と喉の奥に痛みを感じながらまた一口食べる。まるで、チフユの煌めいた思い出を分け与えてくれた気がして、擽ったい感情がじわりと胸に広がった。






「じゃあね、また手紙を書くわね」

店を出たあと、チフユは手を振りながら母親に言い放った。「待ってるわね」嬉しそうに笑い、背を向けて歩く母親の後ろ姿をチフユは真っ直ぐ見つめる。揺れるその瞳は、過去ではなく未来に目を向けているような気がした。

オレは手を振り終えたチフユの右手をそっと繋ぎ、指を絡めた。

「帰ろっか」

言うと、チフユは小さく頷き、歩き出す。チフユの冷えた手を温め直すようにぎゅっと握ると、チフユも強く握り返した。
行き交う人々は忙しく歩く者や、オレ達のように会話を楽みながらゆっくり歩く者もいる。空から降り注ぐ柔い太陽の光は夕方を告げる合図。

そろそろ今日が終わるのか。

そんな呑気なことを考えつつ、空を見上げると、ポツンと光る一番星が目に映った。揺れるように煌めく光の粒の美しさに目を奪われて足が止まる。チフユも同じことを思ったのか、ピタリと歩みを止めた。

「綺麗だね」

茜色に染まる西空に夜の藍色が重なり合う瞬間を見て、自然と唇から落ちた。あの空は確か、チフユと一緒に見た朝焼けの景色と同じだ。またこうしてチフユと夕焼けを見ることができるなんて、思いもしなかった。

「またチフユと空を見上げる事ができて良かった」

チフユが好きだと気付いた時、オレは必死になって自分の気持ちをごまかした。オレが人を愛する資格なんてない。幸せになるなんて許されないとずっと思っていた。
だが、チフユはそんなオレを救ってくれた。『一緒に幸せになりたい』そう言って、手を差し伸べてくれた。だからオレはその手を取り、共に歩むことを決めたんだ。

隣にいるチフユは「私も同じ事を思っていた」と嬉しそうな声で話す。オレは空を仰ぎながら「そうだと思った」と口布の下で笑った。

夕陽に染まった橙色の雲がゆっくりと流れる。止まっていた時間が静かに動き出した気がした。

暫し雲を眺めていると突如、チフユの両手がオレの頬を包み込んだ。ひんやりとした冷たいチフユの手がオレの頬を冷やす。そのまま顔を引き寄せられ、チフユの顔と正面に向き合う形になった。そして強引に額当てを上に持ち上げると、露わになった左目に光が差し込む。一瞬、明るさで目が眩んだが、徐々に視界がはっきりと晴れてゆき、チフユの顔が見えた。

「カカシ、一緒に生きて行こうね」

チフユの顔は今までにないくらい幸せそうな笑顔で、ああ、この顔を隣でずっと見られたらいいなと願った。チフユはそっと、オレの左手を握り締める。その手は先ほどよりも温かく、優しい温度だった。互いの温度が交わり、等しくなる。それは、二人の気持ちが一つになったのだと、そう感じた。

「当たり前でしょ」

チフユの手を握り締める力は依然として強いままだ。チフユもぎゅっと強く、もう二度と離れないようにと固くオレの手を繋いだ。

「これからもよろしくね」
「こちらこそ」

オレ達は前を向き、真っ直ぐ続く道を歩き出した。あと少しでアパートへと辿り着く。だけどオレは一秒でも長くチフユといたくて、わざとゆっくりと歩を進めた。隣にいるチフユの顔は、夕陽に照らされたことにより、頬が赤く見える。なんだか無性に愛おしく思い、足を止めて身を屈めると、唇を重ね合わせた。
ちゅ、と軽いリップ音を鳴らし、顔を離して目の前にいるチフユを見ると、先程よりも更に頬を赤く染めていて、可愛く思えた。

「…これからどうしよっか」

わざと耳元で囁けばチフユの肩が小さく揺れる。明らかに動揺するチフユにからかい甲斐があるなとつい頬が緩んでしまう。

「…アスマと紅を呼んで飲み会でもする?」

一呼吸置いてからチフユはそう提案するとオレの顔を窺った。アスマと紅ねぇ。そういえば紅とまだ喧嘩したままなんだっけ。

「んーちょっと無理かな」
「え、じゃあ明日は?」
「明日ねぇ…」

明日の予定はナルト達の下忍試験だった。本当のことを言えば、今回の下忍試験も期待していない。というか、未だ自分に自信がなかった。果たしてこんなオレが人を育てられるのか。失うことばかりだったオレが、一から築き上げて前に進むことができるのか。不安や心配ばかりが胸に募り、気持ちを暗くさせる。

「カカシ?」

急に黙り込んだオレを怪訝に思ったのかチフユは首を傾げて顔を覗き込んだ。チフユの顔を見て、はっと息を呑む。

オレはもう、一人ではない。

苦しかったり悲しかったりした時、気付けばいつも隣にはチフユがいてくれた。チフユだけではない。アスマと紅もそうだ。こんな自分を心配し、いつも気にかけて声を掛けてくれた。オレの周りは常に優しさで溢れていたんだ。失ってからではもう遅い。分かっていたはずだったのに、オレは、大切なことを見落としていた。

今度は後悔せぬよう、ちゃんと人と向き合いたい。

「…明日の夜なら大丈夫だよ。みんなで飲みに行こう」

オレの返事を聞いたチフユはすぐにパッと笑みを零した。

「じゃあ、また明日ね」

また明日ね。明るく言い放つチフユのその言葉を聞いて、優しい光が胸に差し込む。未来を望まなかったオレが、こんな単純な言葉に嬉しく思うなんて。

「そうだね。また明日ね」

笑い返して約束を交わせば、チフユは当たり前のように頷いた。明日は下忍試験。夜はアスマ達と飲み会。いつの間にか増えてゆく未来の約束を果たすためにも、まだまだ生きていかなくてはならない。

明日も明後日もその先も。ずっとずっと続いてゆく未来にもう背を向けない。チフユのために。里のために。そして失った者達のためにも、オレは生きる。
隣にいるチフユに目をやれば、未だ嬉しそうに微笑んでいる。そんなチフユの顔を見て、心のなかにある見えない氷がじわりと溶けてゆく。それはまるで、長い冬に深く積もった雪が、春の日差しを浴びて溶け出すようだった。

もしかしたら人は、陽だまりに包まれたような、温かい気持ちを幸せと呼ぶのかもしれない。

オレは一歩、足を前へ踏み出した。チフユも足並み揃えるように一歩、前へと進む。

相変わらず薔薇色に染まった夕陽は眩しくて綺麗だ。美しいそれは、生きる喜びを教えてくれているような気がした。オレはあの夕陽に恥じぬよう、ぐっと背筋を伸ばして胸を張り、前を見据えた。

先の分からぬ未来はやはり怖く、恐ろしい。だが、こうして愛しき人の手を繋ぎ、一緒に歩いてゆけば、決して恐れることはない。

大丈夫、オレ達は一人じゃない。

夕暮れ時の風が、するりとオレ達の間をすり抜けた。柔く、ぬるいその風は、もうじき春が来るのだと、そう告げていた。


fin.


寄り添う心





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