幕間

 アジーム家の次男、ムガルという少年はカリムとまでは言わずとも、それなりに優秀な子供だった。家庭教師からの評価もカリム程ではない、が枕詞に付いているものの、彼はよく褒められるほどには優秀である。そんなムガルを母である第二夫人は何よりも誇り、より一層目の上のたん瘤であるカリムを憎んだ。
 お前はこの家の長になれる。ムガルにそう甘く囁く母は、カリムの事になるとすぐに癇癪を起こして喚き散らす。その豹変具合に、幼いながらも賢いムガルは己の母親が恐ろしい人間だと理解してしまった。
 兄カリムがいる時は貝のように口を噤み、彼がいないところでは盛大に罵る。そして、彼の母である第一夫人や弟を殺したのに、アイツはどうして死なないのだと恨みがましい声で呟くのだ。……ムガルは母が心底恐ろしかった。彼女に褒められても悍ましさが先立つようになって、彼女に褒められたくないと思うまでに至った。しかし、褒められたくないと落ちこぼれになってしまえば、己は処分されるに決まっている。あの母はそういう女なのだ。
 ムガルに頼れる人間はいなかった。父は母を愛しているようで、ムガルの恐怖に気付かない。使用人達は気付いていたが第二夫人の機嫌を損ねたくないので、ムガルに積極的に関わってこなかった。そこでせめて兄と同じく同い年の従者を貰えていれば何か変わったかもしれないが、母がそれを嫌がった。ムガルには頼れる大人の従者をつけろと口を挟んだのだ。
 そして与えられた従者は小さなムガルの下につくという事実を不満に思っているらしく、その事に気付いてしまったムガルには頼るなんて事出来なかった。誰だって頼れず、命は辛うじて守ってもらえるが、それでもいつ死ぬか分からない。……兄の様に大切な人が死んでしまった訳ではないけれど、ムガルだってひとりぼっちだった。


「そのジュース、飲まない方がいいと思うぞ」
「…………え?」


 ムガルはいつだって後ろめたい思いを兄に対して抱えている。何せ己を跡継ぎにしたいから、と母が工作して彼の母親と弟を奪ったのだから。だからムガルは出来るだけ兄の視界に入らない様にしていた。貴方の大切なものを奪った女の息子なんて、仇でしかないでしょう。視界に入ることすら痴がましい。
 そう思って、アジーム家……兄弟達で行われる会食でも肩身の狭い思いをしていたムガルに、兄が突然話しかけてきたのだ。ポカンとしてムガルがジュースの入ったカップを手にしていると、カリムはムガルの手の中からそれを奪い取り、そそくさとその場を後にしようとしていた使用人にブチまける。その瞬間、その使用人は恐怖に顔を引きつらせ、絶叫し身悶えた。


「なんでお前は飲み物を被っただけでそんなに恐怖する? 経口摂取じゃなく、皮膚に触れただけでも害のあるものをムガルに盛ろうとしたな?」
「あ、あああ、も、もうしわけ、たす、たすけ」
「ジャミル」
「ああ、既に衛兵を呼んだ。そこの使用人がムガル様に毒を盛った! 連れて行ってくれないか!」


 その日、兄のカリムはムガルを救った。死の恐怖に怯えて泣くムガルを慰め、ごめんなさいと謝る彼を何も聞かず許した。賢い兄の事だから、ムガルが第二夫人が成した事について謝ったと気付いていただろう。その上で、カリムはお前は悪くないと言ってくれたのだ。
 それだけではなく、ムガルの命が狙われている事を知ったカリムは、忙しい合間を縫ってムガルの元に会いに来て守ってくれた。決してムガルを1人にしない様にして勉強を教えてくれたり、楽器を演奏してくれたり。本当は死んでしまったカリムの弟にしてやりたかった事だろうに、ムガルにそれを与えてくれた。


「よし、ムガル。俺が演奏するからお前は歌って踊るんだ。楽しい事をすれば、辛いことは忘れられる。大丈夫だよ」
「でも……」
「良いから良いから」


 楽しい事をすれば辛い事を忘れられるだなんてカリムは言うけれど、ムガルは兄が歌って踊っているところなんて見た事がなかった。もしかすれば、彼の従者であるジャミルと共に過ごしている時は踊ったりしているかもしれないが、ムガルの前で兄は踊らないし歌わない。……カリムの言葉通りなら、歌って踊っていない彼は辛い事を忘れていないのだ。仇の子の前で、兄は辛い事を忘れずに唯々ムガルを守るだなんて。
 きっと、ムガルならば出来ない事だ。カリムだからこそ、ムガルを許してこうやって守ってくれる。……兄が心の底でもムガルを恨んでいない、と断言できるわけではない。けれど、それはどうだっていいのだ。怒りを悟らせない在り方とその懐の広さこそ、兄が上に立つにふさわしい人間である証左だろう。
 兄の様になれないとムガルは理解していて、しかし近づくことはできる筈だと考えた。だからこそムガルは兄に様々な教えを乞うた。兄に守られている日々だが、いつかムガルは自立せねばならない。上に立つべき人間であるカリムを、ムガルの守護という仕事にいつまでも縛り付けておくなんて事は出来ないのだ。
 彼らが大人になった暁には、ムガルは凡ゆる敵を退けて自分で自分を守るしかない。その為の方法を家庭教師は教えてくれないし、自分で思いつくにはムガルは幼すぎた。だからムガルは忙しい兄に後ろめたく思いながらも、自分の身の守り方を教えて貰ったのだ。

 害意を持つ人間の気配や仕草、毒の見分け方。カリムが生まれ持って感覚として理解していたそれらを、彼はなんとか言語化してムガルに教え込んだ。途中から三男のマジドや長女のジュマーナなど、アジーム家に於いてムガルに次いで年長の者もカリムの庇護下に進んで入ってきた。皆、己を守ってくれる人間がいない事を自覚しているのである。
 そしてその誰もをカリムは受け入れた。カリムの従者であるジャミルは、主人の敵の子供であるムガルらがカリムを頼り切っている状況に思う所はあるだろうが、それでもムガル達に様々な知識を与えてくれる。家庭教師も大人も教えてくれない市井の常識も、よくない事を考えている大人の躱し方だとか。
 いつか、自分で自分の身を守れるように。いつか、こうして様々な知識を与えてくれた兄とその従者へ、恩返しができるように。

 そうやって時には自分で対処しつつも兄に守って貰っていたムガルは、ついに自立せねばならなくなる。想定していたよりも随分と早い自立の時だった。
 ……兄がナイトレイブンカレッジに入学する事になったのだ。ナイトレイブンカレッジは全寮制なので、ムガルは何かが起きても兄に頼る事は出来ない。彼はとても恐ろしかった。兄やジャミルがいたからこそ避けられた死は余りにも多いのだ。毒殺も誘拐事件も、暗殺も。側に兄がいてくれたからどうにかなったのだ。
 カリムの様に弟妹達を守れないかもしれないし、自分自身も死んでしまうかもしれない。折角兄が己に時間を割いて教え込んでくれた事を活かせず、自分達弟妹を喪わせる事だけは駄目だ。カリムが態々憎しみの対象の子供に捧げてくれた時間を、無駄なものにしてしまうかもしれない事が何より恐ろしかった。

 故に入学前に行方不明になったカリムが黒い馬車に揺られてナイトレイブンカレッジに向かう時、ムガルはずっと泣いていた。兄と離れるのが寂しかったし、怖かったから。失敗したらどうしよう。あの優秀な兄と従者ですら転移魔法で連れ去られ、あんなに草臥れて帰ってきたのだ。同じ下手人にムガルが狙われてはひとたまりもないだろう。


「失礼します、ムガル様。カリム様より手紙を預かっております」
「兄上から!? 届けてくれてありがとう」


 まあ、結局はそれは杞憂だった訳だが。カリムが雇っているニシットという人間の伝手で、兄が優秀な護衛を何人か見繕ってムガル達に付けてくれたのだ。腕っ節は相当強い様で、稀にある暗殺者の襲撃も全て何事もなく押さえ込んでくれていた。
 さらには忙しい兄がムガルにだけ送ってくれる手紙も役に立っていた。ナイトレイブンカレッジの教師や毒薬に詳しい生徒に教えを乞うて、兄が様々な解毒薬を送ってくれるのだ。他にも学園の図書館の蔵書で結界魔法などの記述が有れば、ムガルにも理解できる様に解説をつけて手紙にコピーをつけてくれたり。


「ムガル兄ィ、カリム兄様からのお手紙は?」
「ジュマーナ、ノックしてよ」
「コンコンコーン!」
「はい、どうぞ」


 口でノックの擬音を表現したムガルの妹が、するりと彼の隣に擦り寄って、ムガルの手の中の手紙を覗き込む。この異腹の妹は第三夫人の娘で、ムガルと同い年だ。故にムガルを兄と呼んでいるものの、どちらかと言えば友人の様な扱いをしてくる。ムガルの方も似た様な対応なので、双方気にはしていなかった。


「兄上からは伝言があったよ」
「ほんと? あたし宛?」
「僕ら弟妹全員宛だよ。"どんな異変に気付いても普段通りに過ごせよ"だってさ」
「……これから、もしくは既に異変が起きてるってこと?」
「たぶん」


 ムガルとジュマーナは揃って首を傾げる。2人に自覚は一切ないが、カリムとそっくりの仕草だった。
 普段通りに過ごせと言われたのなら、その通りに過ごすことなど2人にとって……否、アジームの子供達にとっては朝飯前だ。が、それはそれとして、兄の言う異変が気になる。何かに気付いても見て見ぬ振りをしろと言うことなのだから、気になるに決まっていた。


「そうよ」
「何か気付いた?」
「アフナーンを昨日から見てないの。ホラ、あたしの使用人をしてくれてるあの子」


 アジームの長女であるジュマーナには、非常に優秀な使用人が付けられている。御転婆なジュマーナを諫め、けれど一緒になって走り回ったりもしてくれる、彼女の大親友。
 そのアフナーンはジュマーナ付きになってから、毎日毎日共に過ごしてきていた。稀にアフナーンが自分の家族と過ごす時は別だけれど、2人は一緒に過ごしてきていたのだ。なのに、そのアフナーンを2日も見ていない。
 大人に聞いてみてもはぐらかされて、なんだか感じ悪いわ、なんてジュマーナは思っていた訳なのだが。


「…………。アフナーンって……ジャミルさんの妹の?」
「うん。…………ねえ、これってやばそう?」
「……たぶん下手に首突っ込んじゃダメなやつだよ。やっぱり兄上の言う通りにしよう」


 多分、兄上が何か企んでいる。その邪魔をしないため、ムガルとジュマーナは一切何も気付かない振りをして、少し空気の悪い屋敷の中で普段通りに過ごした。他の弟妹も素直にカリムの指示どおり、普段と同じ様子で日々を過ごしていく。
 アジーム家の子供達は皆、カリムが大好きだった。


prev/next

[Back]/[Top]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -