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冷たい風が吹きはじめた。
―今夜は、満月。
暖簾の隙間から空を覗き見る。
「やっぱり、月夜に飲む酒は最高だ。天気も良くて星も良く見えるしなぁ、銀さん?・・な、オイ聞いてる?俺の話聞いてる?」
「・・あァ?聞いてる聞いてる。」
実は聞いていなかったが聞いていたと言っておく。
「どうしたよ、銀さんらしくねぇな。なんか今日は喋らねぇし。悩み事か?」
ホラよ、と隣に座るこの男長谷川は俺を気にしてか、さっきからよく酒を注いでくる。
「悩み事だぁ?んなもんあるかよ。」
そこまで言って、また無言になる。俺が猪口に並々に注がれた酒を眺めていると、視界の端にこのグラサンの男がため息をつく姿が見えた。
酔ってきて熱を持った頬にヒンヤリとした夜の風は心地良い。そしてまた先ほどまで降っていた雨の匂いが夜風にのって鼻を掠めていく。
「なぁ銀さん。何か悩む時ってのは誰にだってあるもんさ。俺なんかは、よくハツが家を出て行って・・て、アレ?銀さん聞いてる?な、聞いてる?」
悩み――か。
俺がンな・・・らしくねェ。
フッと一瞬笑ってから、猪口に残っていた酒をくいと呑んでしまい、立ち上がった。
「悪ぃな、長谷川さん。今日はありがとよ。俺はもう帰ぇるわ。」
「え、もう帰んの?」
暖簾を潜り屋台を出る。
やはり、夜も更けてくると気温が下がる。先ほどまでは心地よく感じていた風も今では寒くなってきた。
少し身を縮ませながら暗くなった道を歩く。
‥ったく、何もこれもこんな気分になってんのは何のせいだコノヤロー。
今日は気分良く飲んでやろうと思ってたってェのに・・・
満月の夜ってのは、いつもどこか気分が落ち着かねェ。いつもそうだ。何かが心の中で引っかかったような…何故こんななのかなんて理由は自分にも分からねぇけど。だからってその理由を探ろうとも思わねェ。そんなもの、探ったところで何になる。病気でもあるまいし。
満月の夜の恒例行事ってこたァな。気分の良いものでも無ぇが気にしないでいいだろ。
…なんて、ブツブツ歩いていれば気づけばもう万事屋が見えてきていた。
万事屋へ続く階段をブーツの音がなるべく響かないように静かに上っていく。
「・・・?」
階段を上り終えた時、万事屋の入り口の前に誰かいるのに気づいた。小柄な体型に少し長めの髪からして女性だろうか。暗くて顔は分からないが。
「アノすいませんけど今営業時間外なんで、また明日の朝にでも来てもらえませんかね。」
万事屋の店主として、ここは声をかけた。
けれど、その女はずっと入り口を見つめたままでなんの反応もみせない。
『ちょオイ、なんかこの人気味悪いんですけど・・・いやでも透けてないし、大丈夫。え?何が大丈夫?いや怖くないから。別に怖い訳じゃねぇから。』
その時、雲に隠れていた月が姿を見せた。その月明かりで女の顔が照らされた。どこかで会った気が。気のせいか?
そしてまた静かに月に雲がかかった。月明かりが無くなった夜の闇が再び街を包み込んでいく。
「・・な・さい・」
「は?」
途切れながら、何か聞こえた。
「ごめ・・なさい」
「アンタ、何言って・・・」
瞬間、頬に掠めた風。
一瞬のことだった。
女から殺気を感じ構えた今、目の前にはもう地面が見えている。
『やべえよな、これ。』
頭の中ではそんなことを考えながらも、体はまるで金縛りにあったように動かない。
『オイオイ、俺こんなに弱かった?ただ単に今は酔ってたからか?』
意識が遠のき意識を手放したその時、最後に頭に浮かんだのはなぜか先ほど自分をやった女…
月明かりに照らされた、女の涙。
『さいごくらい、もっと良いもん拝みたかったぜ…』
女は夜闇に包まれた街に走り去っていった。
―オマエハダレダ?
―オボエテナイノ?
―ナゼナイテイル?
―アナタガオボエテナクテ、
ヨカッタ
―オレハ、オマエヲシッテイル?
―オモイダサナイデ
ワタシモスベテ、ワスレルカラ
永遠ニワスレテ