目下の泥濘【12】
なまえは、廊下で立ち止まった。
(あれは、)
確か、以前太宰が貧民街で見つけてきた少年。黒い髪、太宰が与えたという黒い外套。まるで肉のついていない、折れそうなほどの細いシルエットは少し前屈みになっていて、小さく咳き込んでいた。
名前は、確か。
「芥川、くん」
彼の肩が揺れ、こちらを、向く。
「…、やつがれに、何か」
あからさまに敵意をむき出しにしている瞳は、なまえは、苦手だった。
「や、…いや、その、具合が悪いように、…」
「いつものこと。問題ない」
「いや、君…怪我をしているじゃないか」
「問題ない、と言っている…」
最近、組織全体がざわざわと揺れていた。その原因は、なまえには解らなかったけれど、きっと、
「不躾に名を呼んだのは謝罪する。…わたしはみょうじ なまえという」
「みょうじ…、みょうじ、なまえ。貴様が、あの、」
「、あの?」
「首領の『人形』、か」
視界が歪んだ、気がした。
「…人形、」
「構成員は皆、口を揃えてそう言う。黒髪の人形、首領の玩具、と。防護の異能も貸し与えられた一時的なモノ。見目麗しくあっても、それだけで何も成さぬのは、…人間ではない。血の無い、人形」
「何も、成さない」
「…、」
咳き込み、芥川は頷いた。
「わたしが、首領の傍にいるだけで何もしていないと、周りの構成員はそう思っているのか。異能も、わたしのものでは無く、借り物と…」
それは、
「…人形に用は無い」
芥川は咳き込みながら、くるりと踵を返した。立ち止まっているなまえにはもう目もくれず、歩き出そうとした、その刹那。
「…芥川くん、それは、」
半分正解で、半分は間違いだ。
「、!」
背筋を走る悪寒。芥川の外套から、黒い獣が躍り出た。力任せに喰い千切る獣の牙は、しかし、『夜の王』の翻ったマントに、あっけなく阻まれた。
「貴様、…それ、は!」
「…見るのは初めてか。それともまさか、これが『首領の異能』だとでも思っていたのか」
王様はふわりとマントを翻し、シルクハットの位置をすこし直すと、なまえの傍らにそっと寄り添った。
「昼間、屋外で王様の顕現を制限していたのはこういうことか。…なるほど。確かにそう誤認していてくれると、わたしも動きやすいな」
「…、チ」
舌打ち。
「正真正銘、わたしの異能だ。名前は『夜の王』。
誰かに貸し与えられたものでは無い。…芥川くん、医務室へ行くぞ」
「行かぬ、やつがれ、は、…」
立て続けに咳き込む。
「その怪我と咳は見過ごせないんだよ。君はいいかもしれないが、わたしが良くない」
肩に伸ばした手を乱暴に払われる。誰からの助けも、芥川は拒絶している。
「人は独りでは生きてはいけないよ」
「要らぬ。やつがれは誰の助けも要らぬ」
明らかな敵意と拒絶。背を向けて歩き出した芥川を、なまえは、今度は追えなかった。遠くなる芥川の背中を、ただぼんやりと見ていた。
「人は、独りでは、…」
自分の言葉を反芻する。
(そうだ、わたしだって、)
振り向くと、白いペストマスクがこちらを見下ろしていた。こてん、と首をかしげる。
「…そうだな。わたしにも王様がいてくれたから…、王様、ありがとう」
王様はこくり、と頷いた。
「王様、お願いがあるんだ」
王様の細い手を取り、なまえは呟いた。
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