目下の泥濘【11】
「安吾さん、」
やっと会えた。ここしばらく、話は聞くものの姿の見えなかった坂口。アジトの廊下ですれ違った。
「なまえさん、お久しぶりですね」
「安吾さん。この間は、その…すみませんでした」
「この、間…、…ああ、」
「せっかく来てくれていたのに。寝てしまって」
「ははは…疲れていたんでしょうね」
「すみません。お出かけ前に」
商談なのだろう。彼は、なまえが見慣れない、少し大きめの鞄を持っている。
「…ええ、まあ、少し」
「今日は雨が降る。傘を持っていった方がいい」
「ありがとうございます。折り畳み傘を持っていますので大丈夫ですよ」
「安吾さん」
「はい、」
「…気を付けて。」
普段はそんなことを言わないのにどうしてだろう。なまえは何故だか、そう言ってしまった。
「…なまえさんは、…」
ふ、と坂口が微笑んだ。
「ありがとうございます、なまえさん。また良ければ、あの場所でご飯でも食べましょう。…そうですね。パンケーキの美味しいカフェ、今度ご案内しましょうか」
「…、ほんとう、ですか」
パンケーキ。魅惑の単語だった。なまえは年頃の少女らしく、甘いものには目が無かった。
「…ええ、また今度」
「安吾さんは忙しいから…いつになるかわからないな」
「ははは、ちゃんと覚えておきますよ。大丈夫です」
そうして、なまえは坂口の背中を見送った。
(なんだろう、)
ざわざわする。なまえは、今まで感じたことのない不安に覆われていた。
「、王様」
呼び掛けると、王様はすぐに姿を現した。
「…わたしは、安吾さんを止めた方が…良かったんだろうか。何だか嫌な気持ちだ」
王様は首をかしげると、なまえの頭を優しく撫でた。まるで、大丈夫だと言いたげに。
「ありがとう…王様」
なまえは、王様の手をそっと握った。
「なまえ、君はしばらく私の護衛に就くように」
「…、かしこまりました」
何か意図があるのは、なまえも解っていた。けれど、聞いたところでこの森鴎外という人間が簡単に答えてくれることはない。
きっと、すべてが終わってからその意図が解る。
なまえは、頷いた。
「早速だけれどもね、なまえ、エリスちゃんの服、…どちらが似合うと思う?」
さっきまでの引き締まった表情はどこにもなく、だらしなく笑ってカタログを開く首領。
「…わたしは、そういうセンスは…」
「駄目!駄目だよなまえ、そこは冷たく罵ってくれないと。敬語もいらないと前に言っただろう?」
「しかし、組織の首領にわたしのような地位の人間が…、」
「首領としての命令、そしてお願いだよ、なまえ。私がいいと言ってるんだ。気にしなくていい。誰かが何かを言うなら、私の命令だと胸を張って言いなさい」
「は、はい…」
「それじゃあやりなおし、はい」
「……、」
なまえは、大きくため息をつく。
「エリスの服を選ぶのもいいが、今溜まっている仕事を終えてからにして頂きたい。部下に示しがつかなくなる。いいな?」
「…っ!、最高だよなまえ!!」
(かえりたい…)
なまえは、軽い目眩を覚えた。
----------------------