くつくつと煮える音に、それでも顔を上げなかったのは秋雲一人だけだった。
鼻の奥を擽る、強い出汁の香りに、心惹かれなかったわけではない。それでも秋雲は、決して視線を上げなかった。
膝に置いた、大きなスケッチブックから。


冬といえば鍋でしょう! なんて鶴の一声(正確には、ネームシップの一声)に、三番艦である姉が賛同してから、たった二時間。
慌しく始まった鍋の準備に、秋雲は目もくれなかった。いや、実のところ、舞風が大きな土鍋を運んできた時も、谷風が食器を並べだした時も、時津風が食材を持ってきた時も、一応、盗み見ることくらいはしたのだ。部屋の隅で三角座りをしながら、そっと、気づかれないように。その証拠に、先ほどから膝の上のスケッチブックに、特に真新しい線は引かれていない。
秋雲は嘆息した。
(今日も、また)
また、かぁ。


艦娘と呼ばれる存在になって、自分が夕雲型ではなく、陽炎型であったことを知らされた。それについて不満はない。陽炎型の姉妹はみんな優しく秋雲を迎え入れてくれたし、夕雲型じゃなくなったからと言って、今まで姉妹だと呼ばれていた彼女たちとの絆が立ち消えるわけでもない。陽炎型駆逐艦、秋雲。多少の戸惑いはあれど、秋雲に不満はなかった。いや、それがおそらく、いけなかった。
家族、というものは、一夕一朝でなれるものではない。ましてや多少の戸惑いを抱えながら、家族として接してもらおうなんて。
陽炎型の姉妹は、みんな優しかった。でも、そう、それだけ。
だから秋雲は『おてつだい』が出来ずにいる。手伝うことが当たり前、というのは、どう考えても家族の特権だろう。そこには、踏み越えられない境界線があるのだ。それが家族水入らずの食事の、その準備となれば尚更のこと。
それが――それが今、秋雲が膝を抱えている理由だった。いじけたように。拗ねたように。はたまた、不敵に、傲慢に、ただ食事が出てくるのを、待っているかのように。
陽炎型の姉たちは、自分のことを一体どう思っているのだろうと、それを考えると顔を上げることができない。突如出来た妹。夕雲型二番艦と呼ばれていた、末妹。そう、おそらく秋雲は、妹としての接し方を忘れてしまったのだと思う。夕雲型では『二番目のお姉ちゃん』だったから。
浦風のように出来たらな、と思う。彼女は、下から数えたほうが早いくらいの妹なのだ、あれでも。あるいは、舞風のように無条件に甘えることが出来たら、と。あるいは初風のように、天津風のように――。
もちろん無理をすることはしない。そんなことをしてもいつかボロが出る。等身大の秋雲。ありのままをそのままに、伝えることが出来たら。
お呼ばれしないと食事の席に座ることも出来ない。そんな他人行儀な関係はもう嫌なのだ。
雪風が、注ぎ足し用の出汁が入った大きな鍋を、よたよたと運んできた。陽炎型は人数が多いから、それだけ食材も出汁も沢山必要になる。手を、貸せればよかったのだと思う。実際、指は動いた。ぴくりと、でも、確かに。
「……雪風、私が運ぶから」
言いかけた台詞は、あえなく喉の奥につっかえる。浜風が、ふらりとよろめいた雪風の肩を、後ろから支えたからである。
それで、秋雲の気持ちはどうにも、萎んでしまった。
(……どうしたらいいんだろ)
どうしたら、いいんだろう。
もちろん、秋雲だって分かっている。家族は、無理をしてなるものではない。だけれど、陽炎型の姉たちは、秋雲を優しく温かく迎え入れてくれた。だから、一歩。この一歩を踏み出すのは秋雲の方だ。いや。そんなことを、そんな御託を並べたいわけではない。秋雲はただ。
家族と、仲良くなりたい。それだけなのだ。
秋雲はぎゅっと、膝の上で握りこぶしを作った。その手には、使い古した鉛筆。これは陽炎のお下がりである。そう、姉が、妹にするように。自分が使っていたそれを、陽炎は秋雲にくれた。
「私はもうこれ、使わないんだけど」
秋雲、アンタ使う?
素っ気無く手渡されたそれ。だけれど、秋雲は気づいていた。差し出した陽炎のその指が、緊張で真っ白になっていたこと。触れたら、冷たかったこと。わずかに震えていたこと。
秋雲は全部、気づいていた。
「…………」
深呼吸を一つ、いや二つ。そうして見た自分の手は、あの時の陽炎と同じ。白くて、冷たくて、震えていた。




鍋、というものは。
人によっては、他人と一緒に食べたくないという者もいるだろう。赤の他人と一緒に、同じ鍋を突くなんて悪寒が走る。そういう感覚も、まあ確かに秋雲にだって分からなくはない。秋雲はあまりそういうところを気にはしないのだけど、いや、だからこそ、今日、陽炎型が全員非番というこの日に、陽炎が鍋を提案をした理由も、分かろうというものだった。
「秋雲、もうちぃとしたら食べれるよ」
浦風が、菜箸で水菜を掴み上げながら、秋雲を呼んだ。だから秋雲は立ち上がる。その手にスケッチブックと、陽炎にもらった鉛筆を、携えたまま。
それを行儀が悪いと咎められていたら、秋雲の足はそこで止まっただろう。一歩を、踏み出せなかっただろう。
だからぺたりと卓袱台の、決められた位置に座って、秋雲はほっと胸を撫で下ろした。あとは、そう、きっかけさえあれば――。
「ねえ、秋雲」
待ち望んだその助け舟は、思わぬ方向からきた。
隣に座った舞風が、秋雲の腕を肘で突いたのである。
「いっつもそのスケッチブック持ってるけど、中に何が描いてあるの?」
素朴な疑問である。だけれど、それでよかった。それで、きっかけには、十分だった。
「この中にはねぇ、私の大切なものばっかり描いてあるんだよ」
たとえば、と秋雲は言う。
「綺麗だな、と思った景色とか、物とか」
指は冷たいのに、手のひらはひどく汗ばんでいた。だけれど秋雲は笑った。少しぎこちなかったかもしれないけれど、それでいいと思った。
「大切な人たちの、笑顔とかね!」ぺらり、と捲ってみせたのは、先ほどまで一心不乱に描いていたページ。そこには陽炎型の姉たち。そして、秋雲。
食卓を囲んで笑いあう、そんな絵があった。
「どーぉ? なかなか上手く、描けてるでしょ?」
震える声で、それでも胸を張る。秋雲は、秋雲らしく伝えたかったのだ。
陽炎型の姉たち、彼女たちが『大切な人』であることを。
舞風が、きょとんとした目で、スケッチブックを見つめ、そしてぱっと笑顔になる。
「それって、舞風たちが大切ってこと?」
こてんと首を傾げた、舞風。秋雲は間髪を入れずに「当然!」と答えていた。答えることが、出来た。
「じゃあそれ、額に入れて飾らんとねー」
そう言ったのはお玉を魔法使いのように持った浦風で、秋雲はたはは、と笑ってしまった。
「額縁なんて、あったかしら」
思案顔で呟いたのは陽炎。
「陽炎の部屋にあったやん……」
何で覚えてへんの、と呆れたように言ったのは黒潮。
ああ、こんなにも簡単なことだったのだ。家族というものは、きっと。
笑いあって、話をして。
そしてご飯を一緒に食べれば、それだけでよかったのだ。
「ねえ、明日の朝、早く起きるからね」
だから私にも、朝ごはん作るの、手伝わせてよ。
秋雲は言った。スケッチブックと、鉛筆を、その両手に抱きながら。


「隙あり!」
「あー秋雲ずるいよぉ」
今日は奮発した、と不知火が言っていたその肉を、秋雲は華麗に鍋から取り上げた。
「こーらー、野菜もちゃんと食べんさい!」
甘い声の浦風の叱咤。
「あー! 時津風が雪風の白滝ぜんぶ食べちゃいましたー!」
「雪風は渋好みですね……」
私の白滝あげますから、と、浜風。
幸せだ、と秋雲は思った。幸せなんて、陳腐でありふれた言葉だけれど、本当にそう感じたのだから、仕方ない。
幸せだ。秋雲はもう一度そう、呟く。
陽炎型駆逐艦、秋雲。
これからはそう、笑顔で名乗れるように。








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