「そしたらね、雪風には全然当たんないの!」
つまんなーい、と時津風はぐっと両足を伸ばした。それが本当に、駄々をこねる小さな子供のように見えて、天津風は苦笑する。
浦風も大方、天津風と同じようなことを考えたのだろう。ふふ、と笑いながら、雪風はほんに運がええけえね、と、自分のカップへと静かに紅茶を注いだ。金剛からもらったのだという英国直輸入のその紅茶を、しかしストレートで飲める者は、姉妹の多い陽炎型の中でもたった二人しかいない。そもそも陽炎型姉妹には、長女の影響によりコーヒー党が多い。かく言う天津風は数少ない紅茶党の一人だが、それでもこの紅茶はミルクをたっぷり入れないと、飲むことが出来ない。癖が、強すぎるのだ。これを美味しくストレートで飲めるのは、前述の通りたった二人。
一人は、今天津風の目の前にいる浦風。浦風に好き嫌いはない。それは浦風が味覚音痴だというわけではなく、よほど不味いものを除いて、それはそういうものとして楽しむことの出来る、稀有な舌の持ち主だということだ。
だけれど、もう一人はそうではない。しかしおそらく、この味が好きなわけでも、殊更気に入ってるというわけでもないだろう。それでも彼女は、浦風の淹れてくれるこの紅茶に決して混ぜ物をしない。健気よね、本当、と天津風辺りは思うのだけれど、この、妙に距離を取るのが上手い海色の髪をした妹が、それに気がついているのか、どうか。
がたり、と背後で建て付けの悪い扉が軋んだ。三人が一様に目を向けると、そこに立っていたのは、白銀の髪を持つ少女。
「お疲れ、浜風」
浦風は、彼女を――浜風を笑顔で迎えた。天津風はそれを見て、小さく、ほんの小さく肩を竦める。
「時津風、私たちはそろそろ午後の演習でしょ」
行くわよ、と声をかけたのは、もちろん気遣いからだ。ジャムや食べかすで口の周りをべたべたにした時津風の手を、そっと引いた天津風は溜め息をつく。浜風が、金剛の紅茶をストレートで飲めるようになった理由を、天津風は知っていた。


朝昼夕の三食と違い、この午後の時間に姉妹全員が揃うということは本当に稀なのだけれど、それでも皆、手が空けば必ず浦風の元を訪れる。
浜風だってその一人だ。どうしても外せない用がある時以外は、浜風はまっすぐに自分の部屋へと帰る。そう、浜風と浦風は同室である。
間宮に人が集中する食事時と違い、この午後の時間は共有スペースに人が多い。だからわざわざ浦風は、共有のキッチンでおやつを作った後、自室まで移動してくるのだ。もちろんこの時間に限っては、出撃を終えた駆逐艦などと鉢合わせることも多いため、必要があれば浦風は彼女たちの分までもを用意する。
「ちょうどフルーツを切らしとってね」
今日はちょっと手抜きじゃけえ。言いながら、バターと小麦粉と卵、そして純粋な砂糖だけで焼き上げたそれを、浦風は実に均等に切り分ける。飾りなんてない、シンプルなケーキ。生クリームすらも添えられていないそれを、しかし浜風は決して味気ないとは思わなかった。ましてや手抜きだなんて。浦風が、姉妹の口に入るものに、欠片だって気を抜くはずがない。浜風はそれを、よく分かっている。


陽炎型の部屋として割りあてられたのは、広い鎮守府の中でも一番大きな広間だった。着任したばかりの浜風が物怖じしてしまうような、がらんとした大きな、大きな部屋。
人数が多いから、という理由で充てられたその広間を、パーテーションで区切ろうと言い出したのは不知火だった。浜風たちが着任するまでは、他の艦と同じように小さな部屋をいくつか使っていたというから、おそらく、突如与えられただだっ広いだけの空間に、戸惑いを覚えたのだろう。
姉妹が増えるたびにパーテーションの配置を変え、時には増やし、そうして落ち着いた今の部屋割に、浜風は概ね満足していると言っていい。
「ジャム、つける?」
先ほどまで時津風が占領していた大きなジャムの瓶を、浦風はそっと差し出した。その表面は、べたべたと汚れている。おそらく時津風が使用する際につけてしまったのだろうと、浜風は口元に、ほんのり淡い笑みを浮かべた。これでは部屋を出るとき、時津風の手を引いた天津風の指も、べたべたになってしまうに違いない。浦風もそれに気づいたのか、くすくすと笑いながら、その大きな大きなジャムの瓶を濡れた布巾で拭った。
時津風は、時折びっくりするくらい子供じみた仕草をする。未だにばってん箸が治らないのも、さることながら。ともすれば、末の秋雲や舞風なんかよりもずっとずっと幼い眼差しで物事を測る時津風だけれど、それでも浜風にとっては、いや、浦風にとってさえ、彼女は紛れもなく姉なのである。彼女は彼女の世界を、赴くままに生きている。それがどうしてだか、嬉しい。べたべたのジャムの瓶。それを拭う浦風の瞳が、優しく細められる。


たとえ出撃の予定があったとしても、浦風は姉妹のためにほとんど毎日欠かさず食事を作る。それはおやつに関しても同じことで、決して作り置きではない出来立てのケーキが、浜風の前にちょこんと鎮座ましましている。浜風は脇に置かれたフォークを手に取りながら、小さく、気づかれないように嘆息した。本日も、浦風は午前の演習、出撃、全てをこなしてこれを作っている。
――そういえば、以前、浜風は言ってしまったことがある。
「そんなに無理しなくても、いいんですよ」
と。
特別辛そうに見えたわけではないのだけれど、高練度艦である浦風は、出撃の声がかかることも多い。それらを終えて、帰ってきたら食事の準備(しかも、駆逐艦屈指の大所帯、陽炎型全員分の食事を)だなんて、疲れるに決まっている。しかも彼女は、作り置きを殊更に嫌うというのだから。
たしかに浦風は姉妹の中でも、着任が遅かった。だから変な気を回しているのではないかと、浜風は心配したのだ。もちろん、それは見当違いだったのだけれど。
問われた浦風は何でもない顔で、浜風の頭を撫でた。
「心配してくれとるんやね」
ありがとね。そう言って浦風はへにゃりと笑った。
「じゃけど、うちはこれっぽっちも無理なんてしとらんよ」
浦風の背は、浜風より少しだけ低い。だけれど背伸びをするほどでもないこの目線を、距離を、浜風はとても気に入っていた。浦風は「うちはね」と言った。太陽のように温かい指が、浜風の頭から離れる。
「みんなが美味しい言うて笑顔になるじゃろ? それを、ただ見たいだけなんじゃ」
だからこれは、うちのわがままなんよ。
ああ、と浜風は、なんだか泣きたくなってしまった。浦風は、それをきっと本気で言っているのだ。虚勢でも、偽善でもなく。心の底から、言っているのだ。
おそらくこんな風な質問をしたのは、浜風だけではないだろう。だけれど今ではもう、誰も何も言わない。それは多分、浜風に語った浦風の言葉が、嘘偽りのない、本音だったから。
とにかく、現在の陽炎型の食事は、ほとんど浦風が一人で作っている。このおやつも、そう。
「浜風は紅茶、ストレートでええよね?」
言いながらカップを温める浦風に、浜風は「はい」と答えた。カップを温めるのは、相手に対する思いやりデース、なんて、金剛が言っていたのを、思い出しながら。




「そんでね、昨日、雪合戦をしたらしいんじゃけど」
雪風にはどうやっても当たらんかったんじゃて!
姉妹といる時の浦風は、いつもより一段甘い声で喋る。両頬に手なんてつきながら、普段よりも少し、間延びした口調で。
砂糖を入れない紅茶が、それでも途端に甘くなるようなその声を、浜風は静かに聞いていた。そうしたら、のそりのそりと、浜風の中に浦風の声が溜まるから。砂糖のように、甘い声が。
息苦しい、と浜風は思った。人間を模したこの身体は、呼吸をしないと生きてはいけないのに。浜風、と名前を呼ばれる度に、何故だか、涙が出そうになる。
浦風の話にぎこちなく笑って相槌を打ちながら、誤魔化すように目の前に開かれたままのケーキへと、そっと手を伸ばした。
素朴な味の、そのケーキ。ふいに浜風は、昔初風が言っていた言葉を、思い出した。
『砂糖にもね、致死量があるのよ。この世界にあるどんなものにも、致死量は存在するの』
だから、ねえ、浜風も気をつけなさい。
初風は力なく笑った。自分はもう、手遅れだからと。
のそりのそり、溜まるばかりの浦風へのこの想いに、初風が気づいていたとは思えない。あれはあれで、不器用な人だから。彼女の瞳には、もうずっと、一人の姉しか写っていない。
もちろん、一般的に毒と呼ばれるものに比べて、砂糖や、水や、塩などといったものの致死量は、とても多い。だから普通に生活をしていて、それらによって死んでしまう、などということはまずないと言ってもいいだろう。だけれど。
「また雪が降ったら、今度はみんなで雪合戦しようって言ったんよ」
のそり、のそり。浦風の紡ぎ出す言葉は、決して毒などではない。だからそれらは気づかぬ内に浜風の中に溜まって、そして、息すらも出来なく――
「浜風?」
呼ばれて、顔を上げた。それが多分、いけなかった。
「……ッ、」
目の前に、浦風の綺麗な瞳があった。涙の膜の、その奥。静かに、しかし確かに燃ゆる、青い炎が。
「はまか、」
熱でもあるのでは、と伸ばされた手。それを、浜風は取った。取らざるを、得なかった。
激情のままにその手を引けば、当然、浦風はバランスを崩す。
言葉にならない、と思った。そして同時に、言葉にしなくていい、とも。のそり、のそり。砂糖のように甘い感情。
――卓袱台越しの、口付け。
「……ら、かぜ、ねえさん」
たった一度触れるだけで離れた唇が、痺れている。やっとのことで押し出した声は、懇願するような響きを含んでいた。
衝撃を生んだ浦風の唇が、何かを言おうとして、そしてやめた。浦風もまた、気づいたのだろうか。言葉など、必要ないのだと。
のそりのそり、降り積もるその感情。いつかそれらが浜風を死に至らしめるとしても。
この手を、離すことはできない。浜風は、そう思った。
机の上では冷え切った紅茶が、二人の行方をじっと見つめている。


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