▼ 二月一日
きっといっしょうをかけてもわからないこと。/ろじいす
あほのはにはわからないだろ。あの低い声で言われる、決まり文句だ。
そりゃあぼくたちはテストなんか庄ちゃん以外いつも視力検査で、土井先生の授業で何回聞いても覚えられないことばかりだ。
い組と僕たちは違う。それは当然のことだ。違わなければ、敢えてクラスを分ける必要もなければ、土井先生が胃薬を飲むこともないわけだ。
だから、い組の考えることは、理解できないことばかりで。
「さぶ、ろうじ、」
「くるな!」
あの、深い深い水底を覗き込んだような、暗い緑色から、透明な塩水がポロポロと零れ落ちている。焔硝蔵の裏手。火薬委員以外なら、まず人は来ない。
なぜ彼が泣いているのか、ぼくは知っていた。人の口に戸は立てられない。三郎次を嫌っている団蔵が、嬉々として教えてくれた。どうやら、最近テストの成績が下がり気味で、松千代先生に心配されたらしい。
「別に、怒られたわけでもないのに。」
「うるせえ!あほのはには、わからない。」
そう。ぼくたちにはわからない。テストの成績が下がってくやしいという気持ちも、先生に叱られたわけでもないのに泣いてしまう気持ちも。
きっと、ぼくと三郎次は一生相容れない。
(すき、すき。)/さこらん
最初に思ったことは、ぜんぜん優しくない、ということだった。
保健委員会は、その名の通り保健室に詰めて、患者さんの治療をすることが主な役割だ。だから、というわけでもないけれど、保健委員会は優しそうな人間が多かった。
善法寺伊作先輩は柔らかい物腰で何でも優しく教えてくれるし、三反田数馬先輩はほんわりとしていて、よく覚えていないけれどとにかく優しそうだった。けれど、ひとつ上の川西左近先輩はなんだか物言いもつっけんどんだし、意地悪だし、何でこの人が保健委員なんだろうって思ってた。伊作先輩に怒られないのかしら、なんて思ったことも一度や二度ではない。
だから、いつものように騒動を巻き起こして、無茶をして帰ってくると、必ず怒られた。いつもいつもは組は、と。
そのは組は、の後が続いたことはなかった。左近先輩は言わなかったし、私も聞こうとは思わなかった。お説教が長引くのはごめんだもの。
だけど、あるとき、聞いてしまったのだ。
「お前たちが怪我をして、悲しむ人間がいることを自覚しろ!」
とてもおおきな声だった。いつも怒りっぽい人ではあったけど、こんなに怒っているところは見たことがなかった。そのあと左近先輩は何も言わずに治療をしてくれて、私も何を言えばいいかわからなかったのだった。
後日、伊作先輩に聞いたのだ。自覚をしろ、とはどういう意味なのか、私にはよくわからなかったから。けれどきっと、左近先輩に聞いたって、教えてくれやしないのだろう。
伊作先輩は、私の包帯を巻きなおしながら、それはね、と教えてくれた。
「左近は優しいからね、乱太郎が怪我をして帰ってくると、左近まで痛くて仕方なくて、悲しくなってしまうんだよ。だから、乱太郎には怪我をして欲しくないんだと思う。君たちが怪我をしたら、左近みたいに悲しくなってしまう人が他にもいるってことを、左近は言いたかったんじゃないかな。」
もちろん、ぼくもね。そういって、包帯の端っこを結んでくれた伊作先輩に、私はありがとうございます、といった。
それからは、は組は、の後もわかるようになった。優しくないと思っていた先輩は実はひどく優しい先輩で、ただ怪我をして欲しくないから怒るのかなあ、なんて、少ない脳みそで考えてみた。
何で痛いんだろう。何で悲しいんだろう。ああでも。
もしあなたが怪我をしたら、私は多分、痛くて悲しい。
アイラブユーを喩えなさい/のせきり
魔法の言葉を教えてあげる、と嬉しそうなしんべヱにささやかれたのが、昨日。何でも、しんべヱのパパさんに教えてもらった、南蛮の言葉らしい。
『これは一人の人にしか使えないから、一番大事に使わなきゃダメだよ。』
『しんべヱは使わないのかよ。』
『ぼくが持ってるよりもきり丸が持ってた方がいいよ。それに、ぼくはもう魔法にかかっているもの。』
ふーん、とだけ返事をしておいた。しんべヱの話は時々あいまいで、よくわからないことがある。
そして、今日。委員会活動は、虫食い文書がないかどうかの点検だ。本棚から出した本を、一ページずつ穴がないか確かめながらめくる。ぺらりぺらりとめくっていると、突然後ろ頭に衝撃が走った。
「いった…。なにするんすか、能勢久作先輩。」
「きり丸、もっと丁寧に一ページ一ページを点検しろ!虫食い穴を見逃したらどうする!」
「はいはい、わかりましたよー、と。」
まったく、この人はいちいち細かいからかなわない。几帳面すぎて、周りのこちらが大変なのだ。しかもい組らしく、非常に嫌味だ。いつもあほあほ言われているから、どうしても反抗的になってしまう。こんなことを聞かれたら、また言い争いになってしまうだろうけど。
ああ、い組といえば。
「久作先輩は、成績優秀ない組の生徒なんですよね?」
「ん?何だ突然。まあその通りだが。あほのは組とは違うんだ。」
「へーへー。」
適当に返事をして、それならば、と昨日しんべヱに聞いた耳慣れない言葉を口から滑らせる。しんべヱは結局、意味は教えてくれなかった。久作先輩がこれの意味を知っていたらすっきりするし、知らなくてもからかうことのできるネタが増えるだけだ。損など何もない、と音を紡ぐ。
「I love you」
ってなんですか、という問いかけは後に続かなかった。目の前に立っていた旧作先輩の顔が。見る見るうちに真っ赤になっていったからだ。おそらく、頭巾に隠れた首筋ですらも赤いだろう。
「っバーカ!」
「ええ?!」
生真面目な彼にしてはありえないことに、俺に暴言ひとつ投げつけるとものすごい勢いで図書室を出て行ってしまった。呆然としていると、隣で作業していた雷蔵先輩が、ポン、と肩をたたいてきた。
「きり丸、アイラブユーの意味、わかってる?」
「いや、昨日しんべヱに聞いただけなんで。」
やっぱり、と疲れたように肩をおとした雷蔵先輩は、魔法の言葉の意味を教えてくれた。
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