▼ スターボウル
「んぎゃ!」
カエル、いやこの場合はアヒルか。
とにかく何かしらがつぶれたような声に回転式の椅子を回せば、頭を押さえて呻いている塊に声をかけた。
「柳沢、なにやってんの?」
「…っ!淳のせいだーね!これが上から落ちてきただーね!」
そばに転がっていた何かを突きつける、それは青をベースにした深皿状の、
「…星座早見?」
「適当な置き方するんじゃないだーね!めちゃめちゃ痛かっただーね!」
「ああ、ごめんごめん」
ずんずんと迫ってくる柳沢に、なだめるように腕を軽くたたいてから、星座早見を受けとる。へこみなんかはそれほどないけれど、真新しさはないそれは、せんべつ、そう言ってサエから渡されたものだ。
*
『あの星は見えるかい?』
そう言って短い指で空の一点を指さすサエに、みんなで口々に『見えるー』とか『どれー』とか言っていた。
『光が弱すぎるのかな…。淳はわかる?』
『うん、わかる』
『そう、よかった』
うそ。本当はどれがどれだかわからない。けれど隣にいる亮がわかるって言ったから、つまらない意地を張って、わかる、なんて答えてしまった。
『あれが北極星。あれを基準に見るとわかりやすいんだ』
みんながそう言ってサエに教えてもらっている間に、僕は必死にサエが持ってきたその青い皿を見ていた。その中心にある、北極星。そこから連なる北斗七星。懐中電灯の黄色い灯に照らされた白い点を目に焼きつけてから空を見上げても、同じ形は見えてこない。何度も何度も下を向いては上を見る、それを繰り返していると、『淳?』と中心にいたはずの声が聞こえた。
『…サエ?』
『どうしたんだい?』
『あ…』
どうやら他のみんなはいつの間にか海遊びになったらしい。だからひとりでここに居た僕が気になったのか。けれど北極星がわからないことなんか今更言えるはずはなくて、視線を落とした先にあった青い皿を見つめていると、突然ふふ、と笑い声が聞こえた。
『そうじゃないよ、淳』
『え?』
『それの見方。逆だよ』
そう言うと、ぐい、と肩を引かれていつの間にか砂浜に仰向けにされる。わけがわからずに隣に寝転んだサエを見ると、ニコリ、綺麗に笑って僕の手の上にあったそれを手に取った。
『ほら、これが俺が見てる夜空だよ』
ぽつりぽつりと白い星が浮かぶ天を背景にした小さな円盤は、サエがそれを掲げた瞬間、まるで夜空のすべてが自ら入り込んだようだった。それはまるで魔法で、サエは僕に魔法を使って夜空のすべてを閉じ込めてくれたんだなんて、柄にもなくそんなことを思ったものだった。
『クスクス』
『どうかした?』
『ううん、嬉しいなって思って』
『なにが?』
首を傾げるサエになんでもないと横に降って、その手にある星座早見に手を伸ばす。これは僕だけの秘密。小さな小さな夜空は、僕だけが知っていればそれでいい。
*
「淳は星座わかるだーね?」
「ううん、わかんない」
「じゃあなんでそんなの持っているだーね!」
結局僕は夜空を見て覚えることをしなかった。それよりもこの小さな皿の方に執着してしまって、サエに苦笑いされた。北極星すらわからないのも相変わらずだ。
「これの中の星座はわかってるよ。でも実際に空を見たら、どれがどれだかわからないんだ」
「…変だーね」
「変でもいいよ。僕はこれだけわかっていればそれでいいんだ」
そう言えば柳沢は、さっきよりももっと長く唸ったあと、いきなり腕を掴んできた。
「柳沢?」
「オレが教えてやるだーね!外行くだーね!」
そう言うと返事も聞かずに走り出す。青い夜空は置いてきてしまった。観月の怒鳴り声を無視して外に出れば、反射的に見上げた空はあのときの空よりも更に星の数が少なかった。
「えーと、えーっと…」
うろうろと視線をさ迷わせる柳沢に、何となくいたたまれなくなる。柳沢はこちらに来て天体観測をしたことがなかったのだろう。こんな明るい街中で、星を見つけるのは一苦労だ。
いいよ、どうせわからないから。
そう言おうとした瞬間、「あっ!!」という夜に相応しくない大きな声に、体を震わす。
「あれが北極星だーね!」
ビシッ!と勢いよく天を指差した、あの時とは別の長い指を追う。
「…あぁ、」
わかった。わかってしまった。
大切な、小さな空で見慣れたそれ。ひしゃく形に連なっているはずの、北斗七星。
初めて見たそれは、あのとき望んだ形ではなかったのかもしれない。けれど、今の僕にとって、あの星は、この刹那は、確かに大切な存在になったんだ。
「ありがとう、柳沢」
小さく輝く光を、もう忘れないよ。
スターボウル
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