Novels | ナノ
×
- ナノ -


▼ おぼつかないステップであなたのところまで

 柳さんの爪は、綺麗だ。
ていねいに切り揃えられた爪はスポーツマンとして常識、ではあるんだろうけど、テニスをやってるからこそ、俺なんかはすぐいろんなところに擦ったり汚れたりするってわかってるから爪なんかいつも切りっぱなしのガタガタだ。要は割れなきゃいいんだし。
 でも柳さんは違って、白いところのない爪の先は滑らかに弧を描いているし、鈍く光を反射する表面はクラスの女子のような不自然さはなくて、それが好きだ。



「赤也、俺の手がどうかしたか?」


 突然響いた低音に我に返って顔を上げると、明日の練習メニューを考えていたはずの柳さんがこちらを向いていて、それになぜだかひどく後ろめたい気分になって、俺は何も言えずに目を逸らした。
 それに何故かクスリと笑った柳さんは何をするでもなくケータイを持っていた俺の手を取って、丁寧にケータイを外し机の上に置いた。


「柳さん?」

「ほう、ちゃんと切ってあるんだな」


 柳さんのおおきな手の上に掌を合わせるように俺の右手を載せられて、そのまま観察するようにじっくりと見られる。昨日切ったばかりの爪はカクカクと不恰好だ。
 そんな爪が柳さんに見られてる、それがなんだかとても恥ずかしくなって、ぐわりと一気にあつくなった。
 さらさらとした柳さんの皮膚と俺の皮膚が触れ合っているところだけなんだか皮が薄くなったようにピリピリするのに、柳さんの体温なんか全然伝わってこない。わかるのは、俺の手の温度がとても高くて、じっとりと汗ばんでいることだけ。


「やなぎさん、」

「ん?」


 何を言おうとしたのかわからない、だけどとりあえず何か言わないといたたまれなくてとりあえず口を開いた。正直言えば手を離してしまいたいけど、それは許されない気がして、結局口をとじた。
 どうしたらいいかわからなくて動けないでいると、柳さんはいたって自然な動作で、するり、俺の指にその綺麗な指を滑らせた。


「っあ、」


 薬指を辿った一瞬だけのその感覚に、だけど驚いて思わず手を引こうとして、すかさずもう片方の手で手首を掴まれた。
怯えすぎだ、と困ったように笑われて、そんなんじゃないっす、とだけ小さく反論する。そうじゃなくて、すごく大切なものを触るように触れてくるから。
 ついうっかり、錯覚してしまいそうになる。

 これって錯覚じゃないんじゃねーか、って、思ったことは実は何度もある。
 いつのまにか一緒に帰ることが習慣化していると気付いたときとか、ふと斜め上を見ると、見たこともないような緩やかな微笑みが浮かんでいるのを見たときとか。
だけどいざ確かめようとしたとき、変なプライドとか、恐怖とか、そういうものが邪魔することはわかってて、だから俺は絶対言わない。


「赤也、少しじっとしていろ」

「…何スか、それ」

「爪やすりだ」

「…は?」


 知らないか?と首を傾げる柳さんの手にはいつのまにか深い緑と薄い緑に塗りわけられたひらべったい板が握られてて、言われてみれば姉ちゃんが似たようなものを持っていたのを思い出して、首を横に振った。
 それを見た柳さんはそうか、と言って再び視線を俺の手に戻して、でもそうじゃなくて、俺が聞きたいのは、


「…なんで」

「ん?」

「なんでやってくれるんすか?」

「このままだとお前が怪我をしてしまうだろう?」


 コンコン、と示すように中指の爪を柳さんのひとさし指で叩かれて、指全体に響くような振動がはしった。


「そ、じゃなくて、」

「そうではなく?」

「なんで、俺にだけ、こんなことやってくれるんですか」


 顔を俯けて、力いっぱい目を閉じて。
 恥ずかしくてどうしようもなくて、いくつもの蛍光灯のせいで輪郭のぶれた影すら見れなかった。


「赤也」


 思った以上に鋭い声で呼ばれて、思わず顔を上げた。部活のときとか叱られるときとか、それ用の声っぽくて、でもどっか違った、気がする。
 視線を正面に合わせると、ばちん、と目が合って驚く。怒ってる!え、なんだろう、俺なんかした?わからないけど、でもとりあえずやばいような気がして一気に血の気が引く。


「え、と、すみませ、」

「赤也」

「はい!」


 音がしそうなほど硬い声に遮られて、さっきと違う意味でびくん!となる。とにかく謝っとけ、ってのは流石にまずかったかも知れない。なんだかんだで柳さんは誠意とかそういうのに敏感な人だから。
ガチガチになって柳さんの開かれた目から視線を逸らせないでいると、僅かに柳さんの目が泳いだ。え、なに、


「卑怯だろう」


 その聞き方は。
 何を言われたのかわからなくて思わず、え?と聞き返せば、そのくらい自分で考えてみろ、と言われた。ゆるゆると瞼を下ろしたそこはもうさっきの余韻は欠片もない。


「え、何を、」

「そうだな。お前の爪が綺麗になったら。そうしたら答え合わせをしてやろう」


 そういった柳さんはやっぱりいつも通りの柳さんで、だけど一旦血の気の引いた体には柳さんの手の温度がじわじわと伝わってきた。あつい。なんだこれ。

 期待してもいいんですか、なんて。
 俺はバカだからいくらヒントを出されたところでそんなことしか言えないけれど。

 それでもいいなら、はやく。



おぼつかないステップであなたのところまで
(3.2.1!)




title by まばたき

prev / next

[ back to top ]