睡眠 | ナノ
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 太陽を見つめつづけるひと。

 大学に入学した春から住み始めた小さめのアパートで、お隣に住む千石くんは、いつも帽子をかぶっている。いつの季節も変わらずに明るいその髪を覆うニット帽をさすがに疑問に思った夏のころ、ふと聞いてみたことがある。

 なんでいつも帽子をかぶっているの?暑くない?

 だって俺ってば何でも似合っちゃうからさ、なーんてね!

 そういって華やかに笑う千石君に、完璧な笑顔は完璧であること自体が隙であると、教える日はきっと来ない。


 *



 私が入居した数日後に隣の部屋に入居してきた千石くんは、偶然にも同じ大学の同じ学部であった。入居の挨拶に来た千石くんとの会話でそのことがわかった私たちは、しばらく行動を共にするようになった。二人とも友人とは大学が離れてしまったから、新しい友人ができるまではなんとなく一緒にいたのだ。そのうち千石くんにも私にも同性の友人ができたからだんだん疎遠になってしまうのかと思ったけど、千石くんは非常にまめな性格で、会えば挨拶をするし、時間が合えば二人で勉強したりお茶をしたりするような、そんな関係になっていた。
 そうやってすごしてきた中で、千石くんが、ただの明るいだけの人ではない、と思うようになったのは、梅雨が終わって夏休みに入る前の、蒸し暑いころの出来事だった。



 *



「テニスサークル?」

「そう!二人とも飲みサーくらいにしか入ってないでしょ?どう?」


 千石くんと二人で食堂で話していたときにやってきたのは、最近テニスサークルに入ったのだという私と千石くんの共通の友人だった。なんでもテニスにハマっているらしく、暇そうな友人がいればためしに勧誘しているのだという。練習はそこそこ楽だし、定期的に運動すればダイエットにいいというのが彼女の弁だ。なるほど、確かに誘われれば入ってみてもいいかなという気分になる。まったく知らない人の中に飛び込んでいくより、彼女がいる分だいぶ気も楽だ。


「特に千石くんとか。結構鍛えてるよね?何か運動してたんじゃない?」

「え〜、そう見える?」


 にこりと笑う千石くんは、特におかしなところはない。いつもどおり、女の子にすこし甘い、外見に似合う程度に軽い男の子だった。けれど。
 そう、たとえば。
 普通の男の子だったら、自分の体つきをほめられればたいてい喜ぶだろう。それを素直に笑みで表現するか、照れに変わるかは人それぞれだ。
 けれど、千石くんにはそれがない。まるで興味がないように、そう言われたことに対して何の感情も抱いていないように見える。ただ、女の子に言われたから笑顔を返しただけ。なぜか、そのときの私はそんな風に思った。
 考え事をしている間に話はどうやら終わっていたようで、千石くんは彼女に断りを入れていた。彼女はそれを惜しみながらもうなずいていたけれど、そのすぐ後に私からもサークルに入るように説得してくれとメールが届いた。彼女が千石くんを狙っていると察したのはこのときで、まあ別に断る理由もないしと、数日後、たまたまアパートのゴミ捨て場で会ったときに持ちかけてみることにした。


「わたしさ、テニスサークルちょっと覗いてみようかと思うんだよね。」

「へえ、いいねえ。」
「うん、それでね。不安だから、千石くんも一緒についてきてくれない?」


 不自然な頼みでは、なかったはずだった。千石くんと私は、この数ヶ月一緒につるんでいて、こんなことも何度かあった。そのときは確かに千石くんは二つ返事で引き受けてくれた。けれど。


「ごめんね。それはできないよ。」


 単純に、都合が悪いから断っているとは思わなかったのは、「身体を鍛えている」と言われたときの表情が引っかかっていたのかもしれない。実際千石くんは、小柄だけれどもその身体にはしなやかに筋肉がついていて、実際よりも大きく見せているという印象さえ持てた。
 何より、その筋肉がまったく衰えの兆しを見せない、その理由を考えて、ならばなぜ?と首をかしげる。
 それは、もしかしたら予感だった。


「ねえ、千石くん。」

「ん?」

「千石くんは、テニスが嫌い?」

「―――好きだよ。たまらなくね。」


 *



 夏にニット帽なんて、いくらなんでも暑そうだ。けれど、そのオレンジの髪をすっぽりと覆う、まるで何かから守るような黒いそれを、千石くんは異常なほど外さなかった。わたしは、まだ一度も彼の髪を見たことがない。



「ねえ、千石くん。本当は、その帽子、髪を隠すためにあるんでしょう?」

「…何でそう思うの?」

「だって、その髪、褒められてもちっとも嬉しそうじゃないんだもん。なんでわざわざそんな目立つ色なの?黒に戻せばいいのに。」


 傷つけることは、百も承知だった。けれど、それでも、知りたいと思うこの衝動は何なのだろう。知れば知るほど、傷を抱えて生きているようにしか見えないこの人を、暴いてしまいたいと思うこの衝動。いつか読んだジュブナイル、何が恋かと聞いた主人公に、その友人は、相手を知りたいと思ったら恋だといっていた。
 ならば、この。彼を傷つけるだけのこの残酷な衝動も、恋だというのか。


「…できないよ。」

「なんで?」

「…眩しくて眩しくて、決して手の届かないものがあるんだ。俺じゃあどんなにがんばって羽ばたいても、焼き尽くされてしまう。けどね、そんな俺の隣をひょいとすり抜けて、それを手にしちまうやつがいるんだ。だから俺は、そいつですらも眩しくて仕方がない。眩しくて、眩しくて、もう見ていたくなくて、」



 逃げて、隠れた。


「どうしても欲しかったんだ。小さいころからずっとほしくて、そのころは手が届くと思っていた。でもね、あれが取れるのはほんの一握りの選ばれた人だけで、そして俺は選ばれてはいないって、わかっちゃったんだ。




「これがあれば見つけられてしまう。だから隠して、でも、」

「消せばよかったのに。」


 ひどく冷たい声に、一番驚いたのは自分だろう。けれど、そうだ。消してしまって、最初からなかったことにしてしまえば、

 あなたは何にとらわれることもなく、私の隣にいてくれたかも知れないのに。


「…そうだね。けど、消せなかったんだ。この髪を、眩しいといってくれたやつも、確かにいたんだ。眩しいと言ってくれたことが、ひどく悔しかったけど、でもそれと同じくらい、…嬉しかったんだ。」


 そっか。
 そう返す以外に、どんな答えを返せただろう。
 どう言葉を重ねたところで、彼は揺らいでくれない。理解したくなくても理解せざるを得ないそれが、たまらなく悔しかった。










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