◎ あなたが教えるうそが嫌い
手を伸ばしては、引っ込める。さっきからその繰り返しだ。指の先には、装丁は綺麗なのに、それに不似合いなおどろおどろしいタイトルの背表紙がある。
(どうしよう…)
深緑の背表紙に小さく描かれた綺麗な妖精のような絵。それに惹かれて手を伸ばしてみたものの、タイトルが『ヨーロッパの怪談』だなんて。
私はとても怖がりなのだ。例えば、テレビでやってるホラー映画のCMですら未だに怖くて見れないくらいに。大げさだと周りに言われるけど、そんなものを見てしまった日には後ろに何かがいる気がして怖くて仕方がない。
美術部の私としてはこの本は見逃せない。しかし夜のことを考えると手を引っ込めてしまう。
(文章を読まなきゃ大丈夫、だよね。うん)
自分に言い聞かせて、意を決して本を取ろうと手を伸ばす、と。
「おい」
「っひゃあ!」
低い、空気を震わす声が背後から突然聞こえて、思わず悲鳴が漏れた。
バッ、と後ろを振り向くと、まず西日に反射する薄栗色のおかっぱが目に入った。顔は逆光で見えないが、氷帝の男子制服を着ている。一年生の悲しい性で反射的に内ばきを見れば、カラーは赤。二年生、先輩だ。
「びっ…くりした」
幽霊じゃなかった。
恐怖のあまりついうっかりそう呟けば、「はぁ?」と言う声が聞こえた。先輩に失礼なことを言ってしまったと気づいてももう遅い。よく見えないが表情は険しくなっていることだろう。
「お前、俺が幽霊だと思ったのか?」
「いや、あの…。す、すみません!びっくりしてしまって。こ、こんな時間に幽霊なんかいるわけないですよね!」
あはは、と一人分の乾いた笑い声が人気のない図書室に響いた。むなしい。気まずい空気から逃れたくてあわてて辺りを見回すと、氷帝ならではの無駄に大きな窓が目についた。さっきから西日がまぶしかったのだ。ちょうどいい、と礼をするように軽く顔を伏せて先輩の横を通り、カーテンを閉じる。そのまま何となく、そう何となく先輩の方を向いて、
目を見開いた。
すごく、綺麗な顔をしている。どちらかと言うと今風のイケメンではなく、もう少し古い時代の、美人という方が当てはまる。蛍光灯の明かりが届かない薄暗い中で、本を背景にした美しい先輩は、一枚の幽玄な絵のような、どこか非現実的な雰囲気を持っていた。彼のその薄い口の端が、にやり、吊り上がるのを見て、首を傾げた。
「俺は幽霊だぞ」
「っえ…、いやいやいやそんなわけないじゃないですか。制服着てるじゃないですか」
「去年ここで死んだからな。制服着てるのは当たり前だろ」
「え、でも…」
去年そんなことがあったなんて聞いたことない。けれど、嘘だ、とはなぜだか言い切れなかった。
それどころか、言われてみれば感情の読めない切れ長の眸とか、そのわりに妙に楽しそうに吊り上がった唇とか、何よりも妖しいほど綺麗な人であることが、どこか空恐ろしく、
「ひっ…!」
「バーカ。冗談に決まってるだろ」
長い腕が伸びて、前髪に隠れた額を軽くはじく。
いや、そんなわけないと思いましたけど。万が一ということもあるじゃないですか。
ぼそぼそと口の中で言い訳して、額をさする。やっぱりこの人は幽霊ではない。だって幽霊は人のことをからかうような意地悪なことはしないだろうし、もしデコピンしてきたとしても痛くはないだろう。
「お前、そんなに怖がりなくせにこんなところにいるのか?変なやつだな」
「あ、えっと…あの本が気になって」
「ああ、これか?」
一応民俗学の一部らしい、和洋問わず怪談話の類いが置かれたところにいる人は稀だ。私だって他の棚から戻るときにこの本が目に入らなければ早足で通りすぎていた。
するり、彼の長い指が抜き取った本の表紙を見て、ほぅ、とため息をつく。やっぱり綺麗だ。これは借りて帰ろう。
「それ、借りていいですか?」
「好きにしろ」
手を出すとあっさりと渡してくれて、失礼ながら意外だと思う。なんか一言からかわれるかと思ったのに。例えば、夜トイレに行けるのか、とか。普通なら初対面の先輩に対して思うことではないけど、今までの言動を思い返せば不自然ではない。
けど、もしかしたらいい先輩なのかな、と印象を訂正しながら一礼してカウンターに向かおうとすると、ああそうだ、という低い声に再び振り返った。
「この時間帯は逢魔ヶ時と言ってな。この世のものではないものと出逢いやすいらしい。気をつけて帰れよ」
今までで一番楽しそうに笑う先輩は、恐らく確信犯だ。ギシギシと音がしそうなぎこちない動きで首を傾げる。
「えーと…。冗談、ですよね?」
「残念ながらこれは本当だ」
す、と笑みを消されると途端に真実味が増す。えええやだやだ怖い怖い帰りたくない!
「ほら、お前の後ろにも…」
「っひゃあああ!!
背後を指さされた瞬間、ぞわわっ、と背筋が総毛立った。思わずしゃがみこめば、くつくつと笑って、冗談だ、と頭を撫でられる。
「もう、もう!先輩なんか嫌いです!」
「そうか、じゃあお前は一人で帰れよ。交差点には気をつけろ、あの世とこの世が交差する場所だ」
「真顔で言わないでください!」
くつり、最後にもう一度だけ笑うと、無言で手を差し出される。その硬そうな手のひらを凝視していると、無理矢理手を取られ立ち上がらされた。
「だから送ってやるって言ってるだろ」
ほら、さっさと借りてこい。
そう言って取り落としていた本を手渡され、ぽん、と背中を押される。
「…うそつき」
送ってやるなんて優しいこと、今まで一言も言ってないじゃない。
(もう、もう、)
なんであんなにかっこいいの。意地悪なくせに、うそつきなくせに。
「優しい彼氏ね、待っててくれるなんて」
司書さんのかわいい笑顔に、そんなことありません、と反論したのは聞こえたのかどうか。
あなたが教えるうそが嫌いお題:先輩な日吉くん
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