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 アンチスプリング

昨日着任した教育実習生がテニス部を担当するという話題に、一番に食い付いたのはもちろん千石だった。


「マジで?!どの先生?」

「名字先生だ」

「えー!それ女の先生じゃん!ラッキー!」


名字ちゃんかわいいんだよねー、と浮かれる千石を尻目に、他の面々はなんとも微妙な表情をしている。それは俺もだろう。名字など教えられたところで、正直昨日やってきた数名の実習生の誰になるのか全くわかっていない。むしろ昨日の今日で名前と顔を一致させた千石がおかしいのだ。
その名字先生とやらがどんな人かを勝手に語る千石に、いい加減うるさい、そう声をかけようとしたところで、控えめなノックの音が聞こえた。


「お、きたきた名字ちゃん」
どうぞー、と俺を差し置いて返事をした千石(まあいつものことだけどな!)に気を取られて、静かに部室の扉が開く瞬間を見逃した。


「はじめまして。これから一週間、よろしくお願いします」


頭を下げたその姿は、やっぱり見覚えがないな、そう思った。








「へえ、南くんって部長さんだったんだね」


「ええ、向いてないとは思うんですけど」


いつも通りにそう言えば、なんとも言えない表情をした名字先生は、嘘がつけない人だ。そんなことないよ、とか適当なことを言っておけばいいのに、何も言わずに困ったように笑う。全然大人らしくない人。
俺の知ってる大人は、悩みを話してみても、南くんなら大丈夫、とか適当なこと言うやつばっかりなのに。


「あ、でも南くん」

「はい」

「多分、自分に向いてないことができるのは、中学までだと思うよ」

「…は?」


よく、わからないことを言う。自分に向いてないことをするのが、まるでいいことみたいだ。


「大人になるにつれてね、何かをやってみたい、じゃなくて、何が自分に向いているかを考えて行動しなくちゃいけないの。できるかもしれない、じゃ通らないわ。だから、」


いいのよね、中学生。
そう言って眩しそうに俺を見上げた先生は、やっぱり大人には見えなくて、でも俺達と同じ場所にいる人にも見えなかった。


「先生、は、」

「ん?」

「その仕事は、向いていると思ってるんですか」

「…どうだろう。南くんから見てどう?私は、教師に向いている?」



ああ、やっぱりこの人は嘘がつけない人だ。この人はあまりにも教師らしくない。向いてないことなんて、多分この人が一番知っているのに。


「…向いてると、思いますよ」

「そっか…。ありがとう、南くん」


すごく嬉しいわ、と笑う顔はやはりどこか困ったような表情をしている。
なぜそんな顔ばかりなんだろう。もっとちゃんと、笑えばいいのに。
それとも、『大人になるにつれて、』笑えなくなってしまうのだろうか。


「南くん」

「はい」

「中学とか、高校ってね。卒業してしまうと、思い出を綺麗にしてしまうの。いやなところとか汚いところなんて、全部消えてしまう」

「はぁ…?」


そんなことが、あるのだろうか。そりゃあテニスは楽しいけど、学校ではいやなことだっていっぱいある。千石に怒ったり、亜久津に殴られたり、伴じいに叱られたり、東方とケンカしたり。そんなことも全部、きれいなだけになってしまうのか。


「信じられないって顔してる」

「…ええ」


そりゃあそうだ。そんな都合のいいことが、数年後の自分にも起こるだなんて思えない。


「今はそれでいいわ。多分わからない方がいいから」



風が彼女の結い上げた髪を揺らした。初日に髪を結ってなくて、部活後にボサボサになったとぼやいていた、長い黒髪。


「でね、そんなまだわからない中学生に、ずるい大人からお願いがあるの」


ずるい大人、だなんて。
自分で言ってしまうところがひどく滑稽で、笑いたいような気分になった。


「南くんのうつくしいその時代の中に、ひとつだけ、汚いところをつくって」


目を合わせることはせずに、どこか遠いところを見つめて、唄うようにちいさな声でそう言う。


「小さくていいの。小さくても、きれいな絵の中にひとつ、黒い点があれば、気づいてくれるでしょう?」


ふふ、なんてね。
今までの中で一番綺麗に笑って、去っていったその人に心の中で誓う。
俺たちと同じじゃないけど、大人らしくはなくて、でも確かにずるい。
たとえ千石に怒ったり、亜久津に殴られたり、伴じいに叱られたり、東方とケンカしたことも、全部全部忘れたとして。

あなたのことだけは、全て抱えていく。



アンチスプリング



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