睡眠 | ナノ
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 l'un et l'autre

 春から夏へと季節が向かうそれに、必ず通る梅雨という時季はあまり好きではありません。昔はなんとも思わなかったのに、今となっては顔をしかめてしまう、けれどその理由はわかっていました。
 あなたから頂いた真っ白い日傘が使えなくなってしまうから。そういったら、先生はどう思ってくださるでしょうか。


 いただけません、最初はそう告げたのです。
 私にはこんな純白は似合いません。先生が思ってるより、私はずっと汚いのです。
 そう、たとえば、私がこの日傘を受けとることを拒めば、その分私は先生と一緒にいられます。
 たった数分の時間と引き換えに、先生を傷つけることも厭わずに。
 そんなことを一瞬でも考えてしまったから。
 私にこんなきれいな色は似合いません、そう告げたけれど、先生は首を横に振るばかりでした。そうされてしまえば私はもう、いやだいやだと泣く熟しきっていない何かを見ないふりして、それを受けとるしかなかったのです。









 特別な日にだけつけていた、お気に入りの青いリボンを毎日つけるようになりました。

 初めて氷帝の校舎に入って、そして初めて榊先生に会ったときから、毎日が特別になったから。
 氷帝に入って過ごす日々はいつだってやわらかく光がかっていて、学校に行くのが楽しみになりました。毎日のように榊先生のところに通えば、新しくできた友人には呆れられ、そして、榊先生には少し怒られたことがあります。



「君は部活をしたり、友人と遊びに行ったりはしないのか」

「…なぜですか?」


 落としたり傷つけたりしないように、ゆっくりとピアノの蓋を下ろしながら首をかしげると、ふぅ、軽いため息が聞こえました。


「君はほぼ毎日ここに来ているだろう。それよりも友人と遊びに行ったりした方がいい」


 そう言う榊先生は少し困った顔をしています。それに私も困ったような表情を浮かべました。私には、榊先生のところに来る以上に楽しいことなど、何も思い浮かばないのです。


「榊先生は、私がここに来るのは迷惑ですか」

「私は別にかまわない。だが君は、」

「私は、」


 言ってほしくない、と思いました。
 『君は、』の後に続くのはなんでしょう。君はまだ中学生だ、もしくは、友人を大切にするべきだ、でしょうか。
言葉を突きつけられるたびに、胸が締めつけられる。言わないでほしい、そう願うことは、やはりずるいことなのかもしれません。


「私は、ここに来るのが一番楽しいんです」


 ぎゅ、と自分の手を握りしめてそうとだけ告げました。なぜだ、と問われても答えられはしないでしょう。私にはわかりません。ただひたすら、榊先生と一緒にいたい。そう思って、私はここに来ていました。


「…『幻想即興曲』は元々は発表されないはずの作品だった」

「…え?」


 唐突にそんなことを言い出した榊先生に、私は顔を上げました。
 音楽室で過ごす時間の中で、会話はそれほど多くありません。私たちの間にはいつも、花曇りの春の空のような、あいまいで、やわらかな時間が流れていました。だからこそ、私は脈絡のない話を始めた榊先生に驚きました。


「ショパンは『即興曲』を破棄してくれと遺言をのこした。しかしフォンタナは遺言に背き、『幻想即興曲』として世間に発表したんだ。なぜだと思う」


 謎かけのような問いに戸惑いながら、必死で頭を悩ませます。そのエピソードは知っていました。なんといっても自分の好きな曲です。
けれど、それに対して何かを考えたことはありませんでした。
 榊先生からの問いかけに答えられないことで、先生に失望されないか、そればかり考えて全く考えがまとまりません。気ばかり焦って思わず泣きそうになっていると、「では、」という榊先生の声が聞こえました。


「それは君への宿題だ。いつか答えを聞かせてくれ」

「え、あの、」

「ほら、そろそろ帰りなさい。下校時間だ」


 自然にエスコートされながら音楽室を出ます。また明日、そう言った私に、いつものようにその日一番の穏やかな表情で頷いて、そして重々しい音楽室の扉は閉まりました。







 今、私はあのときと同じように音楽室の扉の前に立っています。頭には今日の空よりも濃い真っ青なリボン、そして手には、卒業式のときよりも少しくたびれた白い日傘。
 いくつになってもこの日傘は似合っているとは思えませんが、この日傘を持って堂々と先生の前に立てるように努力してきました。
 ゆっくりと深呼吸して、以前よりもわずかに視点の高くなった深い樫色に手をかけました。


「お久しぶりです、榊先生」


 揺れる生成色のカーテン、ピアノの黒がずいぶん懐かしく感じました。優しい藤色のテーブルクロス、そして、先生。


「来ると思っていたよ。…ちょうど今日だ」

「はい」

ふ、と小さく笑った先生に、笑い返します。嬉しい。先生、覚えていますか。あの約束を。


「ねぇ、先生。宿題の答え、聞いてくれますか」

「ああ、もちろん」




 l'un et l'autre





thanks:admiration ou amour / のなかさん



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