睡眠 | ナノ
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 35℃の融解

 廊下にも暖房あればいいのに、なんて公立中学では実現不可能な望みを、ここ最近は口に出さなくなった。






「さむっ…!」


 暦の上では春です、なんて嘘だと思う。というか嘘らしい。明治の頃のお偉いさんが暦を太陰暦から太陽暦に移すとき、1月1日を当時の12月の始めにしてしまったのだという。理由は一ヶ月分の給料を浮かせたかったからだとか。なんてこったい。
 その話を聞いた時は多少腹が立ったけど、彼に話をすれば私の何倍もぶつぶつとぼやいていて、それを聞いていたら言いたいことを全部言ってもらったせいかすっきりしてしまった。
 だけど最近は、そんなこともできていない。
 付き合ってまだ一ヶ月だから多分倦怠期というわけではないし、私が彼を怒らせたわけでも、もちろん彼が私を怒らせたわけでもない。ただ、数日前のある出来事がきっかけで、ふたりで帰るのが気まずくなってしまった。
 こんなことなら言わなきゃよかったなぁ、と無意味なことを呟いても、かえってくる低くて澄んだ声は聞こえない。
 目の奥につんとくる何かに気付かないふりをするために、万年冷え症の指先をかじかませながらゆっくりと教室に向かった。






「は?いやがられた?」

「…うん」

「なんでよ?」

「知らないよそんなの……」


 最近変よあんた、なんていう友人殿に対して、ぽつぽつとその日のことを話した。今日はわざわざ彼氏と帰る約束を蹴ってくださったらしい。男前すぎる。


「あんた何て言ったの?ちゃんと教えた通りに言った?」

「教えた通りにっていうか…、普通に『手繋いでいい?』って……」

「まあそうよね、あんただし。言えただけ上々だわ。だってのに伊武深司のやつ…。相変わらずわけわからないわ」



 何度も何度も、そんなことないよ、とフォローしてきたけど今回ばかりはそれができなかった。本当にわからないのだ、彼のことが。
 彼は私のことは嫌いではないと思う。嫌なことは嫌だと、はっきり言う人なのだ。それで落ち込むこともあるけど、だから何も言われずに、ただ拒絶するように拳をつくられて、首を振られたことが不思議でならない。
 なんで?とか。聞けたらよかったのかも知れない。でも怖くてそんなこと聞けなくて、だけど口を開くと聞いてしまいそうになる。だから、今も一緒に帰ってるけど、何も話せなくなった。
 だって、万が一、嫌いだから、なんて言われたらどうすればいいの。

 いつものようにフォローできずに俯く私を見て、何かを感じとったらしい。彼女はそれ以上言及せずに、窓の外に視線を移す。


「あ、そうだ。明日雪降るらしいわよ」

「雪?まだ降るの?!」

「もう今年最後でしょ。ようやっと春めいてきたってのに、運動部は災難ね」


 なんてこったい!これは伊武くんに教えてやらなければ!
 そう思って立ち上がったところで、ハッと我に返った。
 そうだった。そんなこと話してられないんだった。私はバカか。

 力無く椅子に腰を下ろし、ぺたりとふせる。頬に当たった指先が、やたらと冷たく感じた。



 *



 コトン、コトン、少し大きめのローファーが人通りのない帰り道に響く。テニス部は毎日遅くまで練習しているせいか、もう日が落ちている。
 やっぱり春なんてうそだ。こんなにも寒くて、こんなにも暗い。


「ねぇ、」


 低い、声が。
 少しためらうように聞こえたのは、気のせいなのだろうか。


「て、つなぐ…?」

「………え?」


 今、なんて。


「…聞いてる?手繋ぐかって言ってるんだよ。…なんだよ嫌なのかよ。だったらはっきり言えばいいじゃん。あーあそうだよなぁ…。あんなことしたんだし当たり前だよな……。全く嫌になっちゃうなぁ…」

「え、いや、えっと、繋ぐ!繋ごう!」


 なんで今になって繋いでいいのかよくわかんない。だけど、なんでもいいと思った。彼の言葉は全て本音だ。それが信じられれば十分。


「……いいの?本当に?」

「あ、うん。もちろん!」

「…俺の手、冷たいよ?」

「え、私の手も冷たいけど、」


 そう言うと、一瞬きょとんとした後、ふぅ、と安心したように息をついた。その頬がわずかに赤い。

 もしかして、


「伊武くん、まさか、それで…?」

「…そうだよ。ボール渡すときとか、みんなに言われるから……」


 ふい、と顔を逸らして言う伊武くんに、私まで頬が熱くなる。大切にされている感覚が少しむずがゆくて、でもすごくうれしい。


「じゃあ…、はい」


 す、と手を差し出されて、ゆっくりとそれを重ねる。一瞬ひんやりとしたてのひらは、けれどすぐに同化した。


「ほんとだ…、指つめたい」

「末端冷え症だからさ。伊武くんは体温が低いんだね。てのひらが冷たく感じる」


 繋いだ手は、お互いの温度に驚くほどよく馴染んだ。あっという間に体温が同じになって、まるで元々はひとつだったような気までしてくる。
 伊武くんの骨張った手の甲に触れた指先から、ゆっくりと体温が上がっていく。伊武くんもそうだ。
 周りの空気まで暖かく、明るくなったように思えて、口唇を開く。


「ねぇ、伊武くん、」


 何から話そうか。明日は今年最後の雪が降るらしいよ?廊下寒くて教室出るのほんとやだ?あぁ、それとも、


「あったかいね」




35℃の融解



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