2、ザ・ロンゲスト・デイ
この巨大な校舎を目にするのも、随分久しぶりだ。
門に取り付けられているインターホンを押せば、事務の女の高い声が用件を尋ねてきた。
「宍戸亮先生はいらっしゃいますか」
*
「よう、跡部。待たせたな」
「ったく、待ちくたびれたぜ」
「しかたねーだろ、会議あったんだから。アポくらい入れろよ」
「宍戸みたいなヒラだったら暇かと思ってな」
「ハッ、さすがイギリス帰りの重役どのは言うことが違うな」
俺の嫌味をさらりと受け流した宍戸は、店員にアイスコーヒーを注文していた。慣れた様子で口から滑らすその言葉に、ふと考える。
宍戸がブラックを飲めるようになったのは、いつからだったか。嫌味に対してムキにならず、受け流すようになったのは。
最近、そう考えることが増えた。それは、覚えていないのではなく、空白の時間が長すぎただけ。高校卒業からの10年という空白は、下手をしたら俺たちが一緒にいた期間よりも長い。
「で、どうかしたのか、跡部?」
頬杖をついて、怪訝そうに首を傾げる宍戸に、言葉が詰まる。デリケートな話題だ。何から言えばいいのか。
「宍戸、は。」
「うん?」
「知っていたのか?」
「…忍足か?」
言い当てられたことに目を見開けば、やっぱりか、と眉を歪ませた。
「なぜ言わなかった。」
「聞かなかったからな。」
さらりとそう言って、店員から受け取ったアイスコーヒーをすする。屁理屈のような言葉に苛立ちが募った。
「お前らは知っていたんだろ。ならテニス部で集まっても忍足を呼ばなかったのはわざとか。」
「あれは実際忍足が忙しかった。なんつっても医者だからな。みなともいるし。」
「みなと、か…」
当たり前のように言われた名前に、無邪気に笑う少女を思い出した。俺が帰国するたび、忍足を除いた元テニス部で集まっていたそのとき、忍足は明確に俺の知らない存在と共にいたのだ。
それは、いまだかつて経験したことのない感覚だった。
「しっかし、会ったのか…」
「ああ、この間、視察先のショッピングモールでな。」
「…ああ、参ったな…」
「何がだ。」
心底困ったという風な宍戸に、おかしいと思う。なぜ学生時代のチームメイトと会うことに対してそこまで困るというのか。なぜだ、と聞くと、しばし言い渋ったあげく、宍戸はゆっくりと口を開いた。
「ジローがさ、今の忍足と跡部を、会わせちゃダメだっつって。」
「ジローが?なぜだ。」
「―――跡部は、今度こそ忍足を壊す、と。」
「は、」
俺が、忍足を、壊す?
そんなこと、できないのに?
「お前は、」
教鞭を取りはじめたおかげか、学生時代よりさらに通るようになった声が、呆然とした思考を打ち破った。
「忍足に執着していた、と俺とジローは見ている。だから、今の『あいつ』がいない忍足と会ったら、今度こそお前はあいつから忍足を奪おうとするだろう、と」
違うか?
そう伺う宍戸の瞳は、違うと言ってくれることを望んでいた。けれど、俺の感情は、宍戸の瞳を裏切っている。
この胸に浮かぶのは、紛れもない歓喜だ。
「…忍足の、今の住所は。」
「跡部!」
ガタン、と。
信じられない、という顔をして立ち上がった宍戸を、顔をしかめて見つめる。うるさい、と言わんばかりの表情を作ったのは、優越感からか。
「んだよ、元チームメイトの家を訪ねちゃいけねーのか?」
「違う!わかってんのか跡部!『あいつ』は忍足を捨てたんじゃない、『あいつ』は死んだんだ!」
その言葉は、俺の言葉を封じるほどの、重さを持っていた。
「死ん、だ…?」
「…ああ、五年前に、な。」
「五年…」
五年、といえば。
『ごさいです!』
「そう、湊が生まれて一週間後に、死んだ」
湊は、『あいつ』の忘れ形見だ。
それは。それは、もう。
「あいつは、ずるい…」
お前はずるい。お前を心底愛していた忍足の心から、お前は一生消えない。湊を見るたびに、忍足はお前を思い出す。
俺がお前に勝てることなど、この先一生ないのだ。
「…宍戸」
「なんだ?」
「忍足の住所教えろ。」
「跡部!」
「この一回切りだ。二度と会わねぇ。」
しばらく俺を見ていた宍戸は、やがてシンプルな手帳を取り出してさらさらと何かを書き付けて乱雑に破り取った。
「ほらよ。」
そういうと、すぐに伝票を持って席を立つ。もう呼び止める気がしない。
「忍足…」
お前が、何よりも大切だったんだ。
bkm