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 私の言葉に、少しだけ、ほんとうに僅かに瞼を動かしたけれど、先生はなにも言わずに息を吐いて私を見て、手のかかる子どもを見守るようなその視線に、ちょっとだけ気恥ずかしさを覚えた。結局寮には、相澤先生とミッドナイト先生の二人がかりで送られて、道中いくつか加害者の生徒や、当時の様子を聞かれた。とはいえ、ほんとにまじで面識がない、少なくとも記憶にもないので、あっさりとしたものだけだけど。謝るつもりはある、という伝聞には、もうどうでもいいと答えた。ここが普通の学校なら、揉め事を大きくしないためにもそこをなんとか、のゴリ押しでごめんね、いいよ、で終わらせるんだろうけど、天下の雄英さまは被害者の気持ちに寄り添ってくれるらしい。情勢を考えて学校から去ることは難しいけれど、少なくとも親呼び出し、謹慎と反省文等は課されるだろうと聞いたけど、もう関わることもなかったらそれでいい。

「眠れないなら、私の“個性”を頼るって手もあるわよ」
「うーん……でもそれって、夢は見るでしょ」
「そうね」

 内容もうすらぼんやりしか覚えていないけれど、目覚めた瞬間の不快さが嫌だった。自分を責める心が、夢という形に現れているんだとは理解してる。だから、眠ること自体が少し、怖くなっていた。

「カウンセリングや、外部に頼めば夢を吸うことも、あまり推奨はできないがコントロールすることも出来る」
「吸う?」

 コントロールはわかるけど、夢を吸うとは。ちなみに、夢をコントロールする“個性”は、依存性が強く脳への負担も大きいため推奨されないらしい。好みの夢を見させる“個性”なんて、そりゃあ便利だもんなあ。

「ああ。人間の脳の構造上、夢を見ないことはないが、その夢自体を吸い尽くす“個性”だ」
「へえ……」

 バクみたいな? と言えば、本人もバクに似てるわよ、とミッナイ先生が。それ微妙に悪口じゃない?

「ひとまず渡しておくわ」
「? かわいー瓶」
「私の“個性”を詰めたものよ。直接使うよりは効果が薄いけれど、それなりの効き目はあるわ」
「へええ」

 香りを詰める……なんかわかんないけど、めっちゃ高度な技術使われてんだろうなあ。便利。同性には少し効きにくいミッナイ先生の“個性”だから、慰め程度だけど、と一応ポケットに入れた。いつまでも眠れません、じゃ埒が明かないしね。
 寮に着いたら、ミッナイ先生がじゃあお大事にね、と帰って行った。チラリ、と隣に並ぶ相澤先生を見上げると、先生は靴を脱いで寮へと上がっていく。……え、上がるんだ。

「おまえ、飯食ってないだろ」
「……ああ、まあ。でもべつにお腹は空いてないよ」
「食事を怠って力が出ると思ってんのか」
「せ、先生に言われたくなさすぎる……」

 食うまで帰らん、と目で語られて、ええ……になる。そんな、なかなか強引な。先生はゴソゴソと学校から各クラスへ支給されているレトルト用品を漁って、その中からおかゆを取り出した。梅、玉子、鮭。みっつのパッケージを並べて、どれがいい、とのことだ。ほんとに私が食べるまで帰る気ないんだな、この人。

「……じゃあ、玉子で」
「わかった」
「鶏ガラと、ネギと、普通の卵も足してね」
「……わかった」

 微妙に返事するまで間があったけど、大丈夫かな、出来るかな。どうせ食べるならレトルトでも少し手を加えたものがいい。とはいえ、ここ最近の食欲減退で、食の細さに拍車がかかったから、最低限だ。肉味噌とか、大根おろしとか、いろいろ入れても美味しいけど、今はとてもじゃないが重たい。
 座ってろ、と言われたので大人しく椅子に座って待っていると、注文通りのものが出てきた。まあ、先生、不器用ではないし、食にあんまり興味ないとはいえ一人暮らししてたし出来なくはないんだろうなあ。

「ありがとう、いただきます」
「ああ」

 レンゲで掬ったおかゆに息をふきかけて少し冷まして、まだ熱いそれを口に入れた。……美味しい。一口食べると、忘れていた空腹が蘇った感じがして、ゆっくりと無言で食べ進める。……が、すぐにお腹がいっぱいになってしまった。レトルトのおかゆ、あんまり多くなくてよかった。ちら、と視線を上げると、机に頬杖を付いて先生は私を見ていて、気まずさと気恥ずかしさにまた視線を落とした食べ進める。ごちそうさまでした、と手を合わせると、先生の鼻が小さく鳴った。

「じゃ、風呂入って寝ろ。後のことは明日以降また連絡する」
「う、ん」

 食器は軽く水で流して、食洗機に放り込まれる。……さっきの、言葉。ここまでお世話されて、やっぱり誤解は解いておいた方がいいよなあ、と思って先生を見上げる。じゃあな、と帰ろうとする先生を、呼び止めるために手を伸ばすと、傾いた身体は軽く受け止められた。

「受け止めなくなったら、誰かに話せ。……俺じゃなくてもいい。おまえには、受け止めてくれる人間がいる」
「……うん」
「で、今日は寝ろ。寝れなくても、身体を休ませとけ」
「……うん」
「なんかあったら呼べ」
「……ん」

 ポン、と支えられた肩を、励ますように一度触れていく。やっぱり、この人は優しい。



 シャワーを浴びながら、ぼんやりと鏡を見つめた。もう何年も、生まれてからずっとこの顔だっていうのに、整いすぎた容姿は、未だにどこか他人のもののように見えてしまう。だからといって、前世の記憶も薄れて、友達や家族、自分の顔さえ、ぼんやりとしか思い出せなくなってしまった。……いっそ、こんな記憶、持って生まれなければよかったのになあ。
 前世は、“個性”みたいな特殊能力がなくて、世界のどこかでは日々争いがあったけれど、少なくとも身近にはなくて。ヒーローなんて職業も、夢のまた夢だった。

「ふー……」

 ちゃぷ、と温かいお湯につま先から沈めていく。肩まで浸かれば、日本人のサガなのか、一瞬全ての思考を飛ばすような、心地良さがあった。
 前世。そもそも、今となっては私の記憶にある前世が、本当に前の生での記憶なのかも怪しいところだ。もしかしたら、なんらかの“個性”で、前世の記憶というものを植え付けられただけなのかもしれない、とも思うことがある。……そんなんだったら、もっともっと、怖いけれど。
 揺れた水面に映る自分の、湯の中だっていうのに青ざめて虚ろな表情。……お母さんの訃報を聞いた時のお父さんも、きっとこんな顔をしていたんだろうか。最後に私が見付けた姿は、面影もない、変わり果てた姿だったから。首を括って死んだ人間の顔なんて、本当に見れたものじゃない。あの時、見ないように目を覆ってくれたのは、ほとんど記憶にないけれどベストジーニストだった気がする。

「……」

 粒になった水蒸気が滴って、ぽちゃん、と小さく音を立てる。お母さんの死を聞いて、すぐにお父さんは逝ってしまったから、彼の言葉も聞けていないけれど。きっと、私を責めただろうか。庇われ、守られ、生き残ってしまった私を。責めなくとも、私の代わりにお母さんが生き残れば、と考えていたかもしれない。
 たゆたう自分の瞳が、通り越して父の姿に重なり、気持ち悪さに慌てて立ち上がった。

「う……」

 ぐらり、と視界が歪む。うわ、最悪、のぼせた。寝不足、情緒不安定、自律神経バカイカレ中の長風呂だ。そりゃのぼせもするよねえ。ヨタ、ヨタ、となんとか浴室を出て、脱衣所に倒れ込んだ。暖房が効いてるとはいえ、湿度の高い浴室よりはまだ涼しい。ペタン、と座り込んだ床の冷たさが救いだった。このまま気を失うのがいっそ睡眠不足には効果的かもしれないけど、濡れた身体のままだと後が怖いし普通になんかダサい。変なとこで見栄が出てきてしまう。籠に入れたタオルに手を伸ばすと、なんとか端に指先を引っ掛けれたけれど、中身ごと一気に落ちてきた。大崩落だ。

「ん? なんの音……磨? 磨!?」
「えっ、えっ、磨ちゃんどした……え!?」
「どしたの……磨!? ……のぼせた!?」
「う、うるさ……」

 音を拾った響香が脱衣所を覗き込み、声を上げて駆け寄ってくる。ああ、今帰ってきたのかな、みんな。手を洗いに洗面所に来ていたんだろう女の子たちが、私の元に集まってきて、倒れ込んだ身体を支えてくれた。……ちょっと騒がしい。

「とっ、とっ、轟くんー!?」
「バカ葉隠! 磨まだ服着てない!」
「あっそうだった、ちょっと待ってごめんね待機で!」
「スポーツドリンクを持ってくるわ」
「とにかく、磨さんに服を着せましょう」

 なんとかタオルを巻いた身体を、お茶子ちゃんに浮かせられ三奈と響香、百の三人がかりで拭かれて、部屋着の厚めのタオル地のワンピースをすぽんと被せられた。もう、この際下着なんて付けてる余裕がない。ブラなんて、締めつけを考えただけで吐けそう。梅雨ちゃんの持ってきてくれたスポーツドリンクをストローで少しずつ吸って、パタパタとうちわで仰がれた。

「冷やした方がいいよね」
「ええ」

 浮かせられたまま、洗面所へと連れられて、ふわっと何かに着地する。目の前の肩に擦り寄れば、ひんやりと冷たい人肌が火照った身体を冷やしていった。

「大丈夫か、緩名」
「……ん? うん、うん……」
「大丈夫じゃねえよな、わりィ」

 ひた、と額に冷たい感覚。腰を支える腕は温くて、薄く目を開けると、首筋が。頭上から振る落ち着いた声は、轟くんのものだ。轟くんの右脚を跨ぐ形で座って、梅雨ちゃんが口元にスポーツドリンクを差し出してくれていた。

「髪乾かしてくね」
「轟熱かったらごめん!」
「大丈夫だ」

 背後から、数人の手が濡れた髪をタオルで拭い、静音のドライヤーを当てられる。至れり尽くせりが極まれりだな……。いろいろと、会話が飛び交っている気がするけれど、ドッと肩にのしかかる重さに、瞼から力が抜けていく。うとうとと微睡む私に気付いたのか、ぎこちなく腰のあたりを撫でるあったかい手の温度。このまま、意識を手放したら、まだいつもよりマシな気がして、目を閉じた。

「……磨、寝た?」
「みたいだな」
「磨さん……」

 人の声がするのも、いいのかもしれない。みんなの声は、安心するから。頭の中で反響するのは、せめて優しい声がよかった。
 額を冷やしていた手が、頬を滑り、温度を確かめるように首筋に触れる。冷たくて、心地いい。……なのに。
 身体を冷やしてくれるその温度に、人ならざる異形と化した母と、人としての終わりを迎えた父の姿が思い浮かんだ。

「ひ……っ!」
「っ、緩名、っ……ぶねェ」
「磨!?」

 反射的に飛び退いて、バランスを失った身体が仰け反り崩れそうになる。腰に回った腕がグッと力を増したおかげで、なんとか崩壊は免れた。けれど。

「ぅ、あ……ご、め」
「緩名、大丈夫だ……大丈、」
「ご、めん」

 心配の浮かんだいくつもの瞳を振り払い、逃げるように自室へ駆け込んだ。
 大丈夫。大丈夫。大丈夫。……大丈夫。



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