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「し、んそうくん」

 声の持ち主を呼ぶと、肩に回る腕の力が少しだけ強まって、すぐに離された。

「……行こう」
「えっ」

 どこへ!? という疑問は置いてけぼりで、心操くんに手首を引かれて歩き出した。後ろからは、彼女のお友達二人の謝る声と、遠巻きに囲うようになっている野次馬たちのざわめきをBGMに、心操くんに連れられて、黙って歩いた。脚の長さの差で、少しだけ小走りになる。

「緩名さん、……と、心操くん」
「ミッナイ先生」
「緩名さんと普通科の生徒で揉め事があったって聞いてきたんだけど……大丈夫そうかしら」
「あ、私は」
「突っかかってきた人はまだあそこにいます。……緩名は、保健室連れていきます」

 どうやら誰かが職員室に先生を呼びに行ってくれたらしい。誰か知らないけどありがとう。私の言葉を遮って心操くんが伝えると、ミッナイ先生は私の顔を見てから、少し目を細めて、そうね、わかったわ、と頷いた。

「また後で教師の誰かが向かうと思うけど、緩名さんをよろしくね」
「はい」
「あっ、はい」

 心操くんに倣って一応頷く。それから、私は連れてかれるのは保健室らしい。たぶんもう治ってるけど、そういえば引っ掻かれてたな。じんわり痛かったけど、やっぱり私もパニックになってたみたいであんま気にしてなかった。

 大人しく無言のまま付いていくと、すぐに保健室に到着した。道中いつも以上にめっちゃ見られたし、噂とか広まってるんかな。……私、自分で言うのもなんだけどそれなりに雄英内では人気だし有名な方だし、そりゃそうか。あ〜あ、なんかやな感じ。頭に上がっていた血が引いてくると、反動で落ち込んできちゃうこと、あるよねえ。
 保健室には不在の札がかかっていて、心操くんは不在か……と呟いて一応ノックをした。戸を開くと、電気まで落ちている。保健室に入ると掴まれていた手首は離されて、じわじわと残る熱の感覚に、なんとなく落ち着かない。パタン、と戸が閉まると、昼休みで賑やかだった外から切り離されたように静かで、一連の出来事をぼう、っと思い返した。……おまえが死ねばよかったのに、って、言われたようなものだよなあ、あんなの。話したこともない相手をそこまで憎めるほどに、道理を外れた言葉を向けたくなるほどに、あの人はスノーホワイトに憧れてたのか、と思うと、胃のあたりがシクシクと痛んだ。

「座りなよ」
「……」
「……緩名?」
「っあ、うん、はい、っわあ!」

 いつの間にか目の前に来ていた心操くんに驚いて、反射的に身体を引くとガタン! とけたたましい音を立てて保健室の扉にぶつかった。……このタイプの扉、ぶつかるとめっちゃうるさいから嫌だ。なんて、責任転嫁をしてみる。心操くんは目を丸くして、それからおずおずと私の手を取った。

「……おいで」
「う、ん」

 もう一度、手を引かれて、二人がけのソファへと導かれる。ソファに座ると、心操くんが濡れたハンカチをそっと頬に当ててくれた。冷たさに目をつぶると、優しく拭われていく。

「頬、血出てる」
「ん……でも、かすり傷だし、もう治ったし、大丈夫」

 そんなに痛くもなかったし、出血だって本当にちょろっとだ。手当をするほどでもないのに、心操くんは消毒を当てて、ぺたりとガーゼを貼ってくれた。ほぼ塞がった傷に対して、なかなか大袈裟だ。

「大丈夫じゃないでしょ」
「……」
「すぐ治るって言っても、痛いのは痛いんだろ」
「それは、まあ」

 でも、痛いのもそんなにだったし。だから、大丈夫だ。自分でも説得力が欠けていることはわなっているが、ばかみたいに大丈夫、を繰り返してしまう。心操くんがハア、と溜め息をこぼして、私の隣に並んで座った。

「気にするなよって言っても、気になるだろうけどさ」
「……うん」
「完全に八つ当たりだし、緩名が悪いとこなんてひとつもないだろ」
「……、……」

 うん、と言いかけて、できなかった。私に悪いところがない、なんて、今は嘘でも言えない。……だって、もう、なんもわかんない。
 私が悪い、と言いきれたらまだ楽だったのかもしれない。そしたら、自分を責めて責めて、潰れてしまえる。でも、いやそれは違う、と変に冷静な部分が、その思考にストップをかけてくる。ずっとモヤモヤ、ぐるぐる、マイナスな思考や感情が、出口もなく行き場をなくして燻っていた。ぎゅ、と自分の左手に右手の爪を立てると、薄い皮膚はすぐに破れて、ぷつりと血が滲んだ。

「なにしてんの。爪、立てるなよ」
「……や」
「や、って。痛いでしょ」
「……やだ」

 すぐに心操くんに見咎められるけれど、傷跡をグリグリと抉るのをやめなかった。もう、爆発しそうで苦しくて、外からの刺激でなんとか正気に戻したい。ハア、と心操くんはまた溜め息を吐いて、私の両手を強制的に剥がした。少しだけ静止してから、指を絡めるように両手を繋がれて、こっちなら爪立てていいよ、なんて言われて、違うのに。そういう話じゃない。自分にじゃなきゃ、意味が無い。う゛ぅ、と呻き声のような、潰れた声が捻り出された。

「も、ほっといてよ」
「……ほっとけるわけないでしょ」
「心操くんに関係ないじゃん」
「ああ、関係ないよ。でも、関係なくても、泣きそうな顔してるアンタを見過ごせるわけないだろ」

 少し怒った剣幕で、重たい紫の瞳には、ただ真っ直ぐな心配が乗せられていて。少し震えた声は、本当なら大声を出したいんだろうな、とわかった。それでも、こうして沈んでいる私を見て、怯えさせないように、耐えてくれているんだろう。……心操くんって、ほんとに優しいよねえ。優しくて、いい人だなって思うのに、その心配が……今の私には、重かった。

「……ほんとに、大丈夫だよ。ちょっと、今……なんか、アレなだけだから」

 三奈に、「嫌い」と言われた笑顔を作る。だって、これ以外、今の私は持ってない。心操くんは目を見開いて、それから少し長く目を閉じて、ハー、と長い溜め息を吐き出した。ほぼ向き合っている心操くんの頭が、そっと肩に乗せられる。心操くんが、こんなふうに接触してくるとは思ってもなくて、少しだけ驚いてしまう。ごめんね、と思うけれど、どうしようもできなくて、繋がった指に少し力を入れた。緩名の意地っ張り、なんて少し拗ねた声が聞こえてきて、フワフワした紫の髪が、頬を撫でてくすぐったかった。肩に渦持った温もりは、すぐにそっと離れていって、繋いだ指も解けていく。心操くんは、少しだけぶすくれた顔をして、ひっかかれた頬に、そっと触れた。

「泣けばいいのに」
「えっ、……泣かないよ」
「意地っ張り」
「そんなことないし」
「どうだか」

 意地っ張りではないと思う。わりと柔軟な人間だっていう自覚もあるもん。なんてやり取りをしていると、コンコンコン、とノック音が響いて、直後に保健室の扉がガラッと開いた。

「ハイハイハイ、ロマンスしてるんじゃないよあんたたち」
「エッ、ろっ、ロマンス……」

 リカバリーガールのなかなか古めかしい言い回しに驚いて、いやロマンスはしてない! と主張したい。どっちかっていうとピリピリだ。……って思ったけど、心操くんといつになく近い距離で座っていたことに気付いてしまう。心操くんも同じことを思ったらしく、急に立ち上がって、小さく私にだけ聞こえるような声で、わるい、と謝った。……いや、そんな反応されると照れる。

「頬の傷はどうだい」
「……あ、大丈夫。ほんとに、もう塞がってるし」
「他の怪我は?」
「ない、です」

 リカバリーガールが、確認するように心操くんに顔を向ける。心操くんが頷くと、そうかい、と言いながら椅子に座った。信用ないなあ。

「緩名、様子はどうだ」
「……先生」

 リカバリーガールに遅れて入ってきたのは、我らが担任相澤先生だ。しかめっ面は、心配の現れだろう。……どういう内容で言い合いになったか、とか、こういう時なんか学校の先生って知ってるんだよなあ。ああ、でも、心配されたくない。なんでだろ、相澤先生には、特にそう思うようになっていた。この人、気苦労が多いからかなあ。

「怪我の具合は」
「……へーき」
「そうか」

 眉間の皺が、ほんの少し緩む。ちょっとの安心の証拠だ。それでも、険しさを潜め持った表情のまま、先生は心操くんを見る。

「心操は教室に戻れ。もう五限が始まる」
「……はい」

 先生に促されて、心操くんは一度私を見た後、保健室を出ていった。す、と目の前に影が落ちたかと思うと、先生が私の前にしゃがんだ。合わせないようにしていた目を見つめてくるから、居心地の悪さにスカートへと視線を落とす。

「目撃していた数人から、事情は聞いた。今、加害者の生徒にも別室で確認している」
「……ん」
「一応、向こうは謝罪の意志はあるようだが……おまえはどうしたい」

 どうしたい、と言われても。謝罪なんて言われたところで、彼女の本心はさっき私に浴びせたものだろうし、謝られたら私の記憶が消えるわけでもない。……まあ、暴力行為へのけじめくらいはつけないとだろうけど。

「私は、」
「磨!」

 どうでもいい、と答えようとしたところを、ガタッ! と派手な音を立てて保健室に飛び込んできた存在に遮られた。

「三奈……」
「磨、」

 パタパタパタ、と足音が聞こえて、三奈の後ろから飯田くんと百が顔を出した。

「ぶん殴られて倒れて頭打って流血して運ばれたって聞いたけど大丈夫なの!?」
「……だいぶ脚色されてない?」
「噂なんてそんなもんだろ」

 たしかに最初ぶつかられた時に軽く頭打ったくらいはしたけども。流血、というか頬をひっかかれてちょっと血が滲んだくらいだ。誇張されてどっかで捻じ曲がって伝わってんな。廊下は走るな、という先生の注意に飯田くんと百がすみません、と謝っている中で、三奈が私の前に膝を付いて、頬に触れてきた。

「叩かれたの……?」
「ん、いや、避けたから、ちょっとひっかかれただけ」
「傷は? 残らない? 大丈夫なの?」
「そんな深いのじゃないよ、大丈夫」

 緩く笑顔を作ると、三奈の顔がくしゃりと歪んだ。……あ、またやっちゃった。「嫌い」って言われた時と、同じような笑みになったかもしれない。三奈は、ぎゅう、と私の手を痛いくらいに握りしめた。

「心配した……っ」
「……うん、ごめん」

 今回の件もそうだけど、他にもいろいろと。膝に縋り付いてきた三奈の、柔らかくて少し細い髪を撫でる。ちがうの、と言いながら、三奈がスカートに顔を押しつけてくる。それから、ひくっ、と細くしゃくりあげる声と、じわりとスカートに滲む滴の熱が伝わってきた。

「違う、けど……アタシもごめん」
「……うん」

 違う、が何を指すのかはわからないけど、一応の、仲直り、でいいんだろうか。……たぶん、きっと。仲直りなんだろう。様子を見に……というよりも、おそらく飛び出した三奈を止めるためと、クラスに様子を伝えるためだろう、委員長組の二人も、ここ最近のクラスの雰囲気を感じとっていた相澤先生も、少しだけ雰囲気を崩す。
 猫っ毛を撫でていると、さて、と先生が空気を切り替える。三奈もゆっくりと顔を上げて、先生を見た。

「もう予鈴が鳴る。おまえらは教室戻れ。緩名はまだ用事がある」
「はい!」
「芦戸さん、行きましょう」
「……うん」

 百に腕を引かれ、三奈が立ち上がった。目元を一度拭って、私の手を一度握りしめる。磨、と私の名を紡いだ唇は、けれどそれ以降繋がらず、震えた吐息だけが耳を掠めた。
 予鈴が鳴るのと共に、帰っていく三人を見て、ふー、と小さく息を吐く。なんか、疲れた。頭がグラグラする。寝不足のせいか熱くなっている額に手の甲を当てて、一度目を瞑ると、まぶたの中で目玉がぐるぐる回っているような心地になる。……うえ、ちょっと気持ち悪い。

「寝不足だね」
「……うん?」

 リカバリーガールの声に目を開くと、思いのほかすぐ近くにいたのでちょっとびびった。ノックバックすると保健室の壁に後頭部がぶつかって、ゴン、と固い音を立てる。地味痛。リカバリーガールもある程度事情を聞いているらしく、心因性の物だと判断されてしまった。知ってるよ、そんなの。知ってるけど、どうしようもないから困ってるんだ。

「カウンセリング、申請するかい」
「それはやだなあ」
「……あんたも、案外不器用な子だねえ」

 あんたも、の「も」は、誰にかかっているんだろう。重ねられた誰かを思い浮かべたくなくて、思考を放棄した。

「緩名、おまえ今日はもう寮に帰って寝ろ」
「……ん、そうする」

 送っていく、という先生に、んーん、と首を振る。

「そういうわけにもいかないだろ」
「ん、でも」

 相澤先生って、なんだかんだ、本当に甘くて優しい人だ。だから、きっと、先生に責任なんてほとんどないのに、今私がこうして絶不調になっていることに、負い目も感じているんだろう。過呼吸から目覚めた時の、心配で、悲痛そうなこの人の表情を思い出すと、またちくちくしくしくと身体の内側が痛くなる。

「……私、先生には、」

 イライラしてる自覚も、不安定な自覚もある。それでも、多忙でたくさんのものを抱え込んでいる相澤先生に、これ以上なにかをのしかからせたくなかった。だけなのに。

「心配されたくない」

 ……言葉選び、まずったなあ。



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