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 パキ、パキ、パキ、とひとつ多く頭痛薬をシートから割り出した。胃も気持ち悪いけれど、割れるような頭の痛みの方が耐えられない。舌に乗る錠剤の無機質さに嘔吐きそうになるけれど、無理矢理水で流し込んで、重たい身体をベッドに沈めた。目を閉じれば、静まり返った深夜のはずなのに、じー……、と低い静寂の音が耳を突く。完全にストレスが身体に現れている。寝た方がいいのはわかっていても、眠ることへの恐怖の方が大きかった。どんな夢かは、覚えていない。けど、目が醒めた瞬間の絶望だけは、しっかりと覚えている。
 「私」が「緩名磨」として生まれてきたことに、罪なんてない。そうわかっていても、それでも、私が私じゃなければ、「私」が「緩名磨」を乗っ取らなければ、どこかでなにかが変わっていたかもしれない、と今まで逃げてきた思考に囚われると、シクシク刺すようにお腹が痛んで、キュウ、と胸の真ん中が苦しくなる。
 「私」じゃなければ、お母さんはテロに巻き込まれず、死ななかったかもしれない。そうしたら、お父さんだって、自死なんて選択をせず、ただ狂うほど愛した人を今も傍で見ていられたのかもしれない。
 こんなこと、考えたところでどうしようもないし、時を戻す“個性”でもなければ、やり直すことだってできないのに、蓋の外れた不安感が、思考となって一気に押し寄せてくる。最悪だ、病んでる、本当に。



「……」
「おはよお、三奈」
「……おはよ」

 顔面装甲も完璧に済ませて、いつも通り寝癖を付けて降りてきた三奈に挨拶をする。いつもなら、溌剌と元気に眠たそうな声がかけられるのに、私の顔を見た三奈は、一瞬フリーズした。心なしか頭の角も元気がない。う〜ん、化粧で完璧に隠せてるはずなんだけど、ちょっと見抜かれてるな。ま、共同生活だし仕方ない。いやでも、女子は定期的に体調最悪になるタイプもいるし、私もそれがあるし、見過ごして欲しいところだ。

「およ」
「今日、磨の部屋、泊まるから」
「ええ? 今あんま綺麗じゃな、」
「泊まるから」
「あ、はい」

 ぎゅっ、と隙間なく抱き着いてきた三奈に、ごり押された。まあ、いいけども。……あ〜、寝たフリ……出来るかなあ。さすがに、魘されてたりしたら、さらに心配かけちゃうもんなあ。



 多少寝不足でも、“個性”の影響もあってか日常生活にも、ヒーローとしての訓練にも案外影響が出ないものだ。それどころか、微妙に追い込まれてるからか、いつもより“個性”の調子がよかった気がする。人間って不思議。無事実技訓練を乗り越えて、昼食はかなりオーガニックダイエッターって感じで世話を焼かれて、普段よりもうとうとしながら午後の授業を受けて。見慣れた寮が見えてきて、やっと帰れる、と気を抜いたのがだめだったのか、頭が鈍痛を訴えてきた。ちょっとがちキツめの、ぐろっきーなやつだ。

「……え、緩名、おまえ顔色ヤバ」
「んー」
「磨、大丈夫?」
「うん」

 寮までもうあと少しだ。三奈が支えてくれてるし、倒れるほどでもない。自律神経自律神経……と落ち着かせるために自分の太ももをタップしながら無心でいると、心配そうに三奈が覗き込んできた。

「ほんとに大丈夫? アタシ、磨くらいなら背負えるよ」
「俺でもいいし」
「んーん」

 三奈と瀬呂くんに緩く首を振って拒否を示す。ありがたいけど、申し訳ないけど、今まじで余裕がない。気を抜いたらほとんどからっぽの胃の中身を吐き出してしまいそうなの。ほぼ三奈の肩にもたれかかって、寮の扉をくぐった。……あ、ぬくい。暖かい風が、冷やされた身体を温める。普段ならありがたいそれが、今の、気持ちの悪い時には返ってキツかった。

「……? ……磨?」

 靴も脱がずにしゃがみこんで、ブワ、と鳥肌の立った私に気付いた三奈が、心配そうな声を出す。気遣わしげで、心の底から「私」のことを心配してくれている、その黒い瞳に、どうしようもなく居心地が悪くなって、逃げるように目をつぶった。気持ち悪い、気持ち悪い、……気持ち悪い。

「……やっぱ、なんかあったでしょ」
「……」

 今、いま、声をかけないでほしい。余裕がないから。なんかあったって? そりゃあるよ。いっぱい。人間なんだから。生きてるんだから、私は……人の分を、誰かの分を、奪って。ギュ、と握り締めたてのひらに、薄っぺらな爪が食いこんでいた。痛い、手のひらも、頭も、お腹も、心臓も、全部が痛くて、苛立ちに任せて、

「ねえ、磨」
「うるさいな!」
「え……」
「ちょ、緩名、」

 もう、もう、構わないでほしかった。大丈夫だから。きっと、たぶん、また、少ししたら元通りになれるから。思わずあげた大声に、三奈が驚いた顔をする。瀬呂くんが、私の肩を柔く掴んで宥めるように三奈から引き離す。……ああ。
 見開かれていた真っ黒な目が、金色の瞳孔が、きゅう、と細く細く、引き絞られて。ピンクの指が、固く結ばれた私の手のひらに触れて、強ばった指を丁寧に剥がしていく。傷跡はすぐに消え去ったけれど、うっすら血の滲んだてのひらを三奈が見つめて、私も追いかけるように自分のてのひらを見下げる。

「……磨はさ」

 ごめん、と切り出そうとして、震えた唇は、けれど音になる前に、潤んだ声が私を読んだ。

「なんにも話してくれないよね」

 少しトゲのある、でも、それより寂しさの上回るその声に顔を上げると、三奈が涙を滲ませてこっちを見ていた。その責められる顔に、忘れていた夢の中の母の顔を思い出して、心臓がドキリと嫌な音を立てた。……そっか。そうだ、夢の中では、あの人は私を責めてくれてたんだ。

「ご……めん」
「否定もしないんだ」

 ……否定は、できない。できなくて、だから、誤魔化すように眉を下げて笑みを向ける。最適解じゃないのはわかっていても、今の私には、笑顔で誤魔化すことしか出来なかった。

「そうやって、」

 涙で潤んだ三奈の声。キッ、と睨まれて、張り詰めていた空気が、いよいよもって耐えきれず、切れた。……ああ、泣く。

「そうやって、磨の笑って誤魔化そうとするとこ、嫌い……っ!」
「……ッ、」
「ちょ、芦戸!?」
「三奈ちゃん!?」

 バタバタバタ、と足音を立てて、三奈が私の前から走り去って行った。……嫌われた。初めて。今の世になってから、たぶん、初めて、親友と呼べる存在になった。三奈は、でもきっといい子で、他人の気持ちを思いやれる子だから、私がごめんねって、今は話せないけどいつか聞いてねって言えば許してくれるし、また磨大好き! なんて言ってくれる人だって、わかってる。けど、そんな子をあんな風に泣かせてしまったことが、自分でも思いがけないくらいショックで、全身から力が抜けた。ぺたり、と玄関の床の上に座り込む私を、瀬呂くんが支えてくれる。いつの間にか……まあ、寮の玄関で喧嘩なんてしてたら当たり前だけど、出来ていたギャラリーから、お茶子ちゃんや梅雨ちゃんが私のすぐ隣に来て、背中を擦りながら様子を伺ってくれている。……三奈を追いかけてったのは、響香たちかな。かも。ハハ、もう、周りなんて全く見えてないじゃん。あー、最悪。

「なっ、なにごと……?」
「喧嘩!? 緩名と芦戸が?」
「おい大丈夫かよ」
「……先生呼んだ方がいいのかな」

 ザワザワと一気に周りが騒がしくなる。そりゃそうだ。もはや恒例と化している爆豪くんと緑谷くんではない、クラス内の喧嘩。A組ってさ、ほんとにみんなめちゃくちゃ性格が良すぎて、喧嘩っていう喧嘩が勃発することがなかったんだよね。空気を悪くして申し訳ない、と思いながらも、本当にごめんだけど今はフォロー出来るような心境にない。

「……まァ、俺らには緩名の事情はわからんけど、アイツだってここ最近、結構悩んでたみたいだぜ」
「うん……」

 瀬呂くんがぽん、と肩を優しく叩いて、慰めだかなんだかわからないものをくれる。たしかに、三奈は心配してくれてただけだ。そこに私が、理不尽な怒りをぶつけたのが悪い。わかってるけどさあ。ぐっ、と唇を噛んで、流れ出そうになる涙も胃液もなんとか耐えた。

「磨ちゃん、顔が真っ青よ」
「ん……」
「っと、立てるか?」
「ん」

 瀬呂くんに支えられて、よろよろと身体を起こす。皮肉なことに、衝撃のせいかおかげか、さっきよりもだいぶ頭が冷えていた。シャキッと、とはいかないけれど、一人で歩くことくらいはできる。瀬呂くんの手を離して、投げ出した鞄を抱えた。

「ごめん、部屋戻るわ」
「……ケロ、ご一緒するわ」
「ううん、大丈夫。ありがとね」

 梅雨ちゃんの気遣いをやんわり断って、部屋へと向けて歩く。言葉もなく向けられるみんなからの視線は、ひどく心配げで、またズキズキと頭が痛んだ。……本当に、情けない。



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