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 聳え立つ重苦しい雰囲気の建物を見上げる。大罪を犯した者の牢獄として名を冠すこの場に、かつて、たくさんのヒーローを救った「あの人」が収容されているなんて、……あんまりいい気分にはなれないよねえ。普通の家族よりも希薄で、私にとって「前」の家族の方がよっぽど血縁として絆があったといえど、やっぱり血が繋がっている人だ。お腹のあたりに渦巻く気持ち悪さを振り払いたいのに、今にも降り出しそうな空色は寒々しくて、冷たい空気が頬を撫でるのに身震いした。相澤先生と並んで、塚内さんの背中を追う。カツ、カツ、温かみのない床を打つ靴の音が耳障りだった。

「こっちへ」
「はい」

 促されるまま室内へ入る。天井が高くて、大きなガラスで区切られている真っ白な部屋。監視カメラが複数目に付いて、奥にはモニター室の様なものがある。大きなガラスの向こう、拘束板に厳重に繋がれた存在が、見えた。

「緩名、俺も、」
「大丈夫。……どうせそこから見えてるんだから、大丈夫だよ」
「……」

 先生が付き添いを申し出てくれたけれど、漠然と沸き立つ苛立ちに任せて、少しだけ強く断った。あー、八つ当たりだ。八つ当たり、よくない。けど、本当に大丈夫……というか、親と一緒にいるとこって、先生とかに見られんの、ちょっと照れるじゃん。パタン、とモニタールームに繋がる扉が閉まる音を聞いて、ゆっくりと中心に添えられている椅子に座った。

「……」

 ……え、何言えばいい? やっぱり先生隣にいてもらった方が良かったかもしれない。話すこと、まじで浮かばんもん。困惑を顕にモニタールームへ顔を向けると、塚内さんが眉を下げて安心させるように微笑んだ。

「なんでもいい。君の話を、聞かせてあげてくれないか」
「う、……はーい」

 出てる出てる、アドリブの苦手さが。漫談しろって振られたわけじゃないけど、そんな、ねえ。母、にあたる人の、記憶や感情を揺さぶるような話をして欲しい、と言われたところで、微妙に困ってしまうのが実際だ。……黒霧と対峙した人が、どういう話題をしたのか聞いとけばよかった。

「ん……あ、あー、あ、」

 このままだと勇者ああああになってしまう。困惑した顔を再びモニタールームの方へ向けると、微妙に呆れたような、少しだけ張り詰めた緊張感の解けた顔を先生にされた。……仕方ないじゃん! 気を取り直して、コホン、とひとつ、照れ隠しの咳をして、そっと目を伏せた。

「……久しぶり……です」

 なにを言えばいいのか、正直に言ってまだ全くわからない。内容も、そうなんだけど。それよりも、どういう距離で、どういう会話をしていたかを、私は忘れてしまっていた。だって、最後に会話を交わしてから、もう5年以上経ってしまっている。その間、思い出すことも極力避けていて。意図的に遠ざけていた家族との記憶は、どことなく薄れてしまっていた。

「えっと、磨です。……わかるかな」

 斜め下を向いたまま、もぞ、と足先を擦り合わせた。うう、やっぱり、こういうの苦手だ。ローファーの先に付いた汚れを、カリカリと擦り合わせて誤魔化す。

「……なんか、今、雄英に入ってね。しかもヒーロー科で、……ヒーローを、目指してて。……」

 過去の私は、ヒーローに対しての興味関心も、なかなかに薄かったと思う。“個性”はそりゃあ楽しかったけど、どちらかというと自分が使える魔法みたいな能力への楽しさだ。最低限人に迷惑をかけない程度には、制御を教わったけれど、それ以上の手ほどきを受けた記憶もない。……この人は、たぶん、私がヒーローを目指すなんて、思ってもなかっただろうな。

「その……」

 私って、こんなにおしゃべり下手だったかなあ。いつもはわりとよく回る口が全然動いてくれない。言うことに詰まって、ゆっくりと顔を上げると、もう、面影すら残していない、異形の姿。温度も、人間の質感も無い。
 ブワ、と全身に、鳥肌が立った。

「おかあ、さ……」

 違う。この人は、「これ」は、最早母ではない。記憶が薄れてしまったと言えど、違うのはわかる。肉体が、器が同じでも、もう、「これ」は、ヒーロー「スノーホワイト」であり母であった、緩名強子ではない。
 脳が一瞬で沸騰して、バタン! と床に下ろした足が、大きく響いた。気持ち悪い。グルグルと視界が回っている気がする。気持ちが悪い!

「……緩名、」

 気持ちが悪くて、嫌で、いやで、たまらなかった。ムズムズと足の爪先から痒くなって、いやに落ち着かない。はっ、はっ、と荒くなった息を吐き出して、立ち上がった。ガタン! 椅子の倒れる音が響く。構わずに、分厚いガラスに近づいた。ガラス越しの「ソレ」は、無機質な機械のような瞳で、ただじいっと私を見ていた。

「緩名さん」

 指の先をガラスに付けると、その冷たさに少しだけ落ち着いた。冷静さを取り戻した脳みそは、要らないものまで遡っていき、……そうだ。思い出した。あの日、福岡で、荼毘と話した内容を。朦朧とした意識の中で語られたほとんどが、抜け落ちてしまっていたけれど。あの男は、荼毘は、「あの事件」の原因を、狙いを、「私」だと言っていた。

「あ、……」

 引き攣った吐息が、唇を震わせる。指先から、滴るように力が抜け落ちていった。もたれるようにガラスに額を付けて、ただの、「化け物」と化した、この世界での母と向き合う。
 ……悪いのは、そうだ、私だった。

 たとえば。
 私が正しく初めから緩名磨だったら。「私」という、前世なんて物を引き継いだ不純物のない、父と母二人の子どもだったら。拒絶もせず、たぶんきっと、癖のある人達だから距離はやっぱりちょっとあったかもしれないけど。それでも一緒に住んで、親子を、家族をしてたはずで。
 私が「私」だから、あの日、ちょっと大人びた誕生日プレゼントを、一緒に買いに行って。緩名磨がただの子どもだったなら、きっとこの人はヒーローよりも母親として、それでも傍にいてくれたかもしれない。変に大人びた中身のせいで、優先順位を変えなかったかもしれない。
 もしかしたら、“個性”だって、どっちかのを引き継いで、私みたいな、使い勝手のいいものではなかったかもしれない。そうしたら、狙われることもなかったはずだ。……私じゃなかったら。私じゃなかったら、全てが起こりえなかったのかもしれない。
 だとしたら。「この人」は私の、被害者だ。変わらず無機質で、温度のない視線。そう、でも、だって、こんなのじゃなかった。私の知ってるお母さんは、もっと、だって、優しさも、愛情も、全てを伝えてくれていた。壊したのは、

「ごめんなさい」

 ゴツン、と冷たいガラスに額を押し付けた。もうずっと、息が苦しい。鼻の奥が、目の奥が、喉が、煮えたように熱かった。

「緩名!」

 考えないようにしていた。深く考えると怖いから。
 ずっと、この世界に生まれてから。考えたところで答えの出ない問題を、考え続けられるほど私は真摯でもないし、強くもない。だから、頭の隅から追いやって、遠ざけて、見ないようにしていた疑問が、今更、嗚咽に紛れてせりあがった。

「なんで、“私”は生まれたの?」

 暗転。



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