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 もやもやとした気持ちを引きずったままのインターンは散々、とまでないかないけれど、ふとした瞬間に頭を過ぎってしまって、一瞬出遅れそうになることがあった。まだ出遅れそう、ですんでるけど、人命救助で出遅れた、なんてことはあってはならない。インターン生とはいえ、そこらへんは意識していきたいよね。気を引き締めないと、と思考を切り離して、インターンに集中した。ま、火曜の病院インターンでは、これでもかと詰め込まれる必要最低限の医療知識と、これ幸いと回された実務で他のことに気を回してる余裕なんてなかったから助かったといえば助かったけど。詰め込まれる知識も、例えば病名だったり、内科的なものよりも、外科の、それも「応急処置」に当たるものがほとんどだ。折れた骨ひとつとっても、治癒力を上げればいいってものじゃないもんねえ。体育祭の緑谷くんみたいに、骨が砕けてたりしたら手術をしなきゃだし。そういう事例に当たった時、私ひとりで判断できるようになるためのインターンだ。知識と実践をとにかく積んで積んで詰め込め! みたいなね。今の所私自身が手術に当たることはないと言え、覚えること多すぎて頭から煙でそうだった。暗記パンくれ。

「ふひゅー……」
「お疲れだなぁ、緩名」
「昨日からこの調子なんだよねえ」

 廊下の窓から差し込む光が、オレンジ色に教室内を照らす。ようやくやり終えたレポートに、シャーペンを投げ出して脱力して三奈の肩に凭れた。疲れた。

「うーわ、難しそ」

 出来たてホヤホヤのレポートを覗きこんで、瀬呂くんが軽〜い声を出す。めちゃくちゃ他人事な声色にむかついたので、瀬呂くんの手にあるフルーツオレを奪いとった。ぢゅー、と吸い上げると、優しい甘さが脳に染みる。フルーツオレってたまに飲むと美味しいよね。

「強奪じゃん」
「甘いもの飲みたいの〜」
「瀬呂がこれ系珍しくなーい?」
「あ、犯人おれおれ〜」
「アホじゃん」

 三奈の疑問はすぐに犯人の上鳴くんが自首してきた。上鳴くんに押し負けたらしい。なるほど。三奈に飲む? と少し噛んだストローを向けると、ぢゅう、と吸い上げた。

「イッキ! イッキ!」
「いやもうないし」
「あ、全部飲みやがったな」
「「ありがとー」」
「ハモってるし」
「芦戸と磨最近同一化してきてんだよね」
「……ま、いいけどネ」

 イッキを煽ったけど、対して中身が残ってなかったので不発だ。三奈のいいとこ見てみたかったな〜。瀬呂くんにお礼を言うと三奈とハモった。ハッピーアイスクリーム! 上鳴くんに奢ってもらお。

「……はあ、じゃ、私これ出してくるわ。先帰ってていーよ」
「アタシは着いてくー」
「じゃ、ウチらは先帰っとくね」
「おー、また後で」
「うい、ばいばーい」

 くるっと腕に腕を絡ませてくる三奈を連れて、みんなに手を振る。廊下に出ると、もう七限が終わって少し経っているからか、人気がなく静まり返っていた。

「はー、おいしいもの食べたぁい」
「わかる! 焼肉食べたーい。……あ、でもさー、最近ちょっと体重増えたんだよね」
「え〜? 筋肉じゃないの?」
「だったらいいんだけどさあ!」

 ぴったり触れる三奈の身体は、特に前と変わった感じはしない。三奈って運動量めちゃくちゃ多いし、“個性”柄太りにくくもあるからたぶん筋肉だと思うけど。お餅食べすぎて、なんて言われると、若干心当たりもあるのでなんも言えなかった。
 そのまま、ごはん、お菓子、美容、恋愛、お菓子、ダイエット、ごはん、と目まぐるしく数秒ごとに切り替わる中身のうす〜い話に笑っていると、職員室の少し手前で、三奈が止まった。

「どしたん?」
「や……んー……?」
「悩みごと? なんかあるなら聞くけど」
「うーん、っていうか、アタシじゃなくて……うん、磨さあ」
「ん?」
「なんかあった?」

 少し短めの眉尻と、連動するように二本の角がへにゃりと力をなくしていた。三奈の言葉に、ほんの少し跳ねた心臓をなんとか隠して、私も同じように眉を下げた。そこまで気負ってない、つもりではあったんだけどなあ。インターン始まってからは、切り替えできてるつもりだし。

「ん〜……なんか、やっぱり課題多くてさあ」

 嘘は吐かない。実際に、課題の多さに参っていることは事実だ。

「磨病院の方も行ってるもんねえ」
「うん。まあ、軽い実務研修くらいだけど、レポートと座学が鬼」
「ひゃー! もう聞くだけで頭痛くなってくる!」

 実際に、病院でのインターンは、秋にも行っていた。急な再開だったし、きの駆け足な感じも、なんかあるのかなあ、と勘ぐってしまわなくもない。私みたいな回復要員が、必要になるなにかが。……考えすぎだったらね、いいんだけども。

「……まァ、なんかあったらいつでも聞くからさ」
「ん、なんでも話すよ」
「絶対だよ! 磨ってたまに秘密シュギじゃん?」
「そーでもないけどなあ?」

 まあでも、秘密は女を美しくするって言うじゃん? って言うと、どこのベルモットだよと突っ込まれた。
 職員室の扉を開けて、相澤先生を探す。……あ、いた。ひらひらと手を振ると、こっちに気付いたようで、長い脚でスタスタと近付いて来てくれる。

「先生って脚長くない?」
「わかる。先生スタイルいいよね」
「何の話してんだ」

 先生の脚が長えって話してんだ。

「で、どうした」
「レポートで〜す」
「……ああ、早いな」
「早めに終わらせたいもん」
「磨そこらへんえらいよね〜!」
「……芦戸はもう少し緩名を見習いなさい」
「そうだぞー! 見習えー!」

 胸を張ると、先生も三奈も微妙な顔をして私を見た。爪の垢なら売ってあげるけど?

「……緩名、ちょっと」
「……はーい」
「え、なんか用事? ですか?」

 先生の呼び出しに、ああ、たぶん、お返事を促されてるんだろうなあ、と察して少しだけテンションが下がった。そうだよねえ。ちょっと考えさせて、と言ったけれど、そこまで時間的猶予があるわけではなさそうな雰囲気だったもんねえ。 あー、胃が痛くなってきた。

「芦戸は先に帰れ」
「え〜!」
「おまえも自分の課題あんだろ」
「……はーい」

 ぷくっと頬を膨らませた三奈がちらっと私を見て、先帰るね、とシュンとした。あてにする気満々だったな?

「まあ、帰って時間あったら助っ人するよ」
「やった! 流石磨」
「ふふ、じゃあまたあとで」
「うん! またね〜」

 三奈が走って行くと、先生がその背に「廊下は歩け」と声を投げた。職員室から走ってくの、まじで度胸ありすぎじゃない?



 ひやりと冷たい車のガラスに頭を付けて、どんよりとした曇り空を見上げる。まだ降り出してはいないけれど、午後からは確実に降るみたいだ。先生に返事をしてから2日後。二限目の終わりに呼び出されて、そのまま先生の運転する車に乗り込んだ。触れたガラスから伝う振動も、カチ、カチ、と車の音だけが静かに響く車内も、普段なら眠気を誘う心地良さのはずなのに、心がザワついて落ち着かない。ムズムズする足を擦り合わせると、先生が「寒いか?」と聞いてくれた。

「もう少し暖房上げるか」
「……ううん、だいじょぶ」
「寒かったら後ろにブランケットがあるぞ」
「うん」

 とはいえ、本当に別に寒くはない。外はだいぶ寒そうだけど。段々とチッ、チッ、とウィンカーの音がして車が曲がると、海、それから長い長い橋が見えてきた。既に民家や一般の施設も見えなくなっている、完全に隔離された地域。橋の奥には、今回の目的地である施設が見えて、唇の内側を軽く噛んだ。

「着いたぞ」
「……うん」

 橋を渡りきって、施設の手前で車が止まる。先生の声に、車を降りた。厳重な警備が敷かれていて、重苦しい雰囲気に、今すぐピューロでもディズニーにでも逃げたくなる。久しぶりに顔を見た塚内さんに、ぺこっと頭を下げてひとつ礼をした。大きな施設を見上げて、ふ、と小さく息を吐く。
 ……特殊刑務所、タルタロス、か。



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